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鶏鳴ヘーゲル原書講読会、開講

2018年10月15日 | 読者へ
     鶏鳴ヘーゲル原書講読会のお知らせ

 鶏鳴ヘーゲル原書講読会(略称「原書講読会」)という名前で、大学院レベルの哲学演習の会を始めてみることにしました。もちろん受講生がいなければ始まりませんが、私としての義務は果たさなければならないでしょう。なぜそう考えたか、以下に説明します。これまでの多くの失敗と少しの成功とを反省して引き出した結論です。

 組織としては、全体を本科(博士課程レベル)と予科(修士課程レベル)に分けて考えます。誰でもまずは予科に入って6ヶ月過ごしていただきます。

 ① 会の目的は「自分の考え方を確認し、更に発展させて哲学的思考能力を高めること」です。初等哲学講座としては、『哲学の授業』があります。それの目的は「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」としています。従って、中級以上の哲学修業では、単なる「自分の考え」ではなくて、「自分の考え方」を自覚的に反省するようでなければならないと思います。

 ② 入会希望者は、鶏鳴出版(又は牧野紀之)宛ての手紙で(メールではなく)その旨を伝えてください。その際、氏名、住所、電話番号、メールアドレスを知らせてください。読みにくい漢字にはカナを振ってください。
 431-2201 浜松市北区引佐町東久留木 307-2(鶏鳴出版又は牧野紀之)

 そうしたら、どういうものを出していただくか、返事を書きますので、それに従ってください。「何を求めて原書講読会の門を敲いたか」と題する小論文(2000字前後)をメールで送ってください、などといったことです。

 それへの返事を受け取って又、次の課題ないし質問をします。こうして何回か必要な対話をし、相互理解を深めましょう。かつての鶏鳴学園ではこういうことをしませんでした。患者の病状を調べもせず、病歴を聞きもしない愚かな医者みたいなものでした。

 ③ 会費は6ヶ月ごとに、前金で、1万円を郵便振り込みで送っていただきます。つまり、最初の6ヶ月が「申し込み期間」でもあるのです。ずいぶん長い「申し込み期間」ではあります。しかし、それは単なる「申し込み」ではなく、課題とレポートから成り立っている事実上の修業の始まりでもあるのです。そして、その後正式に入会となった場合には、その後も半年ごとに1万円の会費を前金で振り込んでいただきます。

 ここで会費の件について考えてみましょう。かつての鶏鳴学園は私の生活のためという一面を持っていました。あまり成功したとは言えませんでしたが、そういう目的があったのは事実です。しかし、哲学教育の理想から言うと、「会費で生活する」のは拙いと思います。どうしても、生徒に対して甘くなるからです。
 察するに、プラトンのアカデメイアは会費など取っていなかったと思います。当時は奴隷制社会でしたから、自由人に生活の心配はなかったでしょう。奴隷制がいいか悪いかの議論はともかく、これが哲学者を生み、哲学の発展に寄与したのは事実でしょう。
 今の私には、「これで食っていこう」という考えはありません。とても裕福と言える現状ではありませんが、幸い、最低の生活は出来ていますから。ではなぜ会費を取るのか。もし無料とすると、今度は逆の意味で生徒を甘やかすことになるでしょう。「タダだから冷やかしにやってみよう」という人も出ると思います。生徒に覚悟を決めさせる意味から考えても、有料の方が親切だと思います。

 昨今はボランティアが喧伝されていますが、私は無償ボランティイアにはかねがね疑問を持っています。もちろん尾畠春夫さんのように、自発的にそれをするというなら、否定する理由は何もありません。しかし、「自発」を意味するボランティア活動を「当然のこと」のように騒ぐのはおかしいと思います。
 かつて埼玉県志木市役所で「市民サポーター」とかいう名のボランティアを多数に導入した時、「働くのは週に2日以内、時給700円」という条件(たしか、サポーターたち自身が決めた)だったと記憶しています(間違っていたら、正しい情報を教えてください)。この「週に2日以内、時給700円」というのは、思うに、「ボランティアをする気はあるけれど、持ち出しは困る」という意味でしょう。私はこういう有償ボランティアが主流になってほしいと思っています。

 又、上に書きました本会の会費の金額が適当か否か、この点を含めて、生徒の意見も聞きつつ考えていくつもりです。本会では、会のあり方についても、生徒に言論の自由があります。

 これらを実行した上で、6ヶ月以内に、こちらで正式入会とさせてもらうか否かを判断します。残念ながら、入会をお断りする場合も出るだろうと思います。学問上の会ですから、それは仕方ないと思ってください。もちろん折角申し込んでくださったのですから、少しでも長く勉強してもらえるように出来るだけの努力はします。

 以上の説明でも分かるように、本会は基本的に個人指導です。会員が複数になり、能力的にもいわゆるゼミのようにやれると分かったら、スカイプなどを使ってゼミが出来たら有意義だろうとは思っています。

 ④ 修業の内容は、「学ぶ」とは「真似る」という語から来ていますように、基本的に、牧野の既に発表してあります論文や本を読んで、「これはどういう意味か」「これでいいのか」「他の考えはないか」といったことを一つ一つ考えて、その考えを大小の論文にまとめることです。

 画家を志す人はルーブル美術館で自分の学びたい大家の絵を模写するそうです。かつて日本の小説家志望者は、志賀直哉の小説を原稿用紙に書き写したそうです。
 少し前ですが、NHKTVの「日曜美術館」で名古屋城本丸御殿の再建を特集した番組がありました。それを見ていたら、絵画の修復を担当した人が、確か、狩野派の絵を描いていたら、「画家のその時々の気持ちが伝わってきた」と言っていました。また、『ラジオ深夜便』8月号の41頁では、芥川賞を取った若竹千佐子さんが「(デビュー前には)大好きな向田邦子さんの本を丸ごと書き写したりしていました」と語っています。
 まねをすることで、そこから学ぶものがあるのです。私の許で勉強したいという人は、私の考えた問題とその答えを追体験することから出発して、自分の考え方を作っていき、独立して行ってほしいと思います。

 ここで重要な点は、我々の哲学修業は「書き言葉主義」だということです。「白熱教室」のような口から出任せの「自由討論主義」は取りません。かつての鶏鳴学園では論文を書かせることがあまりにも少なすぎたと思います。

 尚、私の業績では「ドイツ語で発表する」という点が不十分ですので、哲学書や哲学論文の「和文独訳」にも力を入れます。

 ⑤ 勉強計画をあらかじめ出してもらい、調整します。勉強計画の立て方や論文にまとめるための準備などを身につけるのは本会での修業の初歩です。

 また、勉強の結果は毎週、報告してもらいます。これを読んで、正しく進んでいるかを判断し、必要な場合には忠告をするつもりです。「勉強は自分でするもの」ですから、こちらが教えることはしないようにします。これがこれまでの鶏鳴学園と大きく違う点です。

 ⑥ 先に会費の件でも述べましたが、それ以外の事でも、会の運営について疑問点が出てきた場合には、それを「哲学する」のが本当の哲学ゼミだろうと思います。その際、意見の違いはブログ論文「議論の認識論」(「マキペディア」2009年5月28日号)の原則に従って処理します。

 かつての鶏鳴学園でも、或る人が勉強の終わった後で、三里塚か何かの運動の署名集めをしようとしたことがありました。翌週、この問題を考えようと提案して、考えました。
 或る会に別の事を持ち込むというのは「当然のこととして」広く行われています。しかし、これこそ哲学するべきテーマの一つではないでしょうか。
 そもそも既存の運動に疑問を持たないのでしたら、それを実践すればよいと思います。理論的反省は必要ないでしょう。
 ですから、本来的な関係は、その運動を哲学勉強会に持ち込むのではなく、逆に、哲学勉強会で学んだこと、作り上げた自分の考えを、その運動に持ち込んで、その運動を発展させることだと思います。こういうのが「理論と実践の統一」の一つのあり方でしょう。

 こういう事もありました。吉本隆明の『共同幻想論』で読書会をした時、私が吉本を低く評価したのを不満に思った人が、第一ラウンドが終わって第二ラウンドまでの休憩時間に私の許に寄ってきて、「吉本は共産党に入っていたことはない。撤回してほしい」と発言したことがありました。
 この態度を、その後少し考えてから、授業で取り上げました。多くの人は随分びっくりしたようで、これは後々までしこりを残す事になりました(雑誌『鶏鳴』第33号に所収の「自己批判の自発性をめぐる討論」および『ヘーゲルと共に』に所収の「自己批判の自発性を考える」を参照)。
 この時の皆さんの態度を今考え直してみますと、多くの人は逃げ腰だったと思います。自分に都合のいい1点だけを取り上げて発言する人がほとんで、そこで問題になっているすべての点を取り上げて考えた人はいなかったと思います。
 こういう実際の問題を正しく考えられるようになるために勉強をし、ヘーゲルを読んでいるのだという事を確認するべきだったと思います。又、その時も、毎回、自分の意見を小論文にして提出させるべきだったと思います。

 要するに、本会では、こういう現実の問題を考えることにも力を入れます。と言うより、これこそが「哲学する」ことでしょう。「応用しない哲学は無意味」だと思います。いや、哲学だけでなく、どんな学問でも応用することが本当の目的だと思います。

 ⑦ 会の勉強に休暇を作るべきかは考慮中です。ゼミをするようになった場合には、会としての休暇を一応、設けた方が好いでしょう。しかし、一人一人の勉強には休みはないので、自分の計画に沿って修業をするものと考えます。

 ⑧ 一人の人の在籍期間はは、予科も本科も、それぞれ、最大で4期丸2年以内とします。予科の2年には「申し込み期間」の半年も含めます。予科の人はその間に本科に上がるか退会するかです。試しに6ヶ月間の申し込み期間だけ受けてみて、後は自分で勉強する、というのも自由です。
 本科生は2年以内に「卒業」するか退会するかです。

かつての鶏鳴学園では、年限を定めずにダラダラと続きましたが、間違っていたと思います。人生に限りがあるように、人生の個々の段階にも限りを付けた方が締まりが出来て有意義なものになると思います。本当にやる気のある生徒なら、先生から指導を受けるのは2年で十分でしょう。後は自分でやれば好いのです。他者から「芸を盗む」のは一生続けるとしても、です。いつまでも上下関係を続けるのは日本の学校の悪い習慣ではないでしょうか。

背景説明

 なぜこういう事を企画したか、私の考えは以下の通りです。まず、外面的な事情は次の2点です。

第1点。ネットで調べてみたところ、大学でヘーゲルの論理学の演習が行われていないのではないか、と危惧したからです。主たる大学のホームページを見てみましたが、そういう演習をやっていそうな感じがしなかったのです(もし私の推定が間違いで、ヘーゲルの論理学をテキストにしたゼミがあるのを知っている方は、お知らせください)。

 これはやはりただならぬ事態だと思います。私の少ない経験と知識に基づいてではありますが、やはり哲学修業の基礎としてはヘーゲルの論理学を一字一句読んで考えることが中心になると思います。このゼミはいつでもどこかでやっていなければならない事だと思います。それなのに、そのゼミがどこでも行われていないらしいのです。

 第2点。ゼミだけでなく、「邦訳全集」の出版でも、ヘーゲル全集は極めてお粗末な状態だということです。近世哲学の完成者とされる人の全集がそれに相応しい形で出ているとは言えません。岩波書店が2回にわたって全集を出しましたが、2回共に、内容がお粗末すぎました。『小論理学』などは2回目に訳者を替えて悪化しました。『大論理学』と『哲学史講義』は1回目と変わっていないと思います。
 最近、山口祐弘(まさひろ)がかなり精力的に翻訳していますから、いずれ全てを訳して、それを「全集」としてどこかの出版社から出すのかもしれません。もしそうならば、その努力自体は歓迎しますが、山口の訳は注釈がありませんので、決定的に不十分で、内容的な期待が持てません。

 英語圏でもフランス語圏でも「ヘーゲル全集」は出ていないのではないでしょうか。フランス語では『小論理学』の翻訳ではZusatzの訳を省いたものだけです。『大論理学』の仏訳でも同じ訳者が訳したものは「存在論」と「概念論」だけで、「本質論」は別の訳者が別の出版社から出しているという奇妙奇天烈な有様です。
 研究書も注釈書もいくつかありますが、「ヘーゲルの抽象的な表現の現実的な意味」を解明したものは、私の知る限りでは、皆無です。もし「これがある」と知っている方がありましたら、教えてください。

 たしかに私は「学問は一代、思想も一代」と言ってきました。今でもその考えは変わりません。しかし、この「原書講読会」は、各自が自分の哲学を作って生きてゆくための「基礎的修練の場」にすぎません。聞くところに依りますと、古武術家の甲野善紀の道場でも「教えるのではなく、各人が自分で研究する場でしかない」という話です。学問も自分でするもので、人から教わるものではありませんから、それを自覚している人が「芸を盗む場」と考えればよいのではないでしょうか。

 次に主体的な事情ですが、これも2点考えました。

 第1点。「教育」の仕事で私のし残している事は何かと反省してみますと、それがまさに「大学院レベルの哲学演習」だと思います。第1期鶏鳴学園はヘーゲルの原典を読みましたが、内容的に見て、とてもその模範を示したとは言えません。第2期以降は原書講読を省いて、哲学的テーマを考えるという方向に舵を切りましたが、これは完全な失敗に終わりました。

 その後、大学や専門学校の非常勤講師に戻りまして、そこでは過去の反省を踏まえて、ドイツ語教育でも哲学教育でも、「初等レベル」のそれに関しては、自分のものを作り上げることができました。しかし、それはあくまでも「初等レベル」のそれに関しての話です。大学院レベルの哲学演習で講壇哲学を上回る実践をしていません。

 『小論理学』(未知谷版)を出版した今、その欠陥を埋めようと考えたわけです。すると、「お前に残された仕事全体を考え、自分の健康を考慮した時、それが本当に可能なのか」という疑問が浮かびます。これが主体的条件の第2点です。

 これまでは周囲の人々には、「後十年は楽勝で生きているからな」と言ってきましたが、帯状疱疹と自家感作性皮膚炎に2年続けて足をすくわれた78歳の今、「楽勝で」という語句を削除せざるをえないと思っています。「一病息災を実行して」くらいに言い換えなければならないでしょう。そうすればまあ、後十年は仕事ができるかな、と思います。鬼に笑われそうですが。

 今回の「原書講読会」の受講生には「やる気満々」であることを条件とします。即ち、例えば次のような志を持った人だけが来てほしいということです。もちろんこれ以外の志でも、世の中のためになる真っ当な志なら、それで構いません。

──2031年のヘーゲル没後200年には仲間と一緒に「真の邦訳ヘーゲル全集」を出す。
──フクヤマの『歴史の終わり』とヘーゲルの歴史哲学とを比較して検討する。
──『関口ドイツ文法』で提起されただけで答えのない問題に答えを出す。
──真の日本語辞典を作る。
──三上文法を受け継いだ「三上日本語文法」のような包括的日本語文法書を出す。
──哲学教授になって大学を内部から改革する。
──学問的に優れた和書を独訳する。
──政治家になって「哲人政治」を実行する。
──日本の政治を変える「真のシンクタンク」を作る。
──実業家に成って真のシンクタンクを財政的に支える。

こういう志を持った方々とのゼミならば、負担になることもなく、「学問は一代、思想も一代」という考えとも矛盾せず、かえって若返って元気になれるのではないか、と考えました。
しかし、この会が幸い成功したとしても、最長でも10年後には止めるつもりです。2030年3月末には止めている、という事です。といっても、その間に後を任せられる人が育ってくれた場合には、その人に継いでもらうことも考えています。これが理想でしょう。

以上、鶏鳴ヘーゲル原書講読会の開講の挨拶とします。

2018年10月15日
                     牧野紀之


     関連項目

鶏鳴出版

ヘーゲル原書講読会の1ヶ月