二〇二四年二月四日 NO・五十―四五 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)マタイ 八章 (月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章 (水) 〃 十一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十二章 (金) 〃 十三章
招詞祈祷 ホセア二章二一~二五節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十二番 ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みにあずかりました。
交 読 文 詩 編百二二編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌四二二番
説 教 ローマ九章二四~二九節 「あなたがたはわが民ではない」
聖 餐 式 と彼らに言われたその場所で
讃美祈祷 聖 歌四七九番 松田兄 彼らは「生ける神の子ら」と呼ばれる。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ九章二六節
神の救済史の推移
25~29節はすべて旧約の引用である。9~11章に旧約の引用が多いのには理由がある。パウロはユダヤ人の多くがキリストを受け入れない現実を目の当たりにして、それが偶然ではなく、神の御心であることを旧約の言葉から確認し確証するのである。その背後には、パウロが歴史に起こることを偶然・偶発の出来事と見なさないで、神の支配の中にある「救済史」として見ていることを示している。
24節は、キリストの教会の構成メンバーが、ユダヤ人だけでなく異邦人から成る現実を示しているが、それは当然の事ではなく、25~26節で言われているように、本来「わが民でない者をわが民と呼び、愛されなかった者を愛される者と呼ぶ」に等しいのである。神はユダヤ人を選び、律法を与え、ご自身を現された。しかし私たち異邦人は、本来まことの神を知らない者であり、これまでの記述に従えば、イシュマエルであり、エサウである。しかしここに転換が記されている。つまりエサウがヤコブの立場に与るのである! これこそ神の恵み、自由の選びであり、救済史の推移である。26節によれば、「『あなたがたはわが民でない』と言われたその場所で、『生ける神の子ら』と呼ばれる。」ことが起こった。「その場所で」という語を深読みすれば、それはキリストの十字架を指す。そこはまさに主イエスが神に捨てられた場所であり、同時に私たちが神の子らとして受け入れられた場所である。御言葉が成就した場所である。
27~29節は、当時のユダヤ人の多くが主イエスを受け入れない現状を、イスラエルの歴史を振り返りながら解き明かす。選びの民とは言え、いつの時代も「残りの者だけが救われ」た。ユダヤ人は神の選びの特権を笠に着て救いを要求することはできない。ただソドムのように滅びつくされなかったのは憐みによる。この「残りの者」の思想は、イスラエルの歴史の底流にある厳然たる事実である。
パウロは25~26節で異邦人の救いを、27~29節ユダヤ人の救いをその置かれた立場を浮き彫りにして示した。24節のユダヤ人と異邦人との混合の教会の現実は、決して神の救いの計画に反するものではなく、「神の言葉は無効になったわけではない」(6節)。繰り返し旧約の引用を通してそのことを確証する。イエス・キリストにおいて、神の救済史は頂点に達する。それは全人類に及ぶものとして。
礼 拝 次 第 (日)マタイ 八章 (月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章 (水) 〃 十一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十二章 (金) 〃 十三章
招詞祈祷 ホセア二章二一~二五節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十二番 ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みにあずかりました。
交 読 文 詩 編百二二編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌四二二番
説 教 ローマ九章二四~二九節 「あなたがたはわが民ではない」
聖 餐 式 と彼らに言われたその場所で
讃美祈祷 聖 歌四七九番 松田兄 彼らは「生ける神の子ら」と呼ばれる。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ九章二六節
神の救済史の推移
25~29節はすべて旧約の引用である。9~11章に旧約の引用が多いのには理由がある。パウロはユダヤ人の多くがキリストを受け入れない現実を目の当たりにして、それが偶然ではなく、神の御心であることを旧約の言葉から確認し確証するのである。その背後には、パウロが歴史に起こることを偶然・偶発の出来事と見なさないで、神の支配の中にある「救済史」として見ていることを示している。
24節は、キリストの教会の構成メンバーが、ユダヤ人だけでなく異邦人から成る現実を示しているが、それは当然の事ではなく、25~26節で言われているように、本来「わが民でない者をわが民と呼び、愛されなかった者を愛される者と呼ぶ」に等しいのである。神はユダヤ人を選び、律法を与え、ご自身を現された。しかし私たち異邦人は、本来まことの神を知らない者であり、これまでの記述に従えば、イシュマエルであり、エサウである。しかしここに転換が記されている。つまりエサウがヤコブの立場に与るのである! これこそ神の恵み、自由の選びであり、救済史の推移である。26節によれば、「『あなたがたはわが民でない』と言われたその場所で、『生ける神の子ら』と呼ばれる。」ことが起こった。「その場所で」という語を深読みすれば、それはキリストの十字架を指す。そこはまさに主イエスが神に捨てられた場所であり、同時に私たちが神の子らとして受け入れられた場所である。御言葉が成就した場所である。
27~29節は、当時のユダヤ人の多くが主イエスを受け入れない現状を、イスラエルの歴史を振り返りながら解き明かす。選びの民とは言え、いつの時代も「残りの者だけが救われ」た。ユダヤ人は神の選びの特権を笠に着て救いを要求することはできない。ただソドムのように滅びつくされなかったのは憐みによる。この「残りの者」の思想は、イスラエルの歴史の底流にある厳然たる事実である。
パウロは25~26節で異邦人の救いを、27~29節ユダヤ人の救いをその置かれた立場を浮き彫りにして示した。24節のユダヤ人と異邦人との混合の教会の現実は、決して神の救いの計画に反するものではなく、「神の言葉は無効になったわけではない」(6節)。繰り返し旧約の引用を通してそのことを確証する。イエス・キリストにおいて、神の救済史は頂点に達する。それは全人類に及ぶものとして。