マキペディア(発行人・牧野紀之)

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山内清訳「小論理学」について

2014年05月08日 | サ行
 先日、朝日新聞の読書欄でしたか、表題の訳書の広告が載っていて、びっくりしました。「好評増刷」といった語句もあったと思います。すぐにアマゾンで「小論理学」と入れて検索してみましたが、出てきませんでした。ヤフーを開いて「大川書房」で検索したら、出てきました。2013年の春に刊行されていたとは、無知を恥じました。

 「刊行物」欄を開けると、その「小論理学」があり、57頁分くらいがダウンロードして印刷できる、と分かりました。早速、実行してみました。「まえがき」とか一部の本文とか訳者略歴とかを読みました。

 読者も私と同様、予備知識(予備概念ではありません)をお持ちでないだろうと推定しますので、少し引用して、最後に感想を箇条書き的にまとめます。

 01、訳者まえがき(全文)

 最近ヘーゲルが人気です。弁証法という考え方にじっくり取り組みたいという人が多くなっているからです。従来の硬い直訳にかわる工夫をこらした新訳も何冊かでてきました。ヘーゲルのなかでは、『小論理学』が特に人気です。理性的に物事を考えたい人にとって、どんな順序で考えていったらいいかという方法論がぎっしり詰まった本だからでしょう。また、万事閉塞感がある現代日本で、既存の理論にあきたらず、現実社会を新たなパラダイム(枠組み)で考えようとする際、創造的アイデアの宝庫の本として、現在でもこれに勝る本はありません。

 しかし難しい本です。経済理論を専攻する私ですが、何度挑戦してもすっきりわかったという感じがしませんでした。しかし最近、理解できないのは、私の頭が悪いからではなく、現行版の『小論理学』の編集そのものに問題があるからではないかと思うようになりました。

 『小論理学』はヘーゲル47歳の時の『エンチクロペディ〔哲学諸学の要綱〕』(1817年初版)全三篇のうちの第一篇です。『エンチクロベディ』は最初はほぼ「本文」だけの本でした。1827年第二版で「注解」を増補する大改訂があり、本文も一部変更されました。1831年急死する直前に、第三版が準備され、その年ヘーゲル自身の第三版への序文をつけて出版されています。この第三版が一般には底本となります。聴講生向けの講義要綱が本来の性格ですが、昔から、ヘーゲルの本文や注解に、ヘニング聴講生(ベルリン大学教授)らのノートによる「口頭説明(Zusatzを山内はこう訳す〕」を補足した版が流布しており、グロックナ一版や現行ズールカンプ版はそうです。他方、ラッソン版のように、それを邪道視し、ヘーゲルの本文と注解だけにしたものもあります。

 しかし、現行坂のこのような構成が逆にヘーゲル論理学を難しくしています。読者はどうしても本文、注解、口頭説明の順に読むことになり、ヘーゲルの叙述で論理を追うことがおろそかになります。注解の多くは哲学一般に関するもので、論理の筋に関係ありません。口頭説明は大部分本文の一部の論理を拡大したもので、たとえ話が多く、わかりやすいのですが、それで分かった気になってしまいます。本文、注解、口頭説明が論理学としては木に竹を接いだような編集になっているのです。

 また、ヘーゲルの論理を追おうとすると、最初の長い序論(1~83節)が壁のように行く手をさえぎります。邦訳『小論理学』は例外なしに序文・序論から開始していますが、1節から18節までの部分は自然哲学や精神哲学を含む『エンチクロペディ』全三篇への序論であり、19節から83節までの部分は論理学への「予備概念」になっています。しかしこれらは、ヘーゲルの論理学を最後まで通した後で読むか、哲学の方法論として別途に理解した方がよいものです。純然たる論理学は先入観なしで、感性や具体例の表象を排除して、論理の叙述だけで進められるべきだからです。ヘーゲル自身そう言っています。「哲学における証明とは、対象がそれ自身によって、またそれ自身のうちから、現にあるようなものになることを示すことを意味する」(83節口頭説明)とあります。ましてことは論理学です。最初の概念から、その概念の展開だけで最後まで行き着けなくてはなりません。最初の「純粋な存在」がわかれば、次にそこから「無」が引き出され、次には純粋な存在と無から「成」が説明されるという順序で、最後の「絶対理念」までたどり着けます。哲学的教養は何一つ要りません。ヘーゲルも最初そのように「論理学」を仕上げたのです。だからヘーゲルの本文だけをつなげれば彼の論理学は素人にもわかるのです。それで本書は論理学の「本文」以外のものを一切省きました。

 そうは言っても、ヘーゲルの本文は実に難解です。それは講義用の手引き、レジメの文章だからです。ヘーゲルには出版された二種類の論理学がありますが、その読み解きにはもともと難しさがありました。『大論理学』(1812~16年)はヘーゲル哲学の質的量的に膨大な精華であり、論理展開も詳細をきわめますが、逆にそれが仇になって、全面的理解を困難にしています。彼の存在論の量論は研究者でも読み下せません。『小論理学』は『大論理学』の要約版の性格を持ち、全体像の把握には便利で、論理そのものの発展もあります。しかし、論理の筋だけでつないだ文章で含意を読み取りにくく、移行規定などやっかいなところは、論理の飛躍もあります。また、ヘーゲルのレジメの本文だけでは簡潔すぎます。たとえば、本質論ではたえず存在論の論理と比較しながら叙述するのですが、存在論の論理は要約的に叙述する傾向があり、初学者はその分を補足しないと真意がつかめません。また、主語がはっきりしない断定的言い方も多く、逆にくどいくらいの言い換えもあります。要するに文章としてバランスを欠いています。一般読者を対象にしながらも、レジメの性格を最後まで残したものです。しかし、ヘーゲルはレジメながら本文だけでもわかるように最初出版したのであり、その考えは死去直前の第三版でも変わりませんでした。まして「口頭説明」をつけて論理の思考を中断することなど考えなかったはずです。だから『小論理学』の論理を理解するには本文だけでたどるのが筋なのです。現代のわれわれには、注解や口頭説明、さらには『大論理学』もあるのですから、それを参考にしてレジメの本文を肉付けすれば、普通の理解力でもヘーゲルの論理を追うことができます。

 ヘーゲルの論理学は、第三部概念論まで展開しなければ意味をなしません。『精神現象学』の序文で「真理が現存する真の形態は、真理の学的体系をおいてほかにはあり得ない」といっているように、哲学は体系的に把握しなければなりません。『エンチクロペディ』も第二篇「自然哲学」や第三篇「精神哲学」までは無理だとしても、最小限「論理学」部分だけはともかく最後まで読み切らなくてはなりません。当然、解説し出版する際にも最低概念論までは示しておくことが必要です。

 また、『小論理学』を直ちにマルクス理解の観点から、ヘーゲルの観念性を指摘しながら読むことも広く行われています。しかし、その作業はヘーゲルをきちんと理解した上で行われるべきでしょう。ヘーゲルやマルクスを発展させるためにも、性急にヘーゲルをあげつらうのではなく、学ぶべきものは学ぶと言う態度で接したいものです。

 本書は以上のような立場にたって『小論理学』の論理を把握するため、ヘーゲルの「本文」の叙述に最低限必要な補訳と言い換えをつけて、本文だけでヘーゲルの論理がわかるように訳したものです。その際、ラッソン版のヘーゲル自身の「注解」やズールカンプ版(典拠はグロックナ一版)の「口頭説明」で利用できる表現は簡潔にくみこみました。訳文は岩波文庫松村一人訳を下敷きにして、樫山欽四郎(川原栄蜂担当)、牧野紀之、真下信一(宮本十蔵補訳)、長谷川宏、大北恭宏ら諸氏のものを参考にした山内のものです。諸氏の訳はそれぞれに良訳であり、先学のご苦労には本当に頭が下がります。

 『小論理学』を読みはじめて四〇年経ちました。専門の資本論研究のかたわら2009年に勤務先の「紀要」に本書の形式で発表したものが初版本になります。それに基づき数年前から個人的なヘーゲル読書会で講義する中で、初版本を徹底的に見直して本書にまとめることができました。ヘーゲル読書会は2013年も「存在論」をやります。読書会に参加された皆さんには貴重なご指摘と励ましを受けました。心から感謝申し上げます。出版を勧めてくれた大川書房にもお礼申し上げます。

 本書が読者の皆さんのヘーゲル理解の一助になるなら、私としてもヘーゲルヘの最大の恩返しになります。
   2013年3月
                                 山内 清

 02、訳者略歴

   山内清(やまうち・きよし)

1947年 山形県に生まれる
     国立平工業高等専門学校(現福島工業高等専門学校)を経て
1971年、東京教育大学文学部国語国文学科卒業
1975年、神奈川県立高等学校国語教諭
1977年、東京大学経済学部経済学科卒業
1984年、国立鶴岡工業高等専門学校助教授(経済学)
2001年、博士(経済学)号取得
2010年、国立鶴岡工業高等専門学校教授を定年退職

現 在 鶴岡工業高等専門学校名誉教授

著 作 『資本論商品章詳注』草土文化、1987年
    『価値形態と生産価格』八朔社、1999年
    『コメンタール資本論 貨幣・資本転化章』八朔社、2009年
    『古典へのいざない』学習の友社、2010年
    『均等蓄積率と再生産表式』大川書房、2011年
    『拡大再生産表式分析』大川書房、2012年

 03、牧野の感想

 本訳書には「ヘーゲルの本文だけで論理をたどる」という副題が付いています。「訳者まえがき」を読んでも、同じ事が繰り返し強調されています。では、「ヘーゲルの論理」をたどって、どうするのでしょうか。「まえがき」には「理性的に物事を考えたい人にとって、どんな順序で考えていったらいいかという方法論がぎっしり詰まっている」とありますから、「考える方法論」を知りたいのだろうと推測します。あるいは「万事閉塞感がある現代日本で、既存の理論にあきたらず、現実社会を新たなパラダイム(枠組み)で考えようとする際、創造的アイデアの宝庫」だそうですので、その「創造的アイデア」を得たいのかもしれません。まあ、立派な志と言うべきでしょう。結果を楽しみに待ちましょう。

 では実際には何をするのでしょうか。言わずと知れた「ヘーゲルの叙述で論理を追う」のです、あるいは「『小論理学』の論理を把握する」のです。そのためには、長い序論(1~83節)や本文、注解、口頭説明〔Zusatzのこと〕が論理学としては木に竹を接いだような編集になっていて、邪魔なので、それらを除去するのです。そうして「ヘーゲルの本文だけをつなげれば彼の論理学は素人にもわかる」のだそうです。すばらしい大発見です。ノーベル賞候補ですね。

 では、ヘーゲルを受け継いで「哲学は体系的に把握しなければなりません」と言う山内名誉教授にはその「方法論」で結局、何が分かったのでしょうか。

 曰く「方法と方法論とは同義である」ということ、曰く「ヘーゲルの観念性」という言葉で「ヘーゲルの観念論」を言い換えて好いということ、です。これが第1点です。しかし、これは間違いです。方法論と方法との混同は一般化していますが、ヘーゲルは混同していません。「観念性」と「観念論」との混同もヘーゲルはしていません。そもそもヘーゲルの「観念論」概念は現在の唯物論の観念論概念とは違います。

 第2点。「体系的把握」を重視する山内教授は1節から83節までを2つの部分に分けて、それぞれ、「エンチクロペディーへの序論」と「論理学への予備概念」としますが、「序論」と「予備概念」とはどう違うのでしょうか。いや、そもそも「予備概念」などという日本語はあるのでしょうか。私も鶏鳴版「小論理学」ではその語を使いましたが、その後反省しました。まあ、そういう「小さな」問題はさて措いて、84節と85節の「体系的位置づけ」はどうなのでしょうか。ヘーゲル自身が題名ないし見出しを付けていないので、自分では考えられないのでしょうか。山内教授は84節には「存在論のあらすじ」という見出しを付け、85節には「論理学の各規定と絶対者の規定」という見出しを付けていますが、これでは両者をひと括りにすることは無理でしょう。「創造的アイデア」は得られなかったようですね。

 最後に第3点。85節の冒頭の文の中に「論理的規定全般」という句が出てきます。ここは、山内教授の「下敷き」とされた松村訳は「論理的諸規定全般」とし、真下・宮本共訳は「論理的な規定は総じて」と訳していますが、わたくしの鶏鳴版は「一般に論理学で扱われる諸規定」としています。原文はdie logischen Bestimmungen überhauptです。「玄人」の山内教授に対して失礼ですが、何が問題かと言いますと、このlogischという形容詞を皆さんは無意識に、「特殊化形容詞」と取ったのですが、私は意識的に、「2格的形容詞」と取ったという事です。山内教授は40年ものヘーゲル研究の結果、「学ぶべきものは学ぶという姿勢」で、前者を学ばれたようですが、関口存男のドイツ文法は学ばなかったようです。