稲毛聖書教会

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週報

2024年02月11日 | 週報
二〇二四年二月十一日  NO・五十―四六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)マタイ  十五章 (月)   〃 十六章
         司会 坂 本兄(火) 〃   十七章 (水)   〃  十八章
         奏楽 内 間姉(木) 〃   十九章 (金) 〃  二十章
招詞祈祷  イザヤ八章十三~十五節   (土) 〃   二一章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十三番        ◎十五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                  ◎礼拝動画 こちら
交 読 文  詩 編百二三編        
讃  美  讃美歌五〇三番         
献  金  感謝の祈り     みつ子師   しかし、イスラエルは義の律法を
讃  美  聖 歌四二三番         追い求めていたのに、
説  教   ローマ九章三十~三三節     その律法に達しませんでした。
讃  美  聖 歌五五二番         なぜでしょうか。信仰によってではなく、               
祈  祷             志村姉  行いによって達せられると考えたからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ローマ九章三一~三二節

   宗教的人間になるな
 14節に続いて30節でも「では、何と言うべきでしょうか」との問いが発せられる。これはわが(神)民でない異邦人がわが民となり(25節)、ユダヤ人は「残りの者」だけが救われる(27節)という事態を念頭に置いて、なぜそうなのかという問いである。そして9章29節までは、神の側からの自由の選びの視点で語られてきたが、30節からは人間の側の視点で語られる。

 パウロは「義を追い求めなかった異邦人」(30節)、「イスラエルは義の律法を追い求めた」(31節)と述べて、両者の決定的違いを示す。これは何と皮肉で驚くべきことではないか! 真剣に求めた人が得ないで、求めなかった人が得るとは。ではなぜこのような事態になったのか。それは、異邦人は「信仰による(「信仰から」直訳)」からであり、イスラエルは「信仰によらないで(「信仰からでなく」直訳)行いによって達せられると考えたから」(32節)である。「信仰と行ない」、これこそ問題の核心である。もちろんここの「信仰」とは、私たちの信じる信仰ではなく、キリストの真実(まこと)、すなわち全人類のための十字架の贖いを指す(3章22~24節、5章8節)。救いが、もし私たちの信じる力にかかっているならば、その信仰もまた一つの行いになってしまう。

 イスラエルの間違いは、自分の行いによって「義の律法」すなわち律法の目標である義に到達できると思ったことである。行いに頼る者は高慢になり、他人を裁く者となる。キリスト者も気をつけないとユダヤ人と同じ過ちに陥る。敬虔・信仰の熱心がその人を高慢にさせ、そうでない兄姉を裁くようになる。そこには自己肯定、自己満足はあっても真の謙遜、感謝はない。しかし主イエスは私たちが「幼子」のようになることを求められた(マタイ18章3~5節)。そこに父なる神の懐にある平和、天真爛漫がある。

 自分の行いに頼るイスラエルは、神が備えられたメシアに躓いた。十字架にかかるメシアなどメシアではない、と。回心前のパウロも、己の義を立てる身の程知らずの傲慢な者であったが、復活の主に出会って、敗北にしか見えない十字架こそが、自分の罪のための贖いであり、神の愛そのものであることを知らされた。私たちは自分の敬虔に頼る宗教的な人間にならないで、絶えず幼子のように神の前に生きよう。


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