内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ルイ・ラヴェルのテキストを読むときに感じられる喜びはどこから来るのか

2019-08-28 13:50:31 | 哲学

 ルイ・ラヴェルの著作を読んでいて味わうことができる喜びはどこから来るのだろうか。それは、名演奏を聴いたときや名人の舞踊を観たときの美的経験の喜びに似ていると思う。たとえ生演奏や舞台上の実演ではなく、録音や録画による鑑賞であっても感動を与えられることがあるのは、そこにその音楽や舞踊を生動させている精神の躍動と緊張と動的平衡が現に感じられるからであろう。同じようなことがラヴェルのテキストを読んでいるときにも感じられる。ラヴェルのテキストは精神の行為の実践として書かれているから、それを読むことでその精神の運動に直に触れることになる。音楽の演奏や舞踊の実演を要約することができないように、ラヴェルのテキストの所説を要約してしまうと、精神の生動は消失してしまう。テキストからラヴェルの哲学的主張を抽出してしまうと、それはたちまち抜け殻のように干からびた概念の組み合わせに変質してしまう。ラヴェルは、書きながら絶えず行為としての精神を再起動し続けていた。その生けるテキストを読むことは、だから、絶えず更新されるその精神の行為に感応する読み手の精神の現在の行為でなければならない。そのような読み方をせずに、ラヴェルの哲学的言語を形而上学的な概念的な構築物として固定化することは、ラヴェルの哲学を殺してしまうことに外ならない。逆に言えば、ラヴェルのテキストを生かす読み方とは、そのテキストを書かせた精神の運動を読み手が己のうちに再生させるような読み方だということである。
 もちろん、これはラヴェルのテキストについてだけ言えることではないだろう。しかし、では、他に誰のテキストを同様な経験ができる例として挙げることができるかと探してみても、私にはすぐに見つからない。それは、単に私の読書経験が貧しく、感受力が足りないからに過ぎないのかも知れない。それはそうとして、ラヴェルの諸著作を読むことは、私にとって、生動する精神の高貴な美しさに触れることができるとても大切な読書行為なのである。