気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・・何か?(6)世界は、意識で出現す

2017-04-03 06:10:10 | 意識の拡大
わたしが朝目覚めれば、世界が始まる。
これは、わたしから観た経験則である。
そうではないか?

わたしが目覚めなければ、「わたしの世界」は始まらないのである。

例え大勢の人が、夜通し起きていて、世界はまだあるよと言ったとしても、
それを聞く、知るところのわたしが居なければ、
わたしは、そこにまだ世界がある・・などとは言えないのである。


地球という世界に今回生まれてくる前に、
それがいままで存在していた・・という話を聞くまで、
人類の歴史の記録などというものを教えてもらうまで、
あなたはこの世界が存在していることを知らなかった。

これは主観論ではなく、全ての人にとっての経験則である。

小むつかし気な哲学、主観や客観の議論の範疇ではなく、
全ての「わたし」にとっての「経験則」なのである。
わたしが<気づく>まで、<意識する>まで、
わたしにとっての・・世界は存在していたとは証明できないのである。
そこにあるのは他人の説明である。
他人の意識の語ることが・・有るのみである。

あなたにとっても多分そうであろう。
あなたが目覚めているからこそ、世界が現れてくる。
言葉を変えていえば・・、
今の意識・・があるからこそ、世界・宇宙が認識できる。

世界や宇宙、身の回りの環境の出来事、・・そのすべては
わたしに認識されているからこそ、そこに有る・・のである。

深く眠っているときに、わたしは世界を知覚などしていない。
これも事実である。
そうではないか?

眠っている人を叩き起こせば、すぐに目覚めるのだが、
眠っている時には、「わたし」は世界を知覚していない。

無意識の時には、世界を知覚していない。
意識のあるときには、世界を知覚している。

そういう言い方もできよう。
また知覚していなければ、どうして世界、それが有る等といえよう?
いいや、言えるわけもない。

まったく最重要な、かつ基本的な事実なのだが、
決して世間や学校では教えない(笑)。

世界が先にあって、それぞれのわたしは「肉体」として、
親の元に生まれてくる・・という、親、他者の目線から、
いつのまにか自分を決めているということだ。

親愛のこもった親の目線が悪いわけではなく、
ただ、そこに見えるのが可愛い生きた肉体であるという、
そういう感覚が強いのである。

親にとって、社会の大勢の人々にとっては、
あなたは赤ん坊の「肉体」として、母親の子宮を通じて、
この世界に生まれてきたと言われる。

これは「あなた」にとっては、
あくまでも他者から教えられたことなのである。

あなたの赤子の時の写真を親から見せられ、
「こんなに可愛かったんだよ」と言われても、
それは親からの観測事実を、あなたに伝えているだけなのだ。

そういうこともあって、
大勢の人々が、わたしというものが、「肉体」であるとしているのだ。
つまり他人目線の意識から・・わたしを決めている・・。

生まれた瞬間に、あなたの「意識」が明確にそれを知覚しているのなら、
それは経験、事実と言っていいが、
赤子の時には<わたし>意識は未だ・・芽生えていない。
そうではなかったか?


ややこしいかもしれないけれど、
ここで説明している内容の「趣旨」は、

知覚する者がいなければ、知覚対象は存在しないということ。
そして、わたしの世界を知覚するのは、
<わたし>以外にない・・ということだ。


あなたの世界を観ているのは、隣のお兄さんではなく(笑)、
あなたの意識以外にない・・という、
当たり前のことを言っているのだ。


わたし・・という意識・・が無ければ、
わたしの世界は現れようがない。

大勢の人々、大勢の他の「わたし」がいるのを知覚しているけれども
それらを含め、世界、宇宙を知覚している<わたし>がいなければ、
どうして世界、宇宙が存在していると言えようか?

自己嫌悪やら、劣等感やら、罪悪感やら、
あなたも時々陥入る?心模様など、
まったくどうでも良い・・こころの「迷い遊び」である。

世界の誰かが、何かをしたとか・・起こしたとか、
争いだとか、賄賂だとか、これこそ新しい商品だとか・・・
・・それらが、
わたしの根源意識にとって、・・どうだというのか?


大宇宙、存在諸世界があって、
わたしは、その中のノミのような小さな存在などという観念、
そういう、マインド、歪んだこころのお遊びは、もう終わったのである。

いわゆる自己への無知の支配していたこの集合意識世界、
実は全ての存在の元・・突き詰めれば、
<わたし>という・・根源的意識の発露・・が無視され、
そのわたしが肉体でしかないという常識観念の蔓延した世界に生まれ、
そこから・・意識としての自らを思い出す過程は、
確かに・・なかなかのものである。

それから目覚めるのも、いわゆる時のかかることだし、
実に、なかなかのものではあるが、

既に<観の転換>がなされたからには、
例えれば、一度、富士山の遠景を観たものは、
たとえすぐにそこにたどり着けなくても、
もうそれを見失うことはあるまい。

わたしが・・在るからこそ、わたしの周囲、世界、宇宙がある。
世界というリアルな幻影、あるいは夢という別の幻影も、
それを観ている者は・・誰あろう・・<わたし>なのだ。

I am that I AM .