マキペディア(発行人・牧野紀之)

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杉本栄子

2008年04月21日 | サ行
     杉本栄子

 水俣病の語り部。水俣病による健康被害、迫害による精神の傷。それを克服して「差別を受けたが多くの人に出会えた。水俣病はのさり(たまもの)」と語った。

 親交が深い作家石牟礼道子さん(81)は「水俣病という日本人の災難を引き受け、葛藤の末、哲学に結晶させた」と評した。

 「魚(いを)湧く海」と呼ばれた水俣沖で漁をする網元の一人娘。3歳から海に出て、漁の技量と網子に信頼される人間性をたたき込まれた。

 水俣病が奇病視されていた1959年に母親が発症。「表に出るな」と言われ、家には石が飛んできた。それでも父親は「恨み返すな」。いじめた人もやがて発症、「すまんかった」と言って死んだと聞いた。

 その後、父親も自身も侵された。頭痛とけいれんに悩まされ、10年近く入退院を繰り返し、自殺も考えた。

 根治する治寮法はなく、「食による病気は食で治す」と自然食を中心にした食生活に。また、「公害被害者が加害者になってはいかん」と減農薬でミカンを栽培。

 1980年に漁を再開し、無添加のイリコ作りに励んだ。

 長年続いた患者と住民、行政の対立を解消しようと1994年、当時の吉井正澄市長が地域のきずなを結び直す「もやい直し」を提唱。杉本さんは水俣病市民講座の講師を引き受けた。

 「病気やいじめの苦しさを乗り越えたら、自分の宝物になる」「人様は変えられん。自分が変わらんと」と語り、感銘を与えた。「彼女なしではもやい直しは進まなかった」と吉井氏は振り返る。

 1995年に市立水俣病資料館の語り部も引き受け、その哲学を伝え続けた。

 昨夏にがんが再発。今年1月、市内の産業廃棄物最終処分場計画に関する県主催の公聴会に、病をおして出席した。「水俣病で親が、自分が、子がやられた。二度と水俣市民を泣かせないでください」。それが遺言になった。
  (朝日、2008年04月18日。宮田富士男)

   感想

 私も水俣病患者たちの食べ物運動にほんの少し協力してきましたが、栄子さん夫婦のいりこやチリメンは特においしかったです。「絶品」と言ってもいいくらいだと思います。今でも、誰かが後を継いだようで、生産と販売が続いています。変わらぬ味です。これを食べるたびに(お会いしたことはありませんが)栄子さんのことを思い出すでしょう。