黒古一夫BLOG

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岐路に立つ日本(5)――何故?

2016-12-03 10:10:31 | 仕事
 このところ、ずっと前回書いた「何故日本国民は安倍政権に50%モノ支持率を与え続けているのか」の理由を探るべく、本を読みあさってきた。
 安倍首相ら政権幹部に大きな影響を与えていると言われる「日本会議」に関する調査報告・検証と言うべき菅野完の『日本会議の研究』(扶桑社新書 5月刊)、青木理の『日本会議の正体』(平凡社新書 7月刊)、山崎雅弘の『日本会議――戦前回帰への情念』(集英社新書 同月刊)、これらの3冊は「この頃日本会議という<右翼の妖怪>が巷を歩き回っている』と言うことで、買いおいた本だったのだが、何故自公政権(日本維新の会が側面援助した)は、多くの憲法学者が「違憲」とする安保法制=戦争法案を「強行採決」しなければならなかったのか、今ひとつ納得できなかったので、その思想的背景を探るべく、一挙に3冊同時並行的に読んだのである。
 その結果、判明したのは、これまでにも何度か触れてきたが、安倍自公政権(とりわけ自民党)は、先のアジア太平洋戦争への反省から手に入れた戦後的価値、つまり日本国憲法に象徴される「平和と民主主義」に基づく社会を否定し、あの「日本国民を塗炭の苦しみに落とした」絶対主義天皇制下の「戦前の日本」に回帰することを望んでおり、特定秘密保護法をはじめ安保補遺案の制定も、みなその「戦前回帰」への布石だということである。
 このことは、次に列記する「日本会議の目指すもの」と、安倍首相がおりある事に発してきた言葉との整合を見れば、すぐ理解できることである。
 1.美しい伝統の国柄を明日の日本へ→安倍首相の「美しい日本」と「日本を取り戻す」との類似
 2.新しい時代にふさわしい新憲法を→自公政権の「改憲」への動き
 3.国の名誉と国民の命を守る政治を→自民党の「改憲草案」における国権主義を想起
 4.日本の感性をはぐくむ教育の創造を→「道徳教育」の点数化(教育勅語の復活)
 5.国の安全を高め世界への平和貢献を→自衛隊の海外進出・近い将来は「徴兵制」を
 6.共生共栄の心でむすぶ世界との友好を→「大東亜共栄圏」建設の夢をもう一度

 これらの項目を実現するために、安倍自公政権が行ってきたことは、「治安維持法」下の戦前がそうであったような国民から「知る権利」を奪うのを目的としてマスコミ・ジャーナリズムにおける「批判勢力」を一掃したこと――自民党に批判的なテレビのキャスターに対する圧力を強め、その結果テレビ朝日から古館伊知郎が、TBSのニュース23から岸井氏が消えた――であった。誰かが「軍靴の足音が聞こえてくる」と言っていたが、このままではいよいよ僕らは「息苦しい・恐ろしい」時代を生きていくことになる。
 総じて、「日本会議」の思想を実現しようとしている安倍自公政権は、その「戦前回帰」が象徴するように、「ナショナリズム(国粋主義)」と「ファシズム」の合体したものだと思うが、ここでやっかいな問題は、先の大戦の敗北によって日本が連合軍(アメリカ軍)に占領されたことを紀元とする「日米安保体制」のくびきから、自公政権は逃れられないという「宿命」を背負っているということである。つまり、安倍自公政権に対して、単純に「戦前回帰」とは言えず、「日米同盟」という名の「対米従属」という現実と理念としての「戦前回帰」との間に「ねじれ」が生じているということである。
 本来は、日本だけで支配したい南方(沖縄・奄美地方)において、アメリカ軍の言いなりになって沖縄の辺野古沖に「新基地」を建設し、また世界遺産(自然保護遺産)に登録されようかというヤンバル地区の原生林を切り開いてにオスプレイ訓練用の「ヘリパッド」の建設を強引に推し進めていることに対して、たぶん、本質的にナショナリスト(国粋主義者)である「日本会議」の面々や安倍首相は苦々しく思っているのではないだろうか。
 もっとも、「戦前のような天皇制国家を望むこと」と就任前のアメリカ大統領(都欄宇)に押っ取り刀で駆け付けるという「対米従属」主義の「矛盾」に、あのいかにも頭の悪そうな安倍晋三氏は気付かないかも知れないが、自分の理解が及ばないこと(批判されること)に対して居丈高になって大声を上げるしか能のない首相を支持する日本国民も、また「愚か」と言わねばならないのかも知れない 

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