稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

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2017年04月30日 | 週報
 二〇一七年四月三十日   NO・四四―四      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)エゼキエル 四二章(月)  〃  四三章
           司会 高 澤兄(火)  〃   四四章(水) 〃   四五章 
           奏楽 内 間姉(木)  〃   四六章(金)  〃    四七章 
招詞祈祷  イザヤ五七章十五~十九節  (土)  〃    四八章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六 番        ◎四日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り                      
交 読 文  詩編百四十六編             
讃  美  讃美歌二九一番          だから、立っていると思う者は、
献  金  感謝の祈り      豊口姉  倒れないように気をつけるがよい。 
讃  美  聖 歌三九一番         あなたがたを襲った試練で、人間として
説  教  Ⅰコリント十章一~十三節    耐えられないようなものはなかったはずです。  
讃  美  聖 歌五〇一番          神は真実な方です。試練と共に、
祈  祷            みつ子師  ・・・逃れる道をも備えてくださいます。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               Ⅰコリント十章十二・十三節
   
   イスラエルの事例からの教訓
 十章でもパウロは、自分の知恵を振りかざして、弱い人への配慮を欠く高慢な人々に警告する。

 イスラエルの出エジプトの出来事を通して注意喚起する。出エジプトは、イスラエルの歴史の中で最大の出来事であり、それは、神の愛の現れであった。神は数々の驚くべき御業によって、彼らを導かれた。それにもかかわらず、彼らは神に感謝して仕える代わりに、「悪をむさぼった」(六節)のであった。この出来事は、私たちの予型・手本・前例である、とパウロは言う。つまり私たちもまた彼らのように、罪の死の奴隷状態からキリストによって救い出された者だからである。

 「むさぼり」とは、貪欲であり、自分の心の欲するままに行うとことである。「むさぼり」は①偶像礼拝、②不品行、③神を試す、④不平を言う、という形となって現れる。「偶像礼拝」とは文字通りある像を拝むことに限定されない。自分の好みに合うように神を自分の心に造ることを含む。「試みる」のも心根は同じで、神が自分の意に適うようにして下さるかをためすのである。さらに「不平を言う」も自分の思うように事をなして下さらない神に対して文句を言うことである。

 このように見てくると、その根底にあるのは高慢である。神が愛であるなら、私たちに対してこのように行動されるはずであり、行動されないといけない、と自分で決めるのである。だからパウロは十二節で「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と警告する。自分は神の御心を知っているから大丈夫、と思う者は足を救われないように気をつけなさい、と。

 私たちは神の愛の中に生かされているが、それだからといって、この世の常である様々な困難や戦いを免除されるわけではない。キリストを信じて真面目に生きてきたのに、なぜ自分はこんな不幸な目に遭うのか、と神を疑り、神が愛ならこうあるべきだ、と自分の考えで神を限定するのは高慢である。しかしどんな中でも「神は真実な方である」ことを決して疑わないようパウロは強調する。失望や悲しみの中でも神の真実・愛を信じていくなら、かならず「出口(逃れる道)」を見出すだろう。
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2017年04月23日 | 週報
 二〇一七年四月二三日   NO・四四―三      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)エゼキエル 三五章(月)  〃   三六章
          司会 みつ子師(火)  〃   三七章(水) 〃   三八章 
           奏楽 内 間姉(木)  〃   三九章(金)  〃    四十章 
招詞祈祷  イザヤ四二章一~三節    (土)  〃    四一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三 番        ◎二七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                      
交 読 文  詩編百四十五編             
讃  美  聖 歌一七〇番         
献  金  感謝の祈り      平林姉    わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 
讃  美  讃美歌二九一番         すべての人の奴隷となりました。
説  教  Ⅰコリント九章十九~二七節   福音のためなら、わたしはどんなことでもします。  
讃  美  聖 歌五八八番          それは、わたしが
祈  祷             高澤兄    福音に共にあずかる者となるためです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               Ⅰコリント九章十九・二三節
   
   キリストにある自由の用い方
 パウロは、私は「ユダヤ人にはユダヤ人のように」「弱い人には弱い人のように」なったと言う。これは一見、八方美人に聞こえるかもしれない。八方美人の根底にあるのは「自分のため」である。しかしパウロがこのようにするのは「福音のため」(二三節)であった。ここに決定的違いがある。さらに「なる」という語に注目すべきで、パウロは単に各人に合せる、あるいはそのような人の「ふりをする」というのではない。パウロは、その人の立場に自らを置き、その者に「なった」のである。まさに「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(ヨハネ一章十四節)とあるように、神の御子は、イエスという「人間になった」のであって、人間の姿を装ったのではない。

 さて、現代の私たちは「仏教徒には仏教徒のように」「無神論者には無神論者のように」と言えるだろうか?もし私たちが、彼らを、まことの神を知らない哀れ人々だ、と上から目線で見、彼らを改宗させなければなどと思うとしたら、それはパウロの態度と真逆ではないだろうか?まさに主イエスご自身が、当時の感覚から言えば、神に見捨てられた罪人と見られていた人々と食事をされ、彼らの仲間と「なった」のである(マタイ九章九~十三節)。根底にあるのはこの人たちへの愛である。

 主イエスは「仕えられるためではなく仕えるために来た」と言われたが、パウロが「わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷となりました」(十九節)と言う時、それは自由を捨てたのではなく、自由でありつつ仕える者になったのである。私たち人間は元来、罪と自我の奴隷である。そこからキリストによって自由にされた者である。そして真に自由な者だけがまたキリストの愛に生かされている者だけが、他者の立場に立つ余裕を持つことが出来るのである。

 二四~二七節は、誤解されて、自分の救いのために熱心に努めよ、という警告の言葉と理解されてきた。しかし、九章の文脈から理解するなら、福音のために自分の権利や自由を抑制する生き方を示しているのであり、自分を範として、強い人が弱い人に配慮することを促す目的で語られたのである。
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2017年04月16日 | 週報
二〇一七年四月十六日   NO・四四―二      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      復活祭 (日)エゼキエル 二八章(月)  〃   二九章
           司会 高 澤兄(火)  〃   三十章(水) 〃   三一章 
           奏楽 内 間姉(木)  〃   三二章(金)  〃    三三章 
招詞祈祷  ルカ二四章一~十二節    (土)  〃    三四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌一四八番        ◎二十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                    ◎本日午後一時より「ルターの学び」です。     
交 読 文  詩編百四十四編        ◎本日、責任役員会。     
讃  美  讃美歌一五四番          ◎十七日(月)当教会にて 筑波福音同志会。 
献  金  感謝の祈り      堅田姉  イースターおめでとうございます
讃  美  聖 歌六六四番          キリストが復活しなかったのなら、
説  教  Ⅰコリント十五章十二~二六節  あなたがたの信仰はむなしく、  
讃  美  聖 歌一六八番         あなたがたは今なお罪の中にあることになります。
祈  祷             志村姉    最後の敵として、死が滅ぼされます。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               Ⅰコリント十五章十七・二六節
   
   キリストは復活された!
 十字架と復活は、ワンセットであって、切り離すことはできないが、キリスト教会は、キリストの復活をもって始まった。その意味する所は、キリスト教は、良い「教え」を説く宗教ではなく、「キリストの出来事」を伝えるものであるということである。

 だからパウロは「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(十四節)と言い、さらに「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります。」(十七節)と言う。そして私たちキリスト者は「すべての人の中で最も惨めな者です。」(十九節)とさえ言うのである。

 なぜか?それは私たちの内にある「罪」が除去されないからである。「罪」は人間にとって根源的なもので、個人的、社会的、歴史的に人類が経験する不幸・悲惨はこれに由来する。罪の問題の根本的解決なくして、真の幸福も平和も訪れない。さらに罪の結末が「死」である。「罪と死」の問題の解決なくして、真の救いはない。しかしこの二つは、私たち人間が自分の力で克服できるものではない。先ほどキリスト教の根本は「教え」ではない、と言ったが、聖書の金言を人生の指針とし、それによって心の平安を得て生きようという程度では真の解決にならないことをキリストの出来事は明らかにしている。

 キリスト教会は、主イエス・キリストの「十字架と復活」の出来事が、「罪と死」を解決したと告げる。
パウロは他の所で「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ四章二五節)と言っているとおりである。このようにキリストの十字架と復活によって「最後の敵として死が滅ぼされる」(二六節)。キリスト者とは、キリストが私たちのために成し遂げられた御業を「信じる者」のことである。良い行いによって、その功績で救われるのではない。だからキリスト教の宣教は「福音」―良い知らせ―と言われるのである。キリストの復活は、「罪と死」に対する勝利のしるしである。私たちはキリストの恵みによって「死んでも生きる」のである。
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2017年04月09日 | 週報
 二〇一七年四月九日    NO・四四―二      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      棕櫚の主日 (日)エゼキエル 二一章(月)  〃   二二章
              司会 みつ子師(火)  〃   二三章(水) 〃   二四章 
                奏楽 内 間姉(木)  〃   二五章(金)  〃    二六章 
招詞祈祷  イザヤ五三章一~十二節   (土)  〃    二七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条          ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌一三六番       ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎「オアシス稲毛」三六号の配布にご協力ください。     
交 読 文  詩編百四十三編        ◎十四日(金)日本福音学校千葉校の総務会。     
讃  美  讃美歌二六二番            昼の十二時になると、全地は暗くなり、 
献  金  感謝の祈り      高澤姉    それが三時まで続いた。
讃  美  聖 歌四〇二番          三時にイエスは大声で叫ばれた。
説  教  マルコ十五章二五~四一節   「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、
讃  美  聖 歌四〇三番          「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになった
祈  祷             坂本兄     のですか」という意味である。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 マルコ十五章三三・三四節
   
   十字架上の絶叫
 四つの福音書に、主イエスの十字架上の言葉が「七つ」記されている。マタイとマルコはただ一つの共通の言葉を記している。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉である。この言葉こそ、主イエスの「十字架の意味」を最もよく表わしている。

 マルコは、この言葉を主イエスが「大声で叫ばれた」と記している。まさに死なんとする直前に、最後の力を振り絞って発せられた渾身の絶叫の言葉である。この言葉の中味は何と痛ましいものであろうか!とても神の御子にふさわしい言葉ではない。主イエスは、自分が十字架にかかる理由を知っておられたのではないのか?それなら、この死の苦しみの杯を喜んで受けます、と言われても良かったのではないか?しかし主イエスはまさに絶望の言葉を発せられたのである!

 この言葉は詩編二二編二節の言葉である。この詩編はこの絶望の言葉で始まるが、讃美の言葉で結ばれる。そこである人は、主イエスはこの詩編を最後まで言いたかったのだが、力付きでここまでしか言えなかった理解し、主イエスの絶望的叫びを緩和しようとする。しかしその解釈は、主イエスを弁護するどころか、十字架の意味を曖昧にし、主イエスの十字架の死を無意味にするのだと思う。

 主イエスは「神に捨てられた」と実感されたのだ。それゆえ絶望の叫び声をあげられたのだ。私たちは神に捨てられるということがどんなに恐ろしいことであるかを十分に知らない。しかし主イエスは、それをここで実感し、絶望の叫びをされたのである。この絶望の叫びを通して、私たちは罪の恐ろしさを知らされる。主イエスの十字架は、私たちの罪の身代わりである。神はイエスを見捨て死に引き渡されたのだ。罪の代価としての神の裁きを一身に受けられたのである。どうしてそれが絶望でないことがあろうか!もしこの言葉が絶望の叫びでなかったなら、主イエスの十字架の死は、私たちの罪を負うたことにはならないだろう。私たちが本来受けるべき罪と死の苦しみを、主イエスが全身全霊をもって引き受けて下さったことをこの言葉から知る。感涙なしにこの主イエスの苦しみを思うことはできない。
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2017年04月02日 | 週報
二〇一七年四月二日    NO・四四―一      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第              (日)エゼキエル 十四章(月)  〃   十五章
             司会 高 澤兄(火)  〃   十六章(水) 〃   十七章 
              奏楽 内 間姉(木)  〃   十八章(金)  〃    十九章 
招詞祈祷  エレミヤ二十章七~九節   (土)  〃    二十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 一 番         ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日は、お花見(神場公園)愛餐会の予定です。     
交 読 文  詩編百四十二編        ◎本日は聖餐の恵みに与りました。     
讃  美  讃美歌二九一番         
献  金  感謝の祈り      豊口姉      もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、
讃  美  聖 歌一五六番            それはわたしの誇りにはなりません。
説  教  Ⅰコリント九章一~十八節       そうせずにはいられないことだからです。
聖 餐 式                       福音を告げ知らせないなら、
讃美祈祷  聖 歌五七八番   みつ子師  わたしは不幸です。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               Ⅰコリント九章十六節
   
   パウロにとっての召命
 九章は筆鋒鋭い。有無を言わせず畳みかけている。ここの主題は、パウロの使徒職に疑念を持つ人たちに対する弁明である。

 パウロの使徒性は、一部のユダヤ人キリスト者によって繰り返し否定され、それがコリントの信徒にも動揺を与えたようである。パウロがコリントで一年半滞在して伝道した際、彼は報酬を受けず、自ら働いて生計を立てていた。そのことを、彼は真の使徒でないから無報酬で働いているのだと、悪意に利用されたようである。パウロは十五節までで言葉を重ねて、他の使徒同様、自分にその権利があることを認める。しかし、パウロはその権利を行使しないばかりか、行使するくらいなら「死んだ方ましだ」とさえ言い、そのことを自分の誇りとしている。それはなぜか。その背後に何があるのだろうか。

 十六~十八節が、そのことの理由である。パウロは元々キリストに敵対し、キリスト者を迫害していた。そのような者に、キリストは御自身を現わして下さり、キリスト者とされたのである。パウロは自ら一大決心をして、キリストのために全生涯を捧げる、と言って使徒になったのではない。キリストが使徒として召されたのである。これが使徒パウロの原点である。パウロは自分をキリストによって使徒とされたと言うだけでなく、「キリストの奴隷」とも言う。パウロは自分を「キリストの奴隷」である、という時、決して卑屈な気持で言っているのではない。敵対者であり迫害する者であった自分に目をとめ、ご自分を啓示して下さっただけでなく、その救いの働きのために召して使徒として下さったキリストの恵みに応答する以外の選択を、彼はすることが出来ないのである―奴隷が、主人の命じることを報酬を受けることなくなすように―。それが彼が権利を行使しない理由である。さらに使徒として苦しむことさえ喜びとして受けたのであった。四章九~十三節は、そのあたりの事情を示している。

 神の愛とキリストの恵みに与っている私たちも、パウロのようでなくても、その置かれた場所と立場で小さな一翼を担うように召されている。
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