稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2022年12月25日 | 週報
二〇二二年十二月二五日 NO・四九―三九       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第   クリスマス礼拝 (日)詩編    五四編(月)  〃    五五編
           司会 坂 本兄(火)  〃   五六編(水)  〃   五七編
            奏楽 みつ子師(木)  〃   五八編(金)  〃   五九編
招詞祈祷  イザヤ五七章十四~十五節  (土)  〃   六十編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九八番        ◎二九日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り                 ◎次週は元旦礼拝です。
交 読 文  詩 編 九一編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌一〇三番        
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌一三五番         恐れるな。わたしは、民全体に与えられる
説  教 ルカ二章八~二十節        大きな喜びを告げる。
讃  美  聖 歌一三六番        今日ダビデの町で、あなたがたのために
祈  祷             松田兄 救い主がお生まれになった。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ルカ二章十~十一節
 
   クリスマスの夜の出来事
 8節は「羊飼いたち、野宿、夜通しの番」という描写によって、彼らが苛酷な労働に従事する人たちであったことを示す。さらに彼らは、ファリサイ人や信心深い人とは違う部類に属していた。

 9節、しかし神はそのような人々の所に天使を遣わされた。神は国の指導者、宗教指導者たちにではなく、安息日さえも守れないこの人たちに、救い主の降誕を知らせられた。これは何を意味するのだろうか。それは、神が取るに足らない者、排斥された者、弱者を愛されるということであろう。天使が近づくと、「神の栄光が周りを照らした」。神が御自身を啓示される時、どんな暗闇も追い払われる!

 10節、天使の第一声は「恐れるな」であった。これは突然の出来事――闇夜を引き裂く光————に羊飼いが恐れたのである。しかしこの言葉こそ、神が私たちに語られる最初の言葉である。罪と死が支配するこの世界に生きている私たちは、様々な恐れに取り囲まれている。戦争やコロナ、病気や失業等々によって不安や思い煩いのない人はいないだろう。そのような私たちに「恐れるな」と告げられる。

 なぜなら「大きな喜びが与えられる」(11節)からである。その喜びは、この世が与える喜びとは異質である。この世の喜びは、一時的な感激を起こさせるにすぎない。しかし神の与えてくださる喜びは、たとえ困難な中を通っていても失われない喜びである。なぜなら「主が共におられる」からである。

 12節、天使が、救い主の「しるし」として提示したのは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」である。万物の造り主が、このように低くなられた。そこが主にお会いする所である。それは「権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす」(1章52~53節)ためである。

 14節の有名な賛美は、飼い葉桶で生まれた救い主によって成就する。神の栄光は、この御子の低さの中で現され、心に適う人とは、困難の中に生きながら御子のもとに行く人で、平和が与えられる。

 天使の言葉(神の言葉)を聞いて従った羊飼いたちは、救い主にお会いできた。そして天使の言葉がすべてそのとおりであったので神を賛美した。ここに真のクリスマスの喜びがある! 神は羊飼いを用いたもう。今も小さい者を用いて、救い主がこの世に来られたことを告げ知らせることを神は欲しておられる。
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週報

2022年12月18日 | 週報
二〇二二年十二月十八日 NO・四九―三八       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第   待降節第四主日 (日)詩編    四七編(月)  〃    四八編
           司会 高 澤兄(火)  〃   四九編(水)  〃   五十編
            奏楽 内 間姉(木)  〃   五一編(金)  〃   五二編
招詞祈祷  雅歌八章七節        (土)  〃   五三編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三〇番        ◎二二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より、責任役員会。
交 読 文  詩 編 九十編         ◎オアシス稲毛ができました。配布にご協力ください。  
讃  美  讃美歌 九七番         ◎次週はクリスマス礼拝です。 
献  金  感謝の祈り      松田兄  ◎礼拝動画 こちら 
讃  美  聖 歌四一九番    
説  教 Ⅰコリント十三章八~十二節    愛は決し滅びない。
讃  美  聖 歌四四九番        完全なものが来たときには、
祈  祷             坂本兄 部分的なものは廃れよう。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               1コリント十三章八・十節 

   愛の不滅性(永続性)
 1~3節は、「愛の絶対性」、すなわち最高の霊的賜物を持っていても、愛を持たないならば、私は無であり、無価値である述べた。これは衝撃的宣言であり、私たちに何よりも愛が必要なことを示す。

 4~7節は、絶対的価値を持つ「愛の特性」を示す。7節で四回「すべて」という語を繰り返して、この愛が「無条件の愛」であることを明らかにする。愛する対象がどうであれ決して左右されない。

 8節の冒頭の「愛は決して滅びない」という事実こそ、愛の特性と共に、この愛の絶対的価値を最もよく表している。これは「愛は決して倒れない」と訳すことかできる。愛は、どんなに拒否され、打ち叩かれても決して倒れて消えてしまわない。また絶望的な状況に直面しようと、その場から決して退かないで、どこまでも愛し続ける。「愛の不滅性・永続性」が示されている。

 9節、それに比べて、今この世にある預言、異言、知識は廃れる。だからといって決してこれらのものを軽視しているのではない。これらは霊の賜物であって尊いものである。しかしそれは部分的なものであって、限界を持っていることを明らかにする。それは10節の「完全なものが来る」からである。完全なもの、完成の時には、それらは役目を終える。太陽の前に、他の光が光を失うように。

 その関係が「幼児と大人」と「鏡」の二つの比喩でさらに説明される。キリストの再臨によって、救いが完成した時に、私たちが経験するものに比べれば、この世にあるものは子供の遊びにすぎない。また「その時」神と顔を合わせて経験することに比べたら、この世でのどんなに素晴らしい霊的経験も「鏡に映る」実体ではない映像のようであって比較にならない。聖書の啓示は、私たちの救いに必要なものを十全に与えているが、御国において受ける全容を示してはいない。そのことを自覚する者は謙遜になる。

 1~12節で示された「愛」は、神の愛以外の何ものでもない。だからこのような愛は、私たちの内からは決して生まれてこない。どんな努力や精進、悟りによっても獲得できるものではない。しかし私たちがキリスト者として今存在している事実は、この愛が私たちの内に注がれているからである。そして私たちがこの愛によって他者を愛する時、私たちは永遠の出来事に参与しているのである。
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2022年12月11日 | 週報
二〇二二年十二月十一日 NO・四九―三七       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第   待降節第三主日 (日)詩編    四十編(月)  〃    四一編
            司会 みつ子師(火)  〃   四二編(水)  〃   四三編
             奏楽 内 間姉(木)  〃   四四編(金)  〃   四五編
招詞祈祷  イザヤ四二章一~三節    (土)  〃   四六編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二四番        ◎十五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                       予告
交 読 文  詩 編 八九編二十~五三節   ◎二五日(日)クリスマス礼拝、祝会はしません。  
讃  美  讃美歌 九六番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌四一八番    
説  教 Ⅰコリント十三章四~七節      愛は忍耐強い。愛は情け深い。
讃  美  聖 歌二六三番         不義を喜ばず、真実を喜ぶ。  すべてを忍び、
祈  祷             高澤兄  すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番             1コリント十三章四・六・七節 

   愛の特性
 4~7節は、「愛の特性」が15の行為を表す動詞で描かれている。つまりここで語られている愛は、抽象的な概念ではなく、具体的行動を通して現れ、知ることができるものである。構成は、最初の二つと最後の五つの肯定的表現の間に、八つの否定的表現が挟まっている。強いて否定的部分を細分すれば、「ねたまない~自分の利益を求めない」までが、自分自身の事柄であり、「いらだたない~不義を喜ばない」までが人との関係の事柄である、と言える。

 このような特性を持つ愛は、生まれながらの私たちからは決して出てこない愛である。この愛は、第一に、神が主イエスを通して私たちに注がれた愛である。そしてこの愛こそが、私たち人間の罪に打ち勝ち、私たち罪人を罪と死から救う力を持っていることを主イエスの十字架と復活が証明した。そして第二に、この愛は、私たちがそのように行動するように語られていることを忘れてはならない。

 15個の意味を個別に説明できないが、最初の「忍耐強い」という語は、口語では「寛容」と訳されている。ある人は「気が大きい」と訳す。他人からの不当な仕打ちに、仕返しをすることができるのにそれをしない、態度である。神の人に対する態度である。それゆえこの語は、弱さでなく強さを表す。「情け深い」は「親切」とも訳され「善良である」の意味で、他人に対していつも益になることをすること。

 人間の自然の愛は「ねたむ」。そして自分に関する事柄は、最後の「自分の利益を求める」に集約される。その根底にあるのは自己愛である。私たちの愛はいかに高尚に見えてもそれを脱することはない。

 6節は、この愛は無私的な愛であるが、決して無軌道な愛ではないことを示す。真理を喜ぶのだから。

 7節の「すべて」は「どんな時でも」と置き換えることができるだろう。4~6節までの愛に生かされた人は、その愛によって、どんなに大きな重荷を負わされても、神を見上げて「すべてを忍ぶ」のであり、神の助けがないと思える中でも「信じる」のであり、絶望的暗黒が世界を覆っていても、神にあって「すべてを望む」のであり、それらに疲れ果てることなく「耐える」のである。神の愛に生かされている私たちキリスト者は、愛の特性によって支配されているかで、自分の状態を見分けることができる。
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2022年12月04日 | 週報
二〇二二年十二月四日  NO・四九―三六       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第   待降節第二主日 (日)詩編    三三編(月)  〃    三四編
           司会 高 澤兄(火)  〃   三五編(水)  〃   三六編
           奏楽 内 間姉(木)  〃   三七編(金)  〃   三八編
招詞祈祷  イザヤ五四章十節      (土)  〃   三九編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二三番        ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 八九編        ◎礼拝動画 こちら

讃  美  讃美歌 九四番         
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌四一七番        たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と
説  教 Ⅰコリント十三章一~三節    あらゆる知識に通じていようとも、たとえ、
聖 餐 式                 山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
讃美祈祷  聖 歌三九三番    高澤姉 愛がなければ、(わたしは)無に等しい。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                1コリント十三章二節 

   愛がなければ私は無
 13章は「愛の讃歌」と呼ばれる。12章と14章で語られた聖霊の賜物(恵みの賜物)の真ん中にあって、賜物に優るものとして語られている。賜物は、各自違うものが与えられるが、愛は賜物の一つではなく、それらを超えた「最高の道」(12章31節b)であり、すべてのキリスト者が歩むべき道なのである。

 1~3節は、「愛の絶対性」が語られている。ここで取り上げられている事柄は、どれも素晴らしく、その一つさえ持つことができたら、と誰でも願うだろう。しかし愛がなければ……。

 1節で「異言」と訳されている言葉は、元々「舌」の意味で、「言葉」と訳す訳も多い。ここで「人々の言葉」すなわち、人を感動させ説得させる「言葉」と理解してもよいだろう。さらに天使の言葉さえ語れるならば何とすごいことか(2コリント12章4節)。これらを欲しない人があるだろうか? しかしパウロは「愛がなければ」と言う。それは旋律のない音楽のように、ただのやかましい騒音であると。

 2節はⅠ節に優ってキリスト者であれば誰でも欲するものである。預言だけでなく、神の秘められた計画を知り、あらゆる知識に通じていれば、私たちの人生は道に迷い、踏み外すことはないであろうし、また隣人に適切な助けを与えることもできるだろう。さらに山を移すほどの信仰を持っていたら、何も言うことはないではないか! しかしここでもパウロは「愛を持っていなければ、私は無だ」(直訳)と言う。預言の賜物、あらゆる神秘と知識、奇跡の信仰を持ちながら、愛がないということがあるのか? 誰がこれを理解できるだろうか。この愛は、言葉でも、認識でも、信仰でもないのである。

 3節は、まさに愛と呼ぶにふさわしい究極的自己犠牲が取り上げられている。これらは愛なくしてできるのかと誰でも疑問に思うに違いない。しかし究極的自己犠牲に見えるものが、自らを英雄のように誇る自己愛から行うこともあるのである。それゆえパウロは、この「愛を持たなければ、私は何の役にも立たない」(直訳)と言う。この愛とはどんな愛か。主イエスを通して注がれる神の愛である(ローマ5章5節)。私たちは、聖霊の賜物が豊かに与えられることを願う。しかしそれにも優って、私たちが思い、語り、行動する時、絶えず心に響かせるべきことは、「愛がなければ、私は無だ」ということである。
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