黒古一夫BLOG

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新・武漢便り(18)――ルサンチマン(私的怨念)には付き合えない

2013-04-25 06:42:21 | 近況
 外国にいると、日本との距離がそうさせるのか、あるいは考える時間がたっぷりあるからからなのか、自他に関わる今起こっていることの原因を客観的に考える習癖が身に付くような気がしている。それは、「情報」の根っこをできるだけ広範な視点から見る(考える)ということなのかも知れないが、感情的な対応を避けることができるということだけは、確かなように思う。
 例えば、前2回書いた中国四川省の蘆山地震について、3日間(72時間)が過ぎ、人命救出の可能性が極端に低くなったこの頃になって、日本の報道には「被災者、救援に不満。届かない水と物資」などと、いかにも中国の当局がサボっている(怠慢)かのような文字が踊るようになったが、連日こちら(武漢)のテレビで報道されている救援の実情や被災地の現状を見ていると、もちろんそれも当局によって操作されたものだという見方もできるが、被災地に駆けつけた日本の報道機関(特派員たち)は、本当に現地に入って取材したのか、と疑わざるを得ない部分を感じる。
 というのも、被災地の中心は、先にも書いたように山岳地帯で、そこに至る道路は、未だに余震で崩落の可能性があり、易々と入ることができず(重機で頭大の岩が転げ落ちてくる道路を修復しながら、少しずつしか進めない)、救援物資は当局(軍)のヘリコプターで投下するしかない状況を見せられると、またそのような状況に対して住民たちが苛立ち、不満を漏らしている(中国の)報道の接すると――その意味では全く中国は「報道管制」していないように見える――、日本の報道は「歪んでいる」しか思えない、ということがある。
 同じことが、日本を率いる安倍晋三首相の余りにも偏った「歴史認識」にも言えるのではないか。何日構えの国会答弁で安倍首相は「侵略については、様々な考えがある」などといって、先のアジア太平洋戦争(15年戦争、さらに先のぼって日清戦争から、と言ってもいいが)時における日本の「侵略行為」を否定するような、これまでも繰り返されてきた「欧米列強帝国主義に追いつめられて、やむを得ず、アジアを開放するために、日本は中国に進出したのだ。米英と戦った太平洋戦争も同じ。結論的には、防衛戦争であった」といった類の、右派の論理を持ち出して、戦前の日本の在り方を正当化しようとしているが、今学期僕は中国の大学院で石川達三の『生きてゐる兵隊』や『武漢作戦』を読んできたのだが、これらの作品や火野葦平の『麦と兵隊』やその他の「戦争文学」作品を読めばたやすく分かることだが、少なくとも昭和10年代に、第二次上海事変を皮切りに南京攻略戦、武漢攻略戦と大量な兵士と物資を投入した「戦争」(日中戦争)は(その前の満州事変や「満州国」建設からと言ってもいいが)、誰がどう考えても「侵略戦争」に他ならない。確かに、そのような侵略戦争を裁いた「東京裁判」――安倍氏を始め多くの右派論客は「東京裁判」だけを問題にするが、戦争犯罪裁判は、戦争終結と同時にアジアの各地で行われ、何百人、何千人もの将兵が「戦犯」に問われ、多くの将兵が「死刑」判決を受け、また禁固15年とか20年とかの罪に問われた、ということがある――には、「勝てば官軍」式の勝者の論理が罷り通り、「公平」な裁判ではなかったかも知れないが、どのような理由があったとしても、権益を確保するために他国に「侵略」した行為までは否定できないだろう。
 ところが、安倍氏の頭の中がどうなっているのか分からないが、お祖父さん(岸信介)がA級戦犯に問われたことを「不満(不名誉)」と思っているからなのか、どうも日本の侵略行為を「正当化」しようと躍起になっているように思えてならない。侵略戦争そのものを正当化すると言うより、もしかしたらお祖父さんの「戦争犯罪」を救抜しようとしているのかも知れない。僕が安倍氏の言動を「私的怨念」という所以である。同時に、彼は中学や高校でどんな歴史教育を受けてきたのか(それとも、子ども時からお祖父さんから自分たちの「正当性」を聞かされてきて、学校での歴史教育を最初から信じていなかったのか)、と疑問にも思う。
 繰り返すが、この「政治家」の頭の中がどうなっているか、全く推し量れないが、「日米同盟の強化」などと言って、アメリカに「忠犬」のごとくしっぽを振って従う(そう言えば、お祖父さんの岸信介も、自分を戦犯として処分したアメリカに追随することで政治的地位を確保していたが)一方で、アジア(韓国や中国)に対しては、居丈高に、福沢諭吉以来の「脱亜入欧」ばりに振る舞う。「己がない」とはこのような人物について言うことだと思うが、「私的」にはどのようなルサンチマン(怨念)を抱いてもいいから、その自分の「歪んだ思い」に国民を巻き込まないでくれ、というのが正直な気持ちである。
 よほど「経済の専門家」になりたいのか、それとも竹中某という日本の経済をアメリカのいいなりになるように(郵政民営化)し向け、「格差社会」を拡大した経済学者の入れ知恵なのか、経済の活性化(金儲け)のためには、原発の再稼働も是認する、本当にこの日本社会はどこへ行こうとしているのか、余命を感じるようになったこの年齢でまだ心を乱すことに、いくらかの自己嫌悪も催すのだが、冒頭に書いたように、外国にいて客観的に日本の在り方が見えると思えるように感じているのも確かで、今は冷静に苛立っている、と言えばいいか。

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