黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

栗原氏へ―一連の「盗作」疑惑問題に関して

2008-09-09 10:09:42 | 文学
 もうこの問題に関しては少々「うんざり」していたので、僕からの発言は例え「逃げ」と言われても、基本的には「文学観の違い」なのではないかと思い、そろそろ止めようと思っていたのだが、ある人から栗原氏がご自身のブログで僕への反論を書いていることを知らされ(他にも「2ちゃんねる」で話題になっていると教えてくれる人もいました)、読んでみたところ、基本的な部分では小谷野敦氏の僕への「論難」と同じなのではないかと判断し、栗原氏には墓自分のブログでの僕への「反論」なので、僕の方からは「反論」しないと決めたのですが、それは「ネット社会の常識」に反する、と「谷」さんという方から教えられ、ならばもう一度僕の考えをと思い、ここに書くことにした次第です。
 まず、栗原氏は、僕が言及した「黒い雨」盗作疑惑に関して、言い出しっぺの豊田清史を批判した僕の文章を読んでから「反論」しようと思ったが、僕が指摘した広島で出ている雑誌「安芸文学」や「梶の葉」、「尊魚」を検索したが(僕の文章が)見当たらなかった、と言っていますが、「安芸文学」はもう何十年も続いている老舗の同人雑誌であり、「梶の葉」はあの「黒の試走車」などで一躍ベストセラー作家になった梶山季之の遺族からの寄付によって作られた期間限定(確か10号まで)の話題になった雑誌ですし、「尊魚」は福山市で出ている「井伏鱒二文学研究会」の機関誌です。僕に言わせてもらえば、少し時間をかけて捜せば、すぐ見つかる雑誌であり、僕も自分のブログでこれらの雑誌のことについては書いています。また、栗原氏は大江健三郎の「黒い雨」擁護の文章に触れていますが、その大江発言と「黒い雨」、豊田清史批判を結びつけた文章を僕は「国文学 解釈と鑑賞」(1994年6月号、因みにこの号は「井伏鱒二特集号」です。「黒い雨」盗作疑惑を問題にする栗原氏ならば、発端となった豊田清史の著書「『黒い雨』と『重松日記』」<風媒社刊>の刊行が1993年8月ですから、当然井伏没後1年に刊行されたこの手の雑誌には目を通していると思ったのですが、見落としていたようですね)にも書いています。なお、「安芸文学」や「梶の葉」、「尊魚」による豊田批判(併せて猪瀬直樹や谷沢永一批判)は1回だけでなく、栗原氏が取り上げた相馬正一氏なども執筆して、何度も断続的に続けられています。
 僕が栗原氏の「調査」は不十分だという意味のことを書いたのは、以上のような事情によります。
 次に、僕が堀田善衞を「戦後文学の巨人」と書いたのは僕の評価でしかなく、堀田氏がいくつかの作品(世上評判が良かったものを含めて)で「盗作・盗用」していたのではないかという疑惑は、現代文学研究者の間でよく聞かされた「噂」で、僕は前にも書いたように、当事者の1人からそのようなことを直接聞かされたことがあったから、「盗作」問題に関心のある栗原氏(及び小谷野敦氏)は当然知っているだろうと思い、知っていながら御著書に書かなかったのは何故なのかな、とおもっただけです。「H氏」と匿名にしたのは、堀田氏に関する情報が「噂」の類であり、僕が尊敬する作家の一人だったからに過ぎません。他意はありません。
 3番目の立松和平「光の雨」事件に関して、僕が何故直接本人(及び関係者)に取材しなかったのか、と言ったのは、確かにこの「事件」は栗原氏の言うように「マスコミ主導」で作り上げられた感がありますが、その「マスコミ主導」がどのようなものであったのか、決着はどうなったのかを調べれば寄り深い理解が得られたのではないか、と思われたからです。また、この事件によっていかに立松和ヘリという作家が「傷ついたか」、そのようなことについてもフォローしていただきたかった、と思った結果に過ぎません(このように書くと、そんな「文学的」「評論家的」なスタンスでこの本を書いたのではない、といわれそうですが)。その後の立松の著作にはこの「事件」について、いろいろ書かれています(僕も公には「立松和平伝説」河出書房新社刊や「光の雨」文庫本<新潮社刊>の「解説」で書いています)。
 なお、栗原氏はこの「事件」に関して立松が「法廷で争うという選択肢を自ら捨てたのだから」と言っていますが、この「事件」の決着は坂口弘の弁護人=代理人(NHKに最初に「盗作」云々とリークしたのではないか、と言われている人物)と立松が依頼した弁護人との「話し合い=協議」でついたということがあり、ですから立松に何故「直接取材」すべきだったと僕は思ったのです。
 後は小檜山博の件など、僕は毛頭「なかったことにしよう」などとは思っておらず、先にお会いしたとき、同席していた出版社の方々共々、「<原作>を書いたと言われる主婦の方に北海道から茨城まで会いにいき、そこで謝罪したのだから、もうごたごた言わず、自分の非を認めた上で、更に作家として精進すべきなのではないか」と進言しました。僕は、小檜山博を擁護するために小檜山の「盗作」事件について書いたのではなく、栗原氏がたった2つの(「毎日新聞」が出した)情報だけで事件を報じたことことに対して苦言を呈したかっただけなのです。小檜山事件については、小檜山が勤めていた北海道新聞やその他のメディアも繰り返し言及していました。それなのに、何故?と思っただけです。もちろん、小檜山の「事件」など「小さい」ものだから、そんなにはスペースを割けない、という考えもわからなくはありません。しかし、また「文学的」「評論家的」と言われるかも知れませんが、事件の当事者にとって、例えば栗原氏のような取り上げられ方をすることがいかに辛いことか、そのことを知ってもらいたくて、「小檜山氏は自殺を考えたという云々」と書いたのですが、ご理解いただけなかったようです。
 以上です。
 後は、繰り返しますが、「文学観」の違い、創作(表現)と言うことに関する考え方の違い、「情報」についての考え方の違いなどによって、今度の「大騒動」になったのだと思うので、もうこれで僕は止めます。例え口さがない「2ちゃんねる」投稿者たちに何を言われても、です。しかし、最後っ屁のように言っておきたいのは、「2ちゃんねる」というのは、何故あれほどまでに「下品」なのでしょうか。訳知り顔によくもまああれほどの「デタラメ」を書けるものだと感心しました。率直言って、あのようなサイトに入り浸っていれば、感覚が「おかしくなる」のではないかと思いました。
 谷さん、これでいいでしょうか。

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25 コメント

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Unknown (yousuke)
2008-09-09 22:08:36
匿名だとああなってしまうんですよね。
2ちゃんねるなど気にしない事です。
見るだけ時間の無駄です。
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Unknown (John Doe)
2008-09-09 23:28:04
どうもここまでのところ出てきていない話のようなので、立松氏とご懇意と聞く黒古先生には『二荒』の件についてどうお考えなのか伺いたいです。立松和平も山崎豊子同様に「同じことを何度も繰り返す人」のようですね。よもや立松氏の今回の弁解を素直に信じる人がいるとは思いませんが。

> もちろん、このように書いたからと言って、
> 僕が「盗作」を認めるということではない。
> ただ、「事実に忠実に」という思いから、
> 無意識のうちに「原作」と近い表現を行って
> しまう(立松の「光の雨」の場合など)
> ということもあり、

立松の『光の雨』がそのような場合に該当するのだということはどのようにして論証されるのでしょうか? まさか「本人がそういったから」ではありませんよね? だとすると、盗作かどうかという問題が究極的には意識や無意識といった個人の内心の問題になるというのはその通りだとしても、なぜ黒古先生は立松の真の内心がわかると思い込んだのですか? たとえば刑法の場合でも故意の有無は最後は内心の問題ですが、だからといってその内心が本当は如何なるものであったかを知りうる認識的特権者などいません(唯一その特権を持っているかもしれない犯人本人は故意を否定するに決まっているのです)。しかし、刑法の場合には特権者の不在を受け入れつつ、しかし客観的・合理的に推定するという形で故意という内心の問題の認定は行われます。内心は本人にしかわからないといって故意を否定していたら社会的営みとしての法は成り立ちません。「文学」も結局はそうなのです。それが最終的に内心や主観の問題に行き着くのだとしても、人とそれについて議論するという社会的営為に於いて(特にそれが学問として行われる場合には!)、「内心」への勝手な退却は許されません(それが出来ないのであればもはや学問でもなんでもないので学に携わる職としての大学教授を辞されて評論家として生きられるのが自らの「文学」観に忠実であると思います)。

他人が立松氏を批判するときには、内心は誰にもわからないといいつつ、自分が擁護するときには立松の内心が自分にはわかっていることになっている、というこの欺瞞的なダブル・スタンダードに黒古先生の馬鹿馬鹿しくも主観主義的な「文学」観の誤りの根が見て取れるように思えてまりません。この点、私は栗原さんの禁欲的方法論にこそ学問的誠実性を見出します。そのためには己の大切な主観的経験をも敢えてばっさりと切り捨てなければならない、ということがもし黒古さんにわからないのであれば、己が仕える学というものの性格に思いを致さない大学教授というものの存在に深く嘆息せざるを得ません。
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John Doeさんへ (黒古一夫)
2008-09-10 00:30:09
 もう、この件では応接しないと言ったのですが、2つの点で看過できないので、「最後」になりますが、僕の考えの要点だけ言っておきます。
 まず1点は、この人が「学問」としての文学と批評(評論)を何故分けるのか、僕にはわかりませんが、大学が未だに「学問の府」であるなどという幻想を抱いている御仁から、「大学教授を辞して評論家として生きた方がよい」などと言われたくありません。余程この人は「大学教授」に憧れているのかしら?それとも「恨み」を持っているのかしら?僕の正直な感想を言わせてもらえば、「嗚呼、ここにもジェラシーがあったか」と思うしかありません。
 2点目、学問、学問というこの人には「文学」の必須要件として「想像力」というものがあり、それが作家に関して発揮される場合、作家の書いた作品(小説やエッセイ、評論など)を丹念に読み、そのことを土台にしていること、これは基本です。僕が立松を擁護するのは、彼の作品を読み続けてきた結果、「意図的」に「盗作・盗用」したのではなく、例えば連合赤軍事件(および坂口弘らの著作)に「忠実」たらんとした結果であること、このことが大事だと僕は言っているだけです。もしご不審ならば、僕は新潮文庫の「光の雨」の解説でも、また「立松和平伝説」(河出書房新社刊)でも書いているので、それらに目を通してから言ってください。
 なお、「二荒」について、あなたは立松に「盗用」されたと主張している人の著作と「二荒」の記述とをきちんと精査して山崎豊子と同じ、と言っているのですか。おそらく「ネット上」の情報によって判断しているのでしょうが、それがあなたの言う「学問」というものであるとすれば、もう何をか況や、です。
 以上。
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ちょっとおかしい (Unknown(小次郎))
2008-09-10 00:52:42
立松さんが「歴史に忠実」にと思って心ならずも盗作したということは、彼に先生のおっしゃる文学的想像力が欠如していたということですからら、先生がそんな作家を擁護されるのはおかしいのでは? 坂口の本は歴史記述のワン・オブ・ゼムであり、それに「忠実」たらんとするのは、歴史に忠実というのとは違います。
それから、先生は出版文化論(メディア論ということでしょう)もご専門なのですから、2ch問題を無視して出版を論じられない現代です、これを契機に是非2ch問題に取り組んでいただきたい。これは良い機会でしょう。まずは2ちゃねらーとの正面からのぶつかり合いをとおして、現代メディアの問題性をお探りください。
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quam stultus es! (Unknown)
2008-09-10 01:32:18
黒古さんは、何か発言するたびに自分がバカであることを露呈してくれる、たいへん面白い人ですね。

>大学が未だに「学問の府」であるなどという幻想を抱いている

では、あなたは大学とは何だと思ってるんですか?(あえて陳腐な表現を用いるなら)レジャーランドですか?筑波に統合される前のあなたの職場はそうかもしれませんね。

>余程この人は「大学教授」に憧れているのかしら?それとも「恨み」を持っているのかしら?僕の正直な感想を言わせてもらえば、「嗚呼、ここにもジェラシーがあったか」と思うしかありません。

この一言から、あなたが大学教授というものを単なるステイタスだとしか思っていないことがよくわかります。あなたには研究者=学問に奉ずる者としての自覚がない(もとよりその資格も能力もない)わけだ。あなたのような名ばかりの「大学教授」に指導されなければならない学生こそいい迷惑でしょう(中には本当に「学問」がやりたくて大学に来る人も少数ながらいるでしょうからね)。John Doeさんの仰るようにさっさと辞めて、評論活動(という名の援護射撃ごっこ)に邁進なさるがよろしかろう。

×何をか況や
○何をか言わんや

自分がタイプしたものを見直すという簡単なことすらできないのかね、この人は。
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「バカ」はどっちかな? (黒古一夫)
2008-09-10 09:05:32
 訳知り顔、というのは、このような人のことを言うのでしょうね。大学「統合」というようなことも知っているようなので、相当な「事情通」なのでしょうが、あなたの予想とは違って(ご期待を裏切って)残念ですが、「バカ」な大学教授である僕のところで研究したいという学生は、内外を問わず結構「多数」です。
 それともう一つ、偉そうに「×何をか況や ○何をか言わんや」などと書き、「自分がタイプしたことを見なすという簡単なことすらできないのかね、この人は」と嘯いているが、この言葉そっくりお返しします。どんな辞書をお使いなのか知りませんが、僕が使っている「大辞林」や「広辞苑」には、「況や」が最初に出てきて、「言わんや」はその通用語であるというようなことが書いてあります。意味がわかるかどうかわかりませんが、あなたのような方を「一知半解」というのです。
 まさか、あなたは大学教授ではないでしょうね。もしそうであったら、学生が可哀相です。
 (読者の皆さん及びあなたへ)もう止める、と言いながら、ついつい、「おバカ」な土俵に上がってしまいました。もう、本当に止めます。
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Unknown (y)
2008-09-10 09:16:17
今回のことは栗原氏や盗作ののことよりも、全体を通して黒古さんの「めんどくせえ」という意識が露呈してますね。自分で喧嘩をふっかけておきながら、反論が来たら「うんざり」「うんざり」「うんざり」の繰り返しですからね。自分があくまで噛みつく側のポジションに居たいだけで、それを何とか保持したいだけじゃないですか。

>大学が未だに「学問の府」であるなどという幻想を抱いている御仁

およそ現職の大学教師が発する言動じゃないですね、それならあなたはどうして大学教師しているんですか? 普段どんな顔でどういう心構えで教壇に立っているんですか? まさかそこでも「うんざり」だったりするんでしょうか? 

若者がお嫌いみたいですから、教壇に立つのも渋々で、どうせ自分の生活のために嫌々やっているんでしょうし、学生の顔が札束にでも見えているんでしょう。あとは退職金をもらえれば万々歳ですか。こういう人でも教壇に立てる筑波大学は凄いところですね、すばらしい大学です。
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面倒くさい? (unknown(暁))
2008-09-10 10:05:03
黒古氏は「めんどうくさい」とおっしゃりながら、これだけ繰り返しレスポンスしておれれるのは、本当は痛いところを突かれいるので、それを隠すためのジェスチャーではないかと疑われます。

>「バカ」な大学教授である僕のところで研究したい>という学生は、内外を問わず結構「多数」です。

ご同慶の至りですが、それは、学生がバカだとか、筑波という「一流校」だから海外のオマヌケな留学生も来るというだけではないでしょうか?
――というふうに、すぐ反論できますよね。

黒古氏には、もう少し説得力のある反論を期待します。
これでは「大学教授」がますます権威失墜ですから。
大学教員志望者として申し上げます。

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救いようがないね、こりゃ。 (Unknown)
2008-09-10 10:39:56
腹を抱えて笑ったよ。たっぷり1分は笑ったね。
もう、どこまでバカなんだあなたは。

「況や」と「何をか言わんや」の「言わんや」を混同するとは、呆れて物も言えんよ。あなたの持っている(宝の持ち腐れだが)『大辞林』で「なにをかいわんや」の項を引いてご覧よ。「何をか況や」などという表記が認められているかな?

>僕が使っている「大辞林」や「広辞苑」には、「況や」が最初に出てきて、「言わんや」はその通用語であるというようなことが書いてあります。

どこにそんなことが書いてある?あなたの持っている『大辞林』は第何版ですか?

本当に、よくあなたのような無知無教養な大馬鹿者が大学教授などやってられますね。筑波大とはそこまでレヴェルの低い大学だったっけ?あなたに教えられる学生こそ「可哀想です」。

あ、ちなみに私は大学教授ではありません。一介の学生ですよ。私の大学にはあなたほど酷い教授はいませんぜ。あなたみたいなバカに師事しようなどと考える学生の顔が見てみたいですね。「多数」のバカ学生に囲まれて、さぞおしあわせでしょうな。
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Unknown (y)
2008-09-10 10:51:21
>残念ですが、「バカ」な大学教授である僕のところで研究したいという学生は、内外を問わず結構「多数」です。

あまりの研究環境のひどさに逃げ出してしまった学生もいるみたいですけどね。
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/e4294b47b64248a7224468c62ae94a13

>かれこれ7,8年僕の研究室に出入りしていた学生

そんな学生さんが音沙汰もなく姿を消してしまうなんて、よほど辛い目にあわされたのでは?と邪推してしまいますが。
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