二〇二三年二月二六日 NO・四九―四八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)詩編 百十七編(月) 〃 百十八編
司会 坂 本兄(火) 〃 百十九編(水) 〃 百二十編
奏楽 内 間姉(木) 〃 百二一編(金) 〃 百二二編
招詞祈祷 詩編九三編一~二節 (土) 〃 百二三編
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六八番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教義学要綱18の学びです。
交 読 文 詩 編 百 編 ◎三月五日(日)午後一時より教会総会です。
讃 美 讃美歌五二七番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り 松田兄
讃 美 聖 歌六九九番 彼らには弁解の余地がありません。
説 教 ローマ一章十九~二三節 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも
讃 美 聖 歌二四八番 感謝することもせず、かえって、むなしい思いに
祈 祷 高澤兄 ふけり、心が鈍く暗くなったからです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ一章二十~二一節
神の怒りの根拠
19節以下は、18節で提示された神の怒りが「人間のあらゆる不信心と不義に対して」現される(啓示される)ことを具体例をあげて説明している。その主旨は、彼らがそんなことは知らなかったから、神の怒り・罰を受ける筋合いはない、と言い逃れをすることができないようにするためである。だから21節で「彼らには弁解の余地がありません」と言われている。
19~20節でパウロは、「目に見えない神の性質、神の永遠の力と神性は被造物に現れている」(20節)ので、人は誰であっても、自然界を通して神を知ることができる、と述べている。これを神学では「自然啓示」「自然神学」と呼ぶ。このような理解をパウロは本当に持っているのか? 多くの神学者はそれを否定する。その根拠は、パウロの他の手紙に、それと反対のことが述べているからである。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(1コリント1章21節)。さらに1コリント2章6~10節。
確かに、人間には宗教心があり、昔からどのような民族も「神」という存在を認め、神を持っている。また神を証明し規定する哲学が存在する。しかしそれらすべてで認められている神は、聖書が啓示する「真の神」ではない。有限が無限を入れることができないように、「見えない神の性質、永遠の力と神性」は神が現して下さらなければ、人間は知ることはできない。この立場を「特別啓示」「啓示神学」と言う。
21~23節では、そのことを証明するかのように、「不滅の神の栄光を滅びる人間や……像にと取り換える」(23節)人間の倒錯した姿を示す。その結果、人間は「むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」(21節)とパウロは糾弾する。
パウロは、厳密な意味で「自然啓示」に立っておらず、宣教を通して(10章14~15節)啓示される福音によって、初めて人は真の神を人格的に知ることができると確信している。それなのにこの箇所では、まるで自然啓示を肯定するような発言をしているのはなぜか? それは自分は知らなかったので罪はない、などと誰も弁解することができないようにするためである。その罪の罰に対する神の怒りの裁きを、イエス・キリストが十字架を通して担って下さり、さらに復活によって神の義が与えられたのである。
礼 拝 次 第 (日)詩編 百十七編(月) 〃 百十八編
司会 坂 本兄(火) 〃 百十九編(水) 〃 百二十編
奏楽 内 間姉(木) 〃 百二一編(金) 〃 百二二編
招詞祈祷 詩編九三編一~二節 (土) 〃 百二三編
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六八番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教義学要綱18の学びです。
交 読 文 詩 編 百 編 ◎三月五日(日)午後一時より教会総会です。
讃 美 讃美歌五二七番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り 松田兄
讃 美 聖 歌六九九番 彼らには弁解の余地がありません。
説 教 ローマ一章十九~二三節 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも
讃 美 聖 歌二四八番 感謝することもせず、かえって、むなしい思いに
祈 祷 高澤兄 ふけり、心が鈍く暗くなったからです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ一章二十~二一節
神の怒りの根拠
19節以下は、18節で提示された神の怒りが「人間のあらゆる不信心と不義に対して」現される(啓示される)ことを具体例をあげて説明している。その主旨は、彼らがそんなことは知らなかったから、神の怒り・罰を受ける筋合いはない、と言い逃れをすることができないようにするためである。だから21節で「彼らには弁解の余地がありません」と言われている。
19~20節でパウロは、「目に見えない神の性質、神の永遠の力と神性は被造物に現れている」(20節)ので、人は誰であっても、自然界を通して神を知ることができる、と述べている。これを神学では「自然啓示」「自然神学」と呼ぶ。このような理解をパウロは本当に持っているのか? 多くの神学者はそれを否定する。その根拠は、パウロの他の手紙に、それと反対のことが述べているからである。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(1コリント1章21節)。さらに1コリント2章6~10節。
確かに、人間には宗教心があり、昔からどのような民族も「神」という存在を認め、神を持っている。また神を証明し規定する哲学が存在する。しかしそれらすべてで認められている神は、聖書が啓示する「真の神」ではない。有限が無限を入れることができないように、「見えない神の性質、永遠の力と神性」は神が現して下さらなければ、人間は知ることはできない。この立場を「特別啓示」「啓示神学」と言う。
21~23節では、そのことを証明するかのように、「不滅の神の栄光を滅びる人間や……像にと取り換える」(23節)人間の倒錯した姿を示す。その結果、人間は「むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」(21節)とパウロは糾弾する。
パウロは、厳密な意味で「自然啓示」に立っておらず、宣教を通して(10章14~15節)啓示される福音によって、初めて人は真の神を人格的に知ることができると確信している。それなのにこの箇所では、まるで自然啓示を肯定するような発言をしているのはなぜか? それは自分は知らなかったので罪はない、などと誰も弁解することができないようにするためである。その罪の罰に対する神の怒りの裁きを、イエス・キリストが十字架を通して担って下さり、さらに復活によって神の義が与えられたのである。