マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

現象学

2008年01月31日 | カ行
     現象学

   1、現象学という用語の歴史

 現象学 (Phaenomenologie)という用語は、フッサールに始まるのではない。

 カントと同時代者で、カントに影響を与えたといわれるランベルト (1728-
1777)が、その著『新機関』(1764)において用いたのが最初と言われている。

 その後、この語は哲学者たちにしばしば用いられるようになったが、その
内特に有名なのは、ヘーゲルの『精神現象学』(1807)である。ヘーゲルに
おいては、精神はさまざまの現象形態をとって発展するが、その発展を通じ
て、精神がみずからを自覚してゆく過程を追求する学が現象学とされている。
従ってそれは、精神の自覚形態の展開である「論理学」の予備学にすぎない。

 この語は、その他の哲学者にもしばしば用いられているが、その哲学者の
哲学的立場によって、その意味や哲学体系において占める位置などがさまざ
まに異なっていることは言うまでもない。

 しかしそれらを通じて一般的に言える事は、現象学とはものの「現われ」
に即して、それを記述する学であるということである。従って、ものの本質
や、ものの理性的なあり方を洞察する哲学本来の課題から言えば、現象学は
むしろその前段階ないしは予備学という意味を持っている。

 ところがフッサールにおいては、現象学は、哲学的諸学に究極的な基礎を
与えるもの、いわゆる「第1哲学」の位置を占めるものとなっている。

 そして、現在では、現象学と言えば何よりもフッサールによって創始され
たそれ、ないしはその影響の下にある哲学の流れを指すのが普通である。
 (細谷貞夫編『ブレンターノ・フッサール』中央公論社、世界の名著、
22頁)

   2、ヘーゲルの「精神現象学」

 ヘーゲルの言う「精神の現象(形態)」とは「意識」のことです。ですか
ら、その意識の動きと成長を叙述するのが精神現象学となるのです。

 個々の意識自身(感性的確信、知覚、悟性、理性等)は自分がどのような
過程をへて生成したのかは知らず、ただ自分の対象と取り組んで、それを意
識するだけです。ですから、その「自分の由来を知らない」という点から、
その意識の行為は「経験」と呼ばれるのです。

 しかし、その生成と没落は実際には必然的に進行します。そして、その生
成の由来を知っているのは哲学者たる「我々」ですから、それを学問的に整
理して叙述します。ですから、その叙述は「学」であり、これは精神現象
「学」と言われるのです。

 それは最後には(究極まで達した意識は)絶対知となります。それがヘー
ゲルの考える哲学的理解です。(牧野 紀之)

 参考

 拙訳「精神現象学」(未知谷)への付録に「ヘーゲルにおける意識の自己
吟味の論理」「恋人の会話-精神現象学の意味」などがあります。

   3、フッサールの現象学(01)

 〔フッサールの〕現象学は一口に言うと、一切の存在は意識の指向性によ
って意味として構成される、と考える哲学である。
 (細谷編、前掲書、36頁)

   4、フッサールの現象学(02)

 現象学は、この問題を「世界像の理論」としてとらえます。つまり、「正
しい」世界観を打ち立てるような理論ではなく、個々の人間がどのように自
分の「世界像」を編み上げていくか、そこでこの「世界像」の正しさの「確
信」がどのような「条件」に支えられているかという問題を、原理的に考え
ようとするわけです。
 (竹田青嗣著『自分を生きるための思想入門』芸文社、 155頁)

   5、ハイデッガーの現象学

 ここでハイデガーは、「現象学」を「現象」と「学(=ロゴス)」という
二つに分割し、それぞれを語源的に分析しながら、現象学の本義が何である
かを導く、という手の込んだやりかたをしている。

 ハイデガーによると、まず「現象」という概念は、何か「当のもの」がど
こかに隠れていて、それが仮象(誤った現われ方)とか、表象(代行的な現
われ方)とか、単にその存在を告知するだけとかいう仕方で「おのれを示す」
という意味を持つ、と。つぎに「ロゴス」の本義は、「当のもの」を隠され
ていた状態から暴露して、その「真」を見させる、という意味を持つ。

 だからこれを総合するとこうなる。現象学の本義は、つぎのように言い表
すことができる。「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自
身のほうから示すとおりに、おのれ自身のほうから見させるということ」
(アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ)、と。

 「存在」についての存在論的な問いにおいては現象学の方法が必須である。
これは『存在と時間』におけるいわば〝方法序説″である。
 (竹田青嗣著『ハイデッガー入門』講談社、36頁)

   6、フッサールの現象学(03)

 フッサールは、哲学や諸学を無前提な基礎の上に確立しようとする意図の
もとに、あらゆる先入見を排して「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!)
還って出発しようとした。

 従って、意識に直接明証的に自らを現している現象を記述することが彼の
現象学の仕事であるが、それは実証主義とは違い、事実ではなくて事実の本
質を直観によって捉えようとする。かように事実から本質の認識へ進む手続
きを彼は形相的還元と名付けたが、これだけではまだ真に無前提的なものに
到達することはできない。

 そのためには自然的な日常的な見方に前提として含まれている外界の実在
性、超越性について判断中止を行い、それらをカッコに入れることが必要で
ある。それとともに一切の科学も排去される。

 この手続きを彼は先験的還元と呼ぶが(以上2種を総称して現象学的還元
と言う)、かような還元の後に残る純粋な意識こそが直接明証的な根源的現
象であり、その意識の本質的構造を分析し記述するのが彼の現象学で、それ
によって彼は一種の観念論的認識論を説いた。
 (古在由重・粟田賢三編『哲学小辞典』岩波書店)

 感想

 これがこれまでの唯物論の立場からの理解であり、批評です。この理解の
欠点は、現象学は要するに観念論の1種だと言っているだけで、「認識する
前に認識能力を吟味しようとする」カント主義だという点を見落としている
ことだと思います。

 なぜこうなるかと言いますと、ヘーゲルのこのカント批判は、逆に言うと、
ヘーゲルの認識論は「認識しながら認識能力を吟味する」認識論だというこ
とであり、存在論でもある認識論だということですが、それは具体的にどう
いう認識論なのかを展開できないからだと思います。

 古在由重氏は『現代哲学』という名著を残しました。それは観念論批判と
しては立派なものですが、自分の弁証法的唯物論の認識論を積極的に展開し
発展させるという点では何の功績もありませんでした。

 なぜそうなったと言いますと、第1に、現実の問題を、特に政治的な問題、
革命運動の中での問題を1つ1つ認識論的に考えるということをしなかった
からだと思います。第2に、それは、自称社会主義の政治や政党の側が自由
な思考を許さなかったからでもあります。第3に、そして最も根本的にはヘ
ーゲルの論理学の現実的な意味を理解する努力と能力がなかったからです。

 その結果として、社会主義運動の中で公理となっている「理論と実践の統
一」とか「批判と自己批判」とか「統一戦線」とか「民主集中制」とか「価
値判断の主観性」とかが認識論的に、あるいは「真理の相対性と絶対性」や
「認識の客観性と媒介性」の問題として吟味されることはなく、それらの
「言葉」は正しく理解されることがありませんでした。これは社会主義が崩
壊して自由な思考が可能となった現在でも変わっていません。

 この点は竹田青嗣氏の場合も同じだと考えられます。氏は新左翼系の運動
に係わったようですが、現象学に走った時、それはかつての問題を解明する
ためではなく、それらの問題そのものを否定することになってしまったよう
です。

 そのため、文学的理解力に優れる氏は現代哲学の理解やヘーゲルの「精神
現象学」の理解において、文学的な方面だけとはいえかなり鋭い意見を発表
していますが、ヘーゲルの「論理学」は全然理解できなかったようです。そ
して、いまや、自分の理解力の低さを棚に上げて、それを「哲学としてはも
はやほぼ使い道のない過去の遺物」(竹田・西著『ヘーゲル・「精神現象
学」』(講談社)と評するに至っています。

 政治という人間が本当の姿で激突する場面で出てきた問題と格闘すること
を避けた「哲学」は哲学たりえないということでしょう。

 私見は拙稿「理性的認識論と悟性的認識論」(『ヘーゲルと共に』鶏鳴出
版に所収)、拙著『理論と実践の統一』(論創社)、『生活のなかの哲学』
(鶏鳴出版)、その他の中に書いておきました。(牧野 紀之)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする