マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

辞書編集者の資格

2014年05月29日 | サ行
 三浦しをんの「舟を編む」が、一昨年だったかな、本屋大賞をもらってから、ベストセラーになリました。昨年だったと思いますが、映画化もされました。そして、この4月26日にはNHKTVが「辞書を編む人たち」を放映しました。

 ここで描かれているのは、辞書の編集に精魂を傾ける人々への讃歌だと思います。あまり知られているとは言いがたい世界についての情報小説という役割も果たしていて、支持を広げているのでしょう。私もこの点を評価する者です。しかし、少しどころか、大きな問題点、いや、根本的な疑問点があります。これまでも書いてきた事ですので、繰り返しになる部分が多いですが、またまた、書きます。

 何が問題かと言いますと、国語辞書の使命を「語釈」に事実上、限定していることです。NHKTVの特集で名前の出てきました三省堂の「大辞林」(第3版)で「辞書」を引いてみますと、「多くの言葉や文字を一定の基準によって配列し,その表記法・発音・語源・意味・用法などを記した書物。国語辞書・漢和辞書・外国語辞書・百科辞書のほか,ある分野の語を集めた特殊辞書,ある専門分野の語を集めた専門辞書などの種類がある。辞典。辞彙(じい)。語彙。字書。字引」とあります。

 ここには「表記法・発音・語源・意味・用法」を扱うと並べていますが、実際上は9割以上の努力が「語釈」に注がれているのです。そして、その事の反省が全然ないのです。NHKTVの特集の中でも「語の使い方」を問題にする場面もほんの少し出てきましたが、それは文字通り「ほんの少し」で、「申し訳程度」と言ってよい位です。しかし、私見によれば、辞書の任務の4割は「語釈」だとするならば、次の4割は「用法」であるべきで、残りの2割が「発音」等に振り向けるべきです。そもそも「表記法・発音・語源・意味・用法など」と並列して事たれりとしている編集者は「語釈、用法(誤用法を含む)、発音、等の比重をどうすべきか」などという問題を考えたことがないのでしょうか。

 国語辞書は何のためにあるのでしょうか。これをしっかり確認するべきです。NHKTVの特集でも、こういう根本問題を口にした場面は出てきませんでした。それは「日本語使用者(外国人を含む)の日本語生活の中で起きている問題を考えるのに役立つこと」だと思います。

 こう考えれば、「国語辞書」(以下、辞典と辞書を同義に使います)の「語釈」(辞書編集者の大好きな語釈です)も考え直す必要のあることが分かるでしょう。大辞林の「国語辞典」の項目にはこう書いてあります。「日本語の語彙を一定の順序に配列し、それらの語義・用法などを日本語で解説した書物」。 これでは困ります。「イギリスで国語辞書と言えば『英英辞典』のことです」という日本語はないのでしょうか。あるはずです。ですから、「国語辞書」の「語釈」は、「その国の言葉についてその国の言葉で説明した辞書。日本の国語辞書の場合には、国語辞書という言い方は外国人のことを視野に入れていない言い方だとして、現在では不十分とする意見もある。外国人の事を視野に入れると、日本語辞書とか日日辞典と言うべきだ、という考えもある。これは国文法とか国史といった言い方についても同じである」くらいな事を書いたらどうでしょうか。

 辞書と文法との境界線も明確に引けるものではありませんから、文法的説明の必要な場合には、辞書でもそれに言及するべきでしょう。「新明解国語辞典」は「一番よく売れている」とか自慢していますが、今では「明鏡」に抜かれたのではないかと、想像します。明鏡は編者の北原保雄が文法も研究しているので、文法的説明が(不十分ながら、「新明解」よりは)多いのも一因でしょう。それに明鏡の方が版の組み方に工夫があり、見やすいです。

 こう考えれば、辞書編集者の資格は「日本語生活で起きている問題に敏感な事」となるはずです。辞書に関心がある程度では不十分です。まして、語釈しか念頭に無い人では失格です。大辞林で「ひしめく(犇めく)」を引いても、「ひしめき合う」というかなり前から沢山使われている言い方については一言隻句もありません。私のよく問題にする「募金」の意味の変化も「有名な逸話」も取り上げていません。このような鈍感な人が編集者では困ります。

 発音について言いますと、いま上に取り上げました「一言」には「いちごん」と「いちげん」の2つの読み方がありますが、使い分けの「一般的な基準」は何でしょうか。書いてありません。「無」を「む」と読む場合と「ぶ」と読む場合を区別する「一般的な基準」は何かの説明もありません。こういう基準は、多分、ないのだと思います。それなら「ない」と書くべきです。「分からない」ならそう書くべきです。

 こういう辞書などを作る人は、いや、学者や教授などは、「知らない」とか「分からない」と言う勇気や正直さに欠けていると思います。実際には、下敷きにしている親辞書があるのに、それについて黙っていて、まるで自分で全部作ったかのような顔をしているのも感心しません。これはかつて『暮らしの手帖』が問題にしましたので、今はなくなったのでしょうか。最近、研究者の不正が続々と明るみに出てきていますが、他者の説を借りたのに、出典を示さないのも「不正」の一種です。拙著『関口ドイツ文法』では、問題だけ指摘して答えについては私案も示していない(示せない)箇所が沢山あります。関口存男が墓の中から出てきて教えてくれるの待っています。

 ともかく、出版社の辞書編集者もその上に立つ学者も辞書編集者を取り上げる小説家もこういった事に無関心すぎると思います。いつになったら、これが改善されるのでしょうか。

         関連項目

辞書とは何か

真日本語辞典

日国ネット

北原保雄の辞書と文法

辞書は意味より用法を