【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

官房機密費で首相が主催したパーティーに両親をつれて参加した親孝行息子の宮崎信行の「東京だよおっかさん」(実家から永田町への交通費片道200円未満ですが)

2024年05月13日 20時09分17秒 | 第213回通常国会 令和6年2024年1月召集
 1歳上だけど、親友というより戦友の、ライター・畠山理仁さんが、伊勢新聞の講演会に前後して、杉並、名古屋、福井各地をトークして回っていて、自分のことのようにうれしいです。一切の嫉妬はなく、親友が映画スターになったことを喜んでいます。投票率アップ系のトークは、私には無理だと自覚し始めたので、逆に、投票率ダウン系に転向します。

 こちらの写真は平成10年1998年1月1日。官房機密費(報償費)で、首相が開くパーティー「公邸開き」に、日本経済新聞社政治部の命令で、私の両親と3人で参加した後に「2・26事件」の銃痕が生々しい首相公邸)前での記念撮影。父は1994年にクモ膜下出血の大病をしており、63歳にしては老けていました。事前の名簿提出はなく、単に「内閣記者会の宮崎と、両親です」と言えば、金属探知機すらなく入れました。官邸の右奥の小道を行くと、官房長官公邸(当時から廃屋、現存せず)を左折して、首相公邸(現存しない)に。さすがに、橋本龍太郎さんではなく。主催者として「総理秘書官です」と江田憲司さんが一人で立ち、客人をもてなしました。私は「両親です」と言っても、「はいはい」というそっけない態度で、父と私の身長はおおよそ162センチで、江田さんが177センチ前後ですから、岡山県警署長の父の遺伝なのか、国立東大入学後に伸びたのか、長野県立高校卒の百姓出身の両親はみすぼらしいように感じました。父は慣れていなかったようで、ひそひそと「首相はどこ」と言いました。非常にどうでもいい話ですが、こういう際は「総理はどこ」というのが普通です。

 そして、テントにはホテルニューオータニから出張したケータリング。情報開示はしていませんが、おそらく随意契約だと思われます。自民党から総理と同じ派閥で当選5回で初入閣した鈴木宗男大臣。当選1回生はほとんどいませんが、渡辺喜美議員が来ていました。ちなみに、私の両親はまさに「下町の太陽」ともいえる抜きん出た経済的成功をおさめており、500円玉が発行された1980年当時は、多額納税法人経営者であると同時に、渡辺美智雄大蔵大臣と容姿が似ているため「大蔵大臣」とあだ名がついていました。私は幼少期から父が40歳年上で、同級生の父より余命が短いということがコンプレックスでしたが、千代田生命というその後倒産する会社の外交員女性(雇用の地位は不明)が「大蔵大臣、50歳の誕生日おめでとうございます」とわざと数歳年上の掛け声とともに花束を持ってきた姿を偶然に見かけたことがあり、その怒りを腹の中にため込んで今日まで生きてきました。

 1998年1月1日は、山一・拓銀ショック・第一勧業銀行事件の後で、私にとっては結党大会より前のボランティアから参画した我が最愛の新進党が解党した(法律的に)翌日となりました。そのため、父、母、私は、陰気な顔をして写っています。官房機密費で開催されているとしても、お金はもらえないし、むしろ私は「睡眠時間をよこせ」と法律すれすれの脅迫に出たかもしれませんが、そんなことはありません。この写真を見て、私たちは地域社会で尊敬され、没交渉といえども愛された存在だったと認識しており、間違いではありません。が、私たちはその後の不況を前に、同業他社が資金繰りに困窮して倒産して多摩川を渡って神奈川県に移住し(て東京地裁管外に逃れ)たり、50代半ばで非業の癌死を遂げたりする未来で、平然と見捨て、「分母が一つ減りシェアが数%上がる」との覚悟を既に持っていて、80年代のアメリカに、14歳で単身渡米した日の私とは違った表情に、既になっていた、むしろ私たちの方が陰湿だったという気もします。きょう、私は期末に法人としてアパートを買ったことで貸借対照表が大きく変わったにもかかわらず、例年より数日早く、法人税・消費税を納税しました。さて、官房機密費ですが、2009年秋に書いた有料ブログ「宮崎信行の今後の政治日程(有料版)」で「たかり」という許しがたい暴言をコメントされ、15年間、官房機密費に関する情報報道を抑制することになりました。大実業家の実子の私がなぜたかりなどと呼ばれなければいけないのか、地球の裏側まで追いかけまわして液化鉛を3億年点眼し続けたいほど、今でも怒っています。

 江田秘書官よりかなり身長が低い私たちですが、母が鈴木宗男さんについて述べた感想は、その6年後、2004年の彼に降りかかる「ムネオハウス」問題を予見するものでした。

 で、まとめですが、園遊会は私は記者の立場で1回遠巻きに中に入っただけです。院・内閣・党でお役目がない衆参両院議員も4回に1回(2年に1回)は参加できるシステムになっています。宮内庁主催の園遊会にご祝儀を持っていく人なんでいませんよね。だったら、なぜ公邸開きに家族同伴でご祝儀を持っていかないパーティーは批判されたのかは、今思えば不思議なんですが公邸開きの慣習は20年ほど前に完全に廃止されました。

【衆議院決算行政監視委員会 きょう令和6年2024年5月13日(月)】
 「令和2、3、4年度決算案」の分科会が第一、第二、第三、第四、で開かれました。このうち、立憲の青柳陽一郎さんが岡田憲治衆議院事務総長に質問。岡田総長は「請願文書表の廃止で年660万円、委員会報告書620万円、本会議速記録で215万円」の予算が削減されたとしました。

【参議院決算委員会 同日】
 「令和4年度決算承認案」省庁別審査5日目、文部科学省、農林水産省、国土交通省。

【参議院行政監視委員会 同日】
 「国と地方の役割分担に関する件」で質疑がありました。


[写真]首相公邸開きで、当選1回生ながら参加した渡辺喜美代議士とスリーショットをとる筆者の両親。後方の白いテントは、ホテルニューオータニが出生してのケータリング、1998年1月1日。


[写真]首相公邸開きで、江田憲司首相秘書官(中央)を囲んで記念写真に納まる各社の政治総理番記者、左端は、「ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記」の主催者の宮崎信行、1998年1月1日。

[写真]「2・26事件」の銃痕が生々しい首相官邸(現・首相公邸)で記念撮影する母と私、1998年1月1日。

[写真]「2・26事件」の銃痕が生々しい首相官邸(現・首相公邸)で記念撮影する母と父、1998年1月1日。

[写真]「2・26事件」の銃痕が生々しい首相官邸(現・首相公邸)で記念撮影する私、1998年1月1日。