稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2018年05月27日 | 週報
二〇一八年五月二七日   NO・四五―九       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第  三位一体主日(日)創世記    四八章 (月) 〃 四九章
           司会 高 澤兄(火)  〃   五十章(水) 出エジプト 一章
           奏楽 内 間姉(木)  〃     二章(金)  〃   三章
招詞祈祷  ヨブ十九章二五~二七節   (土)  〃      四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七四番        ◎三一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より責任役員会。
交 読 文  詩 編 四七編        ◎本日は女性勤労感謝デーです。  
讃  美  讃美歌二九八番      
献  金  感謝の祈り      堅田姉    いろいろな試練に出会うときは、
讃  美  聖 歌四二三番         この上ない喜びと思いなさい。
説  教  ヤコブ一章一~四節      信仰が試されることで忍耐が生じる……。
讃  美  聖 歌六一五番        そうすれば、完全で申し分なく、
祈  祷             志村姉 何一つ欠けたとろこのない人になります。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ一章二~四節
   
   信仰の試練と忍耐
 本日からヤコブの手紙に耳を傾けます。この手紙は、不幸にもルターから「わらの手紙」と呼ばれ不当な評価を受けた。しかし私はこの手紙を通して具体的で実際的助けを頂けると期待している。

 差出人の「ヤコブ」が誰を指すのか確定できない。新約に五人のヤコブが出てくるが……。

 ヤコブが最初に取り上げる事柄は「試練」である。試練は人生につきものであるが、さらにキリスト者特有の試練が加わる。ヤコブは「いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい」と言う。つまり試練を乗り越えた後の喜びではなく、試練を受ければ受けるほど喜びなさい、と。それも「この上ない」という言葉を添えて強調している。

 なぜか?それは「私たちの信仰の試練は、忍耐を生じさせる」(直訳)からである。新約には「信仰と忍耐」が併記されて両者の密接な関係を示す(2テサロニケ1章4節、ヨハネ黙示録13章10節)。「艱難汝を玉にす」ということわざがあるが、ここでヤコブが述べているのはそのような意味ではない。あくまで信仰との関わりで試練を位置付けている。試練に会うたびに、私たちの信仰が鍛えられ、強化されるのである。たとえばパウロがローマ5章35節以下で「艱難、苦しみ、迫害、飢え」さえも、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができない、と述べているように。

 ヤコブは「忍耐」のすばらしさを強調する。忍耐とは、じっと我慢するという消極的なものではない。4節で「その忍耐を完全に働かせなさい」(旧新改訳)と言う。「そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と。スポーツ選手のトレーニングはハードであるが、それによって、ふさわしい状態に仕上げられる。そのように試練はそれ自体辛いものであるが、キリスト者にとっては、主イエス・キリストによって与えられている恵みの確かさを経験する場なのである。ここで三つも「完全」に関わる語を用いて、「忍耐」の効用を強調している。この忍耐は、信仰の試練によって生み出されるものであり、キリストの恵みを深く味わわせてくれる。2コリント12章9~10節参照。
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週報

2018年05月21日 | 週報
  手違いで、先週の週報を載せ忘れました。
 
二〇一八年五月十三日   NO・四五―七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第   アジア祈祷日(日)創世記    三四章 (月) 〃 三七章
           司会 みつ子師(火)  〃   三六章(水)  〃 三十章
           奏楽 内 間姉(木)  〃    三八章(金)  〃  三九章
招詞祈祷  イザヤ四九章七~九節    (土)  〃     四十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六八番        ◎十七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎次週はペンテコステ(聖霊降臨)礼拝です。
交 読 文  詩 編 四五編          
讃  美  讃美歌二九八番         どうか平和の神御自身が、あなたがたを
献  金  感謝の祈り      豊口姉   全く聖なる者としてくださいますように。
讃  美  聖 歌四二二番        また、あなたがたの霊も魂も体も
説  教  Ⅰテサロニケ五章二三~二八節 何一つ欠けたところのないものとして守り、
讃  美  聖 歌四七九番        わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、         
祈  祷             高澤兄 非のうちどころのない者としてくださいますように。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              Ⅰテサロニケ五章二三節
   
   パウロの祈り――平和の神と聖化
 勧めを終えたパウロは、手紙を祈りをもって閉じる。最後に行き着く所は祈り以外にない。

 パウロは、神を「平和の神」と呼ぶ。歴史的に、国と国が、また人と人が争わず平和であった時代があっただろうか。人は、他人と争い、また自分自身との葛藤から抜け出せないでいる。その原因は、罪であり、自己中心である。そして人はこれを自分で取り除くことはできない。パウロが神を「平和の神」と呼ぶ時、それは「平和をもたらす神」という意味である。神は、愛する独り子を、私たちの罪のために死に渡して罪を贖い、復活によって義と命を与えて、私たちと和解された。神と人との和解・平和を実現するために、神は大きな痛み・犠牲を払って下さった――犠牲なしに平和は来ない――。それゆえ「平和」とは「救い」の意味を持つ。平和の神とは、独り子を与えて人を救う神のことである。

 パウロが平和の神に祈るのは、私たちが「全く聖なる者となる」ことである。3章13節でも同様の祈りがなされている。「聖」というのは、本来神のご本質を表す言葉である。だから人間である私たちは神ではないので元々「聖」とは無縁の存在である。しかし神は主イエスの死と復活通して、信じる者を主イエスと結び合わせ、神の子として下さったのである。このようにして神は私たちを御自身の聖に与らせて下さるのである。ここに「全く・何一つ欠けるところのない・非のうちどころのない」という語が出てくるが、これらの語は「聖」の何たるかを表している。そしてそれが私たちに完全に実現するのは、救いが完成する主イエスの到来(再臨)の時である。24節に言われているように、それを実現するのは「神」である。私たちを召した神の真実がそれを必ず成し遂げて下さる。この完全な保証があるので、私たちは4章3節の「聖なる者となる」、4章7節の「聖なる生活」を大胆に追い求めることができる。

 25節で、パウロは自分たちのためにも祈ってくれるように求めている。誰一人、肉の力でこの尊い宣教の務めを果たすことはできないことをパウロは熟知しているので、祈りによる援護を求める。
最後にキリストの恵みが告げられる。これがキリスト者にとってアルファでありオメガである。
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2018年05月20日 | 週報
 二〇一八年五月二十日   NO・四五―八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第   聖霊降臨祭(日)創世記    四一章 (月) 〃 四二章
          司会 みつ子師(火)  〃   四三章(水)  〃 四四章
           奏楽 堅 田姉(木)  〃    四五章(金)  〃  四六章
招詞祈祷  ヨエル三章一~五節     (土)  〃     四七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七三番        ◎二四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より「ボンヘッファーの学び」です。
交 読 文  詩 編 四六編          
讃  美  讃美歌二九八番      
献  金  感謝の祈り      高澤姉  五旬祭の日が来て、
讃  美  聖 歌一九〇番        一同が一つになって集まっているとき、……
説  教  使徒言行録二章一~四節    炎のような舌が分かれわかれに現れ、
讃  美  聖 歌五七三番        一人一人にとどまった。
祈  祷             坂本兄 すると、一同は聖霊に満たされ、
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              使徒言行録二章一~四節
   
   ペンテコステの意義
 ペンテコステ(五旬祭)とは、過越祭から五十日目に行われる春の収穫感謝祭である。この日に聖霊が弟子たちの上に降られたので、聖霊降臨祭をペンテコステと呼ぶようになった。

 復活された主イエスは召天前に、弟子たちに聖霊を送ると約束され(ルカ24章49節)キリストの証人となる(.使徒言行録1章8節)と告げられた。この日に、すべての弟子たちは聖霊に満たされた(4節)。12弟子だけでなく、「全員」と記されていることは重要である。旧約では特別に選ばれた人だけだった。そこでパウロはキリスト者に「あなたがたは聖霊が宿っておられる神殿である」(Ⅰコリント6章19節)と言う。私たちがどんなに平凡な存在であろうとも、キリスト者である限り、私たちの内に聖霊が宿っておられるのである。たとえそれを感じることがないとしても、このことを堅く信じるべきである。聖霊の内住は、キリスト者の特権である。それゆえパウロは「神の聖霊を悲しませてはいけない」(エフェソ4章30節)と言う。またパウロはローマ8章1~17節でキリスト者の生涯は、聖霊に導きに従って歩むように変えられていることを強調する。もはや私たちはひとりではなく、孤独でもない。

 よくこの日は教会の誕生日だと言われる。この日以前も弟子たちは存在した。聖霊降臨以前と以後で弟子たちに大きな違いがある。それは聖霊の満たしを受けて、初めて彼らはキリストの福音を宣べ伝えるようになった。このことによって、教会とは何か、また存在理由が明らかになる。教会の使命は、十字架につけられたイエスを、また死に打ち勝って復活したイエスを、私たちの救い主と宣べ伝えることである。そしてペンテコステが私たちに告げるのは、福音宣教は、決して人間の力や知恵によってなされ得るものではなく、聖霊によってである、ということである。だから私たちは、自分がどんなに小さく非力であろうと、また時代がどんなに暗くとも、失望しない。ガリラヤの漁師であったペトロは、この日聖霊に満たされて説教し、多くの人がイエスを信じる者となった。教会にもキリスト者にも、聖霊が送られた日、それを覚え信じ記念する日が今日この日である。
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2018年05月06日 | 週報
 二〇一八年五月六日    NO・四五―六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)創世記    二七章 (月) 〃 二八章
        司会 高 澤兄(火)  〃   二九章(水)  〃 三十章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    三一章(金)  〃  三二章
招詞祈祷  哀歌三章二二~二七節    (土)  〃     三三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六七番        ◎十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 四四編          
讃  美  讃美歌二九八番         
献  金  感謝の祈り      平林姉    いつも喜んでいない。
讃  美  聖 歌四二一番          絶えず祈りなさい。
説  教  Ⅰテサロニケ五章十二~二二節   どんなことも感謝しなさい。
聖 餐 式                   これこそ、キリスト・イエスにおいて、
讃美祈祷  聖 歌六〇四番   みつ子師   神があなたがたに望んでおられることです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              Ⅰテサロニケ五章十六~十八節
   
   キリストが与えられる喜び・祈り・感謝
 今日の箇所で、最後の勧めがなされる。

 12~13節で教会のために「労苦し、指導し、助言する」人々に対して、愛し尊敬するように勧められる。当時はまだ正式な役職ではなかったが、主のためになされる務めの尊さのゆえに。

 次に「怠惰な者、小心者、弱い者」の存在が取り上げられ、各自にふさわしい対応が求められている。教会では、その人が役に立つか立たないかに左右されず、また考えが一致するしないにかかわらず、お互いに対して「寛容」「忍耐強さ」「辛抱する」態度が求められる。さらにもう一つ、「悪をもって悪に報いず、善を行う」生き方である。そこから「互いに平和に過ごす」状況が生まれるのである。このように「寛容」「悪に対する善行」「平和」は、教会の、キリスト者の生きる上での重要な要素である。

 16~18節の「喜び・祈り・感謝」は、主イエス・キリストよって与えられた救いから生まれるキリスト者のしるしである。そして無条件で「いつも、絶えず、どんなことも」と付け加えられている。
 パウロはまさに「喜びの人」であった。その喜びは、順風満帆から来る喜びとは違う喜びである。獄中で書かれたフィリピの手紙は喜びであふれている。だからここで言われている喜びは、自然な喜びではない。自然な喜びは長続きしないが、この喜びはどんな状況でも持続する。それは主イエス・キリストを知ることによって与えられる喜びである。キリストの救いに与った喜びである。主イエスが共にいて下さる喜びである。だから悲しみや苦しみによって奪われない喜びである。

 「祈りと感謝」は喜びと別個のものではない。キリストと共なる人生は、絶えずキリストと語らい、問い、向き合う歩みであって、それは祈りに相違ない。感謝もまたキリストが共にいて下さるという事実から生まれる。どんなに苦しく悲しい出来事に直面しても、「万事が益となるように共に働く」(ローマ8章28節)と信じることができるからである。私たちがいつも「喜び・祈り・感謝」の生活をすることこそ、神のご意志である。なぜなら、それは、キリストが与えて下さったものだからである。
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