稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2022年02月27日 | 週報
二〇二二年二月二七日  NO・四八―四八      聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)士師記   二十章(月)  〃  二一章
           司会 坂 本兄(火)ルツ記    一章(水)  〃   二章
            奏楽 堅 田姉(木)  〃    三章(金)  〃   四章
招詞祈祷  詩編九五編七b~十一節   (土)サムエル上  一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番        ◎三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より教義学要綱の学びです。      
交 読 文  詩 編 五五編        ◎三月六日(日)午後一時より教会総会です。 
讃  美  讃美歌 八五番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌三九六番        次のように言われています。
説  教  ヘブライ三章七~十九節    「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
讃  美  聖 歌四一四番        神に反抗したときのように、
祈  祷             高澤兄 心をかたくなにしてはならない。」
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヘブライ三章十五節 

   聖霊の言えるごとくに
 今日の個所は、2章1~4節に続く、第二回目の勧告である。7~11節は、詩編95編7b~11節(七十人訳)の引用であり、エジプトから救出されたイスラエル人が、荒野で神に対してどのように振舞ったかが述べられている。彼らはそこで、水に関してマサ(出エジプト17章)とメリバ(民数記20章)で神を試み、験した。また約束の地を偵察した際に不信仰になり神に反抗し(民数記13・14章)したので、神の怒りにふれ、カレブとヨシュアを除いて二十歳以上の者は約束の地に入れないようになった。

 著者は、イスラエルの荒野での神に対するこのような振る舞いを示して、私たちがそれと同じ道を歩まないように勧告する。鍵の言葉は、「今日」「神の御声を聞く」「心」「かたくな」「反抗」「安息」である。

 最初に「今日」ということが強調される。私たち人間が自由にできる時、決断し行動することができるのは「今」だけである。過去は私たちの手を離れ、未来は私たちの手元にない。だから私たちは今、「今日」という時を大事にしなければならない。

 だから「今日、あなたたちが神の御声を聞くなら……心をかたくなにしてはならない」(15節)と言われる。「頭」ではなく「心」が問題である。私たちとって一番の危険は、「心がかたくなになる」ことである。その時私たちは自分の経験や聖書知識に頼ってしまう。眼に見える所を自分の知恵で判断し、困難に直面すれば、なぜ神はこのようなことを許されるのかと不平を言い、神を試み、験し、反抗することが起こる。私たちは「幼子のように」柔らかい心で日々新たに神の御声によって生きることが求められている。

 12節で「不信仰の悪い心」と「罪」が同列に置かれ、それらは心をかたくなにし、神から離れてしまうと警告される。私たちは一人で信仰生活を全うできるなどと高慢にならず、「『今日』という日のうちに、日々励まし合う」(13節)ように勧められる。お互いをキリストの体の肢体として尊重し、気を配り、一つの肢体が病むならば手を差し伸べなければならない。そして「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続け」「キリストに連なる者」となる。イスラエルの荒野の四十年は、私たちの人生の「予型」である。彼らの振る舞いとその結末を覚えて、彼らのようにならないように歩まなければならない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2022年02月20日 | 週報
二〇二二年二月二十日  NO・四八―四七      聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)士師記   十三章(月)  〃  十四章
           司会 高 澤兄(火)  〃   十五章(水)  〃  十六章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   十七章(金)  〃  十八章
招詞祈祷  詩編三二編六~七節     (土)  〃   十九章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六 番        ◎二四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より責任役員会。      
交 読 文  詩 編 五四編        ◎次週は教義学要綱「創始者なる神」の後半の学び。 
讃  美  讃美歌 八五番        ◎三月六日(日)午後一時より教会総会です。 
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌三九五番        天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、
説  教  ヘブライ三章一~六節      ……大祭司であるイエスのことを考えなさい。
讃  美  聖 歌四九九番        もし確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、
祈  祷             松田兄 わたしたちこそ神の家なのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヘブライ三章一・六節 

   主イエスを熟視して確信と希望の誇りを持ち続けよ
 著者は、私たちに向かって「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかける。キリスト者とは、この三つ(①天の召し、②聖なる者、③キリストの兄弟である)を受けた者である。これは主イエスの死の苦しみを通して私たちに与えられた栄光、破格の恵みである! たとえ自己認識がどうであろうと、見える所がどうであろうと、私たちは神のために聖別され、主イエスと密な兄弟として、神の召命を受けて、今この世に生かされ、派遣されていることを自覚したい。

 続けて御子を「使者であり大祭司であるイエス」と呼んでいる。主イエスを使者(使徒と同じ語)と呼ぶのは新約でここだけである。これは「大祭司として遣わされた者」の意味に解釈してよいと思う。著者は三つのものを与えて下さった大祭司であるイエスを「考えなさい」(新共同訳)と言う。「考えなさい」と訳されている語は口語訳では「思いみる」と訳されている。この語には見るという要素があり「よく見る」という意味を持つ。マーレーは、天文学者が星を凝視する姿を例として挙げている。

 2章までで、人となられた御子と天使が比較され、人なる御子は天使に優ることが述べられた。ここでは、人の中でも最も神の務めを果たしたモーセと比較して、御子はモーセに優ることが述べられる。つまりモーセはどんなに偉大であっても、神の家に「仕える者」である。しかしキリストは神の家を「治める者」である、と。そしてここでも「忠実」が繰り返し強調されている。主イエスは、昔も今もどこまで神の使者・大祭司としての務めを忠実に果たされるお方であるので、私たちは安心・安全てある。

 最後に(6節)私たちが「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続ける」ようにと勧められる。「確信」と訳されている語は「大胆さ」の意味がある。著者は、当時のキリスト者(教会)が小さく困難な戦いを強いられていた中で、大胆で希望の誇りを持ち続けて信仰生活を送るように励ましている。たとえ見える所は取るに足らない者であろうと、主イエスによって1節の三つのものに、私たちキリスト者はあずかっているのである。その主イエスを熟視し続けることによって、私たちはどんな状況に中でも希望を失うことなく頭を挙げて大胆に歩むことができる者とされているのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2022年02月13日 | 週報
二〇二二年二月十三日  NO・四八―四六      聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)士師記    六章(月)  〃   七章
           司会 みつ子師(火)  〃    八章(水)  〃   九章
           奏楽 堅 田姉(木)  〃    十章(金)  〃  十一章
招詞祈祷  イザヤ四二章五~七節    (土)  〃   十二章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三 番        ◎十七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                       予告
交 読 文  詩 編 五三編         ◎三月六日(日)午後一時より教会総会です。 
讃  美  讃美歌 八五番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      高澤姉   子らは血と肉を備えているので、イエスもまた
讃  美  聖 歌三九四番         同様に、これらのものを備えられました。
説  教  ヘブライ二章十四~十八節     死の恐怖(から)……解放なさるためでした。
讃  美  聖 歌四七五番         憐れみ深い、忠実な大祭司となって、
祈  祷             坂本兄  民の罪を贖(い)……助けることがおできになる。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番          ヘブライ二章十四~十五・十七~十八節
 
   人となられた御子イエスの二つの務め
 14節で著者は、人間を「血と肉」という言葉で表現し、主イエスもまた「血と肉」を共有すると述べて、私たちと全く同じ人間(受肉)となられたと言う。「血肉」が指し示しているのは、朽ちる存在、すなわち死ぬべき存在である(Ⅰコリント15章50節)。続く「死をつかさどる者、悪魔」という表現は、ユダヤ教的伝統の中で、罪に対する神の罰を宣告する「死の天使」の意味と推測されるが、それは決して生ける者に死をくだす権威を悪魔が持っていると言うのではない。なぜなら一羽の雀さえ、父なる神の赦しなしに地に落ちることはないと主イエスが言われているように(マタイ10章29節)、究極の権威者は神である。

 悪魔(ディアボロス・告発者)は、罪ある人間を「死のとげである罪」のゆえに、死の恐怖によって人を一生の間捕らえて離さない(自由にしない、奴隷状態)。しかし御子イエスが死を引き受けて下さって、もはや私たちが罪のゆえに死ぬことから解放してくださった。15節は、死ぬべき私たちに代わって死んでくださった「身代わりの死」を表している。それゆえ私たちはもはや死を罪の罰としての死として恐れる必要はなくなった。今や死は、黄泉に降ることではなく、神の国に入る入り口となったのである。

 17節に突然に初めて「大祭司」という本書のカギの語が出てくる。大祭司とは、神と民の間に立ってとりなしをする存在である。大祭司の詳細な働きについては繰り返し後述される。ここでは大祭司として「罪を償うために」どうしても「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」ことが強調されている。「ならねばならなかった」は絶対に必要であったということである。大祭司の務めの二面性は、人の代表であり、また神の恵みの伝達者である。

 今日の個所は、御子イエスが「血肉」である人となられた必然性、それによって私たちに与えられた救いを二つ強調している。一つは、「死の克服」である。主イエスによって、死はもはや呪いでも終わりでもなくなった。私たちはもはや死を恐れる理由も必要もない。それは「栄光に導く」(10節)入り口である。二つ目は、私たちの代表者として大祭司となられたことである。今も主イエスは大祭司として、今この時、様々の試練の中で戦い苦しんでいる私たちをとりなし助けておられるのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2022年02月06日 | 週報
二〇二二年二月六日   NO・四八―四五      聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)ヨシュア記 二三章(月)  〃  二四章
        司会    高 澤兄(火)士師記    一章(水)  〃   二章
           奏楽 堅 田姉(木)  〃    三章(金)  〃   四章
招詞祈祷  詩編二二編二三~二四節   (土)  〃    五章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 一 番        ◎十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 五二編              予告
讃  美  讃美歌 八五番        ◎三月六日(日)午後一時より教会総会です。 
献  金  感謝の祈り     みつ子師  ◎礼拝動画 こちら
讃  美  聖 歌三九三番          というのは、多くの子らを栄光に導くために、
説  教  ヘブライ二章十~十三節      彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して
聖 餐 式                  完全な者とされたのは、万物の目標であり
讃美祈祷  聖 歌四五〇番    志村姉 源である方に、ふさわしいことであったからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              ヘブライ二章十節 

   神にふさわしい御業——驚くべき恵み
 10節の冒頭は、9節の最後の「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」を受けて「というのは」で始まり、以下にその理由を述べて、それは「万物の存在の目標であり、源である方にふさわしい」と言う。神と言う代わりに遠回しの表現を用いて、このようなお方が、イエスをすべての人のために死に渡すことが「ふさわしい」と言うのである。これは驚くべきことではないか! 万物のまた私たちの目標(目的)すなわち私たちの存在理由と存在の根拠である神にとって、「神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ」である御子イエスが死ぬことが「ふさわしい」と言われているのである。

 さらに説明が加えられて「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた」のはふさわしいと言われる。「完全な者」と訳されている語は「完成する」ということである。御子は元々完全な者であって、改めて完全な者になる必要はない。御子イエスは、自らの苦難を通して、「多くの子らを栄光に導くため」の業を完成されたのである。9節の「すべての人」、10節の「多くの子ら」、11節の「聖なる者とされた人たち」の変化は注目に値する。「多くの子らを栄光へと導く」とは、「聖なる者」とすることであり、それは神との交わりを持つものとされることを意味する。

 11節で「聖なる者となさる方(イエス)」と「聖なる者とされる人たち」は、神という一つの起源を持つという理由で、イエスは、私たちを「兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われている。もし肉の兄弟が、極悪人であったならば、私たちはその兄弟と呼ばれることを恥じるだろう。しかし主イエスは、このように罪深い私を「兄弟と呼ぶことを恥じない」と言われる。「兄弟」とは最も親密な間柄なのである。

 12節と13節の旧約から三つの引用は、詩編22編23とイザヤ8章17節と18節である。ここに主イエスを「頭」またここの表現からは「長子」とする教会における豊かな神との交わり(礼拝)が表されている。元来、神を讃美せず、自分を誇りとしていた私たち、神に信頼を寄せず、自分や他のものに信頼を寄せていた私たちを、イエスは、自らの苦しみを通して、「聖なる者」として下さり、神に造られた者にふさわしく(目的と根拠)、神の栄光を現す者として神との交わりに与らせて下さったのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする