古い律法、新しい律法

 「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16-17)

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 パリサイ人が「取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」(11節)と言い、ヨハネの弟子は「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(14節)言う、そのような文脈において。

 パリサイ人の律法というのは、自らを律するものというよりはむしろ、他人に行ないをみせびらかし、また、他人を責めるためのものであった。
 それは、断食という行為にしてもそうで、人様にそれをせよというような類のものだろうか。
 律法のこういう解釈が、ここでいう「古い着物」であり、「古い皮袋」なのであろう。律法が、もはや律法本来の姿として機能していない。

 その、律法本来の姿を回復させに来たのがイエスである。
 その人に罪があるかどうか、義であるかどうかの基準として律法があるのだが、イエスの律法解釈(山上の説教参照)によれば、畢竟、肉を持つすべての人間が罪人と認定されてしまう。
 これが「真新しい布切れ」であり、「新しいぶどう酒」である。

 神の律法(例えば十戒)を見て、自分は守れている、そう思うのが古い律法であり、全く守れず自分は罪人だとわかることが新しい律法である。
 罪人であるからこそ救いを求め、肉を十字架で殺し復活したイエスに、その救いを見る。
 なぜなら罪はアダムの肉に宿るからだ。
 もし律法に照らして自分を正しいとすると、この十字架は全く不必要であり、その意味において両者は全く整合性が取れなくなってしまうのである。

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