マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

近況報告

2013年08月29日 | 読者へ
 「重言論」を片付けてから、又「小論理学」(鶏鳴版)の見直しに戻り、先に進んでいます。今日でようやく、一応、第25節まで終わりました。全体の4分の1を終えたことになります。今更ノルマを自分に課す歳ではありませんので、目安としているだけですが。

 今回の事実上35年ぶりの見直しで考えた事を2つ書きます。

 第1は、「関口文法を勉強して好かったな」と、つくづく感じていることです。関口文法を勉強しなければならない、と思ったのは、どこかに書いたと思いますが、「概念論」(第1分冊)を出して、「こんなドイツ語じゃだめだ」と痛感したからです。結果として、大変な作業になってしまいましたが、私の目的はやはりヘーゲルとマルクスをもっと自信をもって読めるようになりたい、という事でしたし、今でもそうです。

 現状が「十分」だとは思っていませんが、今回の見直しで、やはり自分の進歩を確認出来たのは嬉しいことです。最近の例を1つ出します。

 第24節への付録3、ズーアカンプ版で88頁の一番上の行ですが、そこにこういう文があります。... , und es scheint hiernach, dass das Denken und Erkennen aufzugeben sei, um zur Rückkehr und zur Versöhnung zu gelangen.(従って又、〔先の統一に〕還帰して和解に達するには、思考による認識を放棄しなければならないかのように見えます)

 この下線部をこれまでは私を含めてみな、「思考と認識」と訳してきました。

・松村訳──思惟と認識を断念せねばならない
・宮本・真下訳──思惟と認識は捨てられなければならない
・速水訳──思惟及び認識が放棄される
・鶏鳴版牧野訳──思考と認識(思考による認識)を放棄しなければならない
・英訳──to surrender all claims to think or know

 このように比べてみますと、鶏鳴版だけは括弧して「思考による認識」を補っていますから、言い分けはできますが、それでも「思考と認識」を残している点で、「文法的には」分かっていなかったと言わざるを得ません。

 今回、これを考えていて、「関口さんが言ってたな」と思い出しました。それは「文法」の369頁に書いてあります「特殊な2語1想」の事です。そこ及びそれに関係した327頁の「修辞的錯構」の所を見れば分かりますように、私はこれまで、この「特殊な2語1想」の用例を自分では発見できなかったのです。しかし、今回このdas Denken und Erkennenがそれの例ではないかと考えました。

 内容的に考えますと、ここは「真理認識の3つの方法」として「経験、反省、思考」を挙げた上で、最後の思考を論じている所だからです。ですから、鶏鳴版で括弧して「思考による認識」を入れたのは、「内容は」分かっていたのですが、文法的理解がなさ過ぎました。

 関口さんの挙げている例の中から有名な「魔王」のものを引きますと、Wer reitet so spät durch Nacht und Wind ? (風吹きすさぶ深更の、野路を騎り行く者は誰そ)のNacht und Windがそれだと言います。これはdurch die windige Nachtをdurch Nacht und Windと「分けた上でundでつないだ」ものと解釈するのです。

 上のヘーゲルのDenken und Erkennenは1句にすればもちろんdenkendes Erkennenです。

 なぜこういう言い方をするかは次の問題ですが、その前に日本語にもあるのではないかと探してみたいと思っています。私の母は、何かについて「情けない」と評する時、「ナとサケがない」と言うことがありました。これは「2語」に分けていませんから、「2語1想」ではなく、強いて言えば「2音1語」でしょう。「簡明」を「簡にして明」などと言うことはあると思います。文献的証拠をあげることの出来ないのが残念ですが。

 もう1つは、今も考え続けている問題ですが、「小論理学」の第19節から第82節までの「内容的構成」がどうなっているか、の問題です。これは今まで、誰も問題にしなかったのではないでしょうか。ヘーゲル研究と言うか哲学界のレベルはかくも低いのです。私も35年前の鶏鳴版ではこれに、この問題にすら、気付いていませんでした。

 しかし、第24節で「客観的観念」という言葉を読み、「論理学は形而上学と一致する」という句を読んだとき、「あ、そうか、ここからは『存在論としての論理学』になるのだな」と気付いたのです。ということは、そこまでの説明は「認識論としての論理学」になる訳です。

 第26節以下の「客観に対する思考の3つの態度」は全体の中にどう位置づけられるのか、第79節から82節までの「論理的なものの3つの側面」はなぜここにここに、こういう形で置いたのか、といった問題は残ります。

 それを考えていましたら、その79節の前にはNäherer Begriff und Einteilung der Logikという題の付いているのに気付きました。それを見た途端に、「このBegriffは『2度目には一般化して言う』という法則(「文法」605頁)に基づいており、先のVorbegriffの言い換えだ」と気付きました。Näherer(一層詳しい)が付いているのですから、何に比べているのかを考えても分かります。

 鶏鳴版では「論理学についての一層くわしい説明」と訳していますから、少しは考えたのでしょうが、Vorbegriffを従来通り「予備概念」と訳していましたので、十分には分からなかったのでしょう。

 「現時点での」考えを書きますと、第1節から第82節までは、次のようになっていると思います。

 「哲学の百科事典」全体への「序論」(第1~18節)
 「論理学」への予備知識(第19~82節)
   第1編、認識論としての論理学(第19~23節)
   第2編、存在論としての論理学(その1、第24~78節)
    注解・客観に対する3種の態度(第26~78節)
      その1・これまでの形而上学〔認識論的反省を欠いた存在論〕
      その2・経験論と批判哲学〔存在論の認識論的反省〕
      その3・直接知
 「論理学」への詳しい予備知識(第79~82節)

 残る問題は以下の通り。

 ①「直接知」をその前の2つとどう「論理的に」関連づけるか。
 ②「詳しい予備知識」で論ぜられる「論理学の3つの側面、即ち、悟性的、弁証法的(否定的理性)、思弁的(肯定的理性)」と先の「客観に対する3つの態度」との関係や如何に。
 ③後年のヘーゲルは、先行する諸思想、諸方法の意義と限界を吟味した後に自分の説を出すのが常例なのに、ここではなぜ自分の考えを先に出したのか(最後の79~82節は後ですが)。

 こう見ても、「2度目には一般化して言う」という法則をしっかりと自覚していることはとても大切だと分かります。

 なお、全体については「序論」とし、「論理学」については「予備知識」と語を代えたのは、ただ、同じ語を使いたくなかっただけだと思います。Vorbegriffは関口さんが「予備知識」としていますし、「予備概念」などという日本語を新しく作る必要はないと思いますので、「予備知識」としました。「論理学の区分」はたった1つの節(第83節)ですが、やはりその前とは分けた方がよいのではないでしょうか。

 考えの途中で自分の意見を発表するのは、皆さんの意見を伺って又考えたいからです。よろしくお願いします。

 8月29日、牧野 紀之
コメント
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