二〇二三年十二月三一日 NO・五十―四十 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 年末礼拝 (日)ナオム 一章 (月) 〃 二章
司会 坂 本兄(火) 〃 三章 (水)ハバクク 一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二章 (金) 〃 三章
招詞祈祷 詩編百十八編十三~十六節 (土)ゼファニヤ 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六 番 ◎四日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り ◎礼拝動画 こちら
交 読 文 詩 編百十九編レシュ
讃 美 讃美歌 九八番
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌四二八番
説 教 ローマ八章三五~三九節 高いものも深いものも、他のどんな被造物も、
讃 美 聖 歌二九二番 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から
祈 祷 高澤兄 私たちを引き離すことはできないのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ八章三九節
神(キリスト)の愛の完璧な勝利
「誰が敵対するのか」(31節)、「誰が訴えるのか」(33節)、「誰が罪に定めるのか」(34節)と問うたパウロは、最後に「誰がキリストの愛から私たちを引き離すのか」と問う。そしてパウロは「苦難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」と7つの事柄をあげている。これらは、人が生きている限り誰にでも起こる可能性があるものである。しかし当時、キリスト者は多くの敵対者に囲まれていた。それゆえパウロの念頭にあったのは、これらはキリスト者であるゆえに受ける固有の苦難である。そしてそれを裏付けるように36節で、詩編44編23節を引用している。敷衍すれば「私たちキリスト者は、キリストのゆえに、一日中、死にさらされ、屠られる羊のように見なされている」と。しかしキリストを信じるがゆえにこれらの苦難に会うとすれば、それはむしろキリストの愛を疑わせる原因となるのではないか。
それに対するパウロの答えは37節「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りがある」と力強く断言する。このように言うことができるのは、私たちの信仰の強さや、頑張りによるのではなく、「愛してくださる方」の愛の力によってである。これはこれから愛してくださるというのではなく、すでに十字架の犠牲をもって「愛してくださった」愛に裏打ちされた愛である。「勝って余りがある」のは、キリストの、神の愛であるゆえに、誰もその愛から私たちを引き離すことができるものはいないからである。ヨハネ10章28~29節の主イエスの言葉を参照。
そこでパウロは38節以下10個の事柄を列記して、これらさえも神(キリスト)の愛から引き離すことはできない、と告げる。ここに列記されているものは、人間の力を超えた天上・地上・地下のすべての(霊的)存在を指すと思われる。これらが人間の力の及ばない存在としてどんなに人間に襲い掛かろうとも、最後の「他のどんな被造物も」が示しているように、「被造物」にすぎないのである。それゆえそれらは創造主に太刀打ちできない。このようにパウロは、神(キリスト)の究極の愛の勝利の賛美をもって8章を終える。1章17節で提示された主題「神の義が、福音の内に、(キリストの)真実により(私たちの)信仰へと啓示される」という救いの御業が、神(キリスト)の究極的愛として讃美をもって結ばれる。ハレルヤ!
礼 拝 次 第 年末礼拝 (日)ナオム 一章 (月) 〃 二章
司会 坂 本兄(火) 〃 三章 (水)ハバクク 一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二章 (金) 〃 三章
招詞祈祷 詩編百十八編十三~十六節 (土)ゼファニヤ 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六 番 ◎四日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り ◎礼拝動画 こちら
交 読 文 詩 編百十九編レシュ
讃 美 讃美歌 九八番
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌四二八番
説 教 ローマ八章三五~三九節 高いものも深いものも、他のどんな被造物も、
讃 美 聖 歌二九二番 私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から
祈 祷 高澤兄 私たちを引き離すことはできないのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ八章三九節
神(キリスト)の愛の完璧な勝利
「誰が敵対するのか」(31節)、「誰が訴えるのか」(33節)、「誰が罪に定めるのか」(34節)と問うたパウロは、最後に「誰がキリストの愛から私たちを引き離すのか」と問う。そしてパウロは「苦難、行き詰まり、迫害、飢え、裸、危険、剣」と7つの事柄をあげている。これらは、人が生きている限り誰にでも起こる可能性があるものである。しかし当時、キリスト者は多くの敵対者に囲まれていた。それゆえパウロの念頭にあったのは、これらはキリスト者であるゆえに受ける固有の苦難である。そしてそれを裏付けるように36節で、詩編44編23節を引用している。敷衍すれば「私たちキリスト者は、キリストのゆえに、一日中、死にさらされ、屠られる羊のように見なされている」と。しかしキリストを信じるがゆえにこれらの苦難に会うとすれば、それはむしろキリストの愛を疑わせる原因となるのではないか。
それに対するパウロの答えは37節「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りがある」と力強く断言する。このように言うことができるのは、私たちの信仰の強さや、頑張りによるのではなく、「愛してくださる方」の愛の力によってである。これはこれから愛してくださるというのではなく、すでに十字架の犠牲をもって「愛してくださった」愛に裏打ちされた愛である。「勝って余りがある」のは、キリストの、神の愛であるゆえに、誰もその愛から私たちを引き離すことができるものはいないからである。ヨハネ10章28~29節の主イエスの言葉を参照。
そこでパウロは38節以下10個の事柄を列記して、これらさえも神(キリスト)の愛から引き離すことはできない、と告げる。ここに列記されているものは、人間の力を超えた天上・地上・地下のすべての(霊的)存在を指すと思われる。これらが人間の力の及ばない存在としてどんなに人間に襲い掛かろうとも、最後の「他のどんな被造物も」が示しているように、「被造物」にすぎないのである。それゆえそれらは創造主に太刀打ちできない。このようにパウロは、神(キリスト)の究極の愛の勝利の賛美をもって8章を終える。1章17節で提示された主題「神の義が、福音の内に、(キリストの)真実により(私たちの)信仰へと啓示される」という救いの御業が、神(キリスト)の究極的愛として讃美をもって結ばれる。ハレルヤ!