稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2018年11月25日 | 週報
二〇一八年十一月二五日 NO・四五ー三五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)士師記   十九章 (月) 〃   二十章
        司会 みつ子師(火)  〃   二一章(水) ルツ記   一章
         奏楽 内 間姉(木)  〃     二章(金)  〃    三章
招詞祈祷  詩編三十編十二~十三節   (土)  〃    四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六三番        ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後、大掃除です。
交 読 文  詩 編 七一編一~十三節  ◎十二月一日午後二時より千葉市文化センターにて
讃  美  讃美歌三二四番         市民クリスマスです。
献  金  感謝の祈り      平林姉 秘められた計画が啓示によって
讃  美  聖 歌三九八番        わたしに知らされました。
説  教  エフェソ三章一~十三節    わたしは、この恵みにより、
讃  美  聖 歌二一七番        キリストの計り知れない富について、
祈  祷             高澤兄 異邦人に福音を告げ知らせており、
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                エフェソ三章三・八節
   
   パウロに啓示されたキリストの奥義 
 1節は本来14節以下の「祈り」に繋がる。しかしパウロはその間に長い挿入文を入れている。それは1節の「囚人」という言葉に触発されもので、13節でもう一度そのことに触れて締めくくっている。

 2節以下の一つの鍵語は、「奥義」(ミュステーリオン3・4・5・9節)である。新共同訳は、「秘められた計画」(3・9節)「実現された計画」(4節)「この計画」(5節)と訳している。この奥義は、どこまでも「キリストの奥義」(4節)である。すなわちキリストによる救いの御業のことである。その詳細について2章までにパウロは語ってきたーーキリストによる罪と死からの救い、キリストによる平和と一致、全人類が神の家族になる等々ーー。ここでパウロは、そのキリストの奥義を、神は自分に啓示してくださり、それを宣べ伝える使徒として下ったと強調している。 

 現代の私たちにはなかなか理解できないことであるが、ユダヤ人と異邦人との垣根が取り除かれたというメッセージは、ユダヤ人にとって驚天動地の事柄であった。キリストによって実現する一致・平和こそ、天地創造の前から隠されていた神の御心が明らかにされた(啓示)救いの事実である。現代もなおある紛争・分裂の現実を、私たちは嘆かないようにしよう。無から有を造り出す神は、キリストによって最終的に万物の平和・一致を実現されるから。まさにこの救いこそ「神の恵み」というほかない。

 パウロは自分を「最も小さな者」(口語訳)と呼ぶ。人間的・客観的に見れば、パウロは決してそのような者ではなく、むしろ優れた者である。ここでパウロは謙遜して、また他者と比較して言っているのでもない。「神の前」で本心で言っている。神の前に立たされた者だけが持つこの自己理解! 神はこのような者を御自分の御業のために用いられる。だからパウロは自分をどこまでも「キリストの囚人」と呼び、またキリストを宣教したために受けた様々な苦難を光栄とさえ思うことができる。
13節でそのことを確認して、自分の今の捕らわれの状態が決してマイナスではなく、あなたがたにとって栄光とさえなると言明して、エフェソの信徒が悲しまないように勧める。
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2018年11月18日 | 週報
 二〇一八年十一月十八日 NO・四五ー三四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)士師記   十二章 (月) 〃   十三章
         司会 高 澤兄(火)  〃   十四章(水) 〃   十五章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    十六章(金)  〃   十七章
招詞祈祷  イザヤ五七章十八~二一節  (土)  〃   十八章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六二番        ◎二二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時よりボンヘッファーの学びです。
交 読 文  詩 編 七十編         ◎本日は責任役員会。
讃  美  讃美歌三二一番        ◎次週は大掃除を予定しています。 
献  金  感謝の祈り      堅田姉 ◎十九日、牧師夫妻は筑波福音同志会へ。
讃  美  聖 歌三九八番       
説  教  エフェソ二章十八~二二節 あなたがたは……神の家族であり、……
讃  美  聖 歌四七〇番     キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、
祈  祷             坂本兄 霊の働きによって神の住まいとなるのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                エフェソ二章十九~二二節
   
   キリストの平和は、全人類を神の家族とする
 キリストの十字架の最大の目的は、「神との和解」(16節)である。その前提として罪の赦しがある。神は、自分自身を自分の主権者(神)として、神を神と認めない人間の敵意(罪)に対して、独り子を与える愛をよって、その敵意を取り除き、罪を赦して下さった。ローマ5章6~11節参照。その意味でまさに「キリストはわたしたちの平和である」(14節)。そして神との正しい関係にある時、私たちは他者との正しい関係を築くことができる。

 キリストにある平和は、表面的に争いがない状態をいうのではない。国と国、民族と民族、夫と妻、親と子、友人同士、そして隣人との間に生じる争いは、各自が自分の正しさを主張し、相手の非を糾弾する所に生まれる。そうである限り、争いの一時停戦、あるいは妥協があるのみで、真の平和はそこにはない。私たちはキリストの命の代価によって、無条件で自分側の負い目(負債)が取り除かれ赦された出来事を経験することによって、はじめて他者への敵意を取り除くことができるのである。その真の平和の関係・状態を、パウロは「キリストは、双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げ平和を実現し」(15節)、「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれ」(18節)と述べる。

 さらにパウロは、キリストにあって、すべての人が「神の家族」(19節)とされ、「聖なる神殿」(21節)すなわち「神の住まい」(22節)となる、と言う。神の住まいとは、「神が私たちと共におられる」こと、インマヌエルということである。キリストの平和、それは豊かな意味を持つ。それは調和、一致、充足、繁栄など含んでいる。そこに分裂や敵意はない。キリストによる私たちへの神の愛を知り、自己絶対化から解放され、神を神とし、さらに無条件の赦しを受けた者として、他者を許し受け入れる所に、真の平和ある。それはお互いが、平和そのものであるキリストにつながることによって可能なのである。

 パウロはもう一つ「キリストにおいてこの建物全体は組み合わされて成長し」(21節)と言う。キリストの教会は、キリストの平和にあずかった者として、この平和を世界に広げていく。
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2018年11月11日 | 週報
二〇一八年十一月十一日 NO・四五ー三三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)士師記    五章 (月) 〃   六章
        司会 みつ子師(火)  〃    七章(水) 〃   八章
         奏楽 内 間姉(木)  〃     九章(金)  〃   十章
招詞祈祷  ミカ五章一~五節      (土)  〃   十一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六一番        ◎十五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 六九編十四~三七節    
讃  美  讃美歌三二一番         
献  金  感謝の祈り      高澤姉 実に、キリストはわたしたちの平和であります。
讃  美  聖 歌三九八番       二つのものを一つにし、御自分の肉において
説  教  エフェソ二章十一~十八節   敵意という隔ての壁を取り壊し、
聖 餐 式                 御自分において、一人の新しい人に造り上げて
讃美祈祷  讃美歌五三一番    志村姉 平和を実現し、神と和解させ……
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                エフェソ二章十四~十六節
   
   キリストの平和にあずかる
 11~12節で、パウロはエフェソの信徒のキリスト者になる前の状態を列挙する。「列挙」されている事柄は、ひと言でいえば、神がイスラエルに啓示し、与えられた救いの約束に与っていないということである。そして13節で「しかし今や」と言って、キリストにある救いの状態を示す。私たちはキリストの救いに与る「以前と今」の自分がいかに違うかを絶えず「思い起こす」ことは大事である。それによって、感謝が起こり、信仰が強められる。それゆえ11節は「思い起こしなさい」で始まる。

 14節以下は、まさに珠玉の言葉、内容であり、この手紙の中心的メッセージである。14~18節までに「平和」という語が四回出てくる。冒頭で主題が提示される。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と。注意してほしい。キリストが私たちに平和を与えられる、と言われておらず、「キリストご自身こそ平和である」と言われていることを。ここで平和とは状態ではなく、人格(概念)である。

 平和の反意語として「敵意(敵対)」(14・16節)という語が用いられている。この語によって、民族と民族の敵対、また男女の差別、障がい者への偏見等々、あらゆる障壁が考えられる。そこには宗教間の教義の違いも含めることができる。このような「敵意」を私たち人間は、自分の力で取り除くことができない。昔も今もそして未来も、この世界の隅々にまで、この敵意が存在している。

 しかしキリスト・イエスは、ご自分の「血によって」(13節)「肉によって」(15節)「十字架を通して」(16節)、「敵意という隔ての壁を取り壊し」(14節)「敵意を滅ぼされた」(16節)。そして敵対していた者たちを御自分に結び付け、一つにし、一人の新しい人間と造り上げてくださった。キリストの恵みにより、信じる者すべての者がキリストと霊的に結合される所に「平和」がある。その共同体がキリストの「教会」である。これによって「キリストご自身が私たちの平和である」という真意が解明される。キリストに人格的に繋がることなしに、私たちは私たちの内にある「敵意」を取り除くことはできない。キリストの十字架の愛だけが、高慢で頑なな私たちの敵意を殺し、平和を造り出すのである。
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2018年11月04日 | 週報
 二〇一八年十一月四日  NO・四五ー三二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第  召天者記念礼拝(日)ヨシュア記  二二章 (月) 〃  二三章
         司会 高 澤兄(火)  〃    二四章(水)士師記  一章
           奏楽 内 間姉(木)  〃      二章(金)  〃   三章
招詞祈祷  ホセア十一章八~九節    (土)  〃     四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五八番        ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日の礼拝は「召天者記念礼拝」です。
交 読 文  詩 編 六九編一~十三節    
讃  美  讃美歌四八八番         
献  金  感謝の祈り      豊口姉 何故なら私達は
讃  美  聖 歌三九八番        神が予め準備し給うた善い業のため、
説  教  エフェソ二章四~十節     その中を歩くために、
讃  美  聖 歌四九〇番        キリスト・イエスにおいて創造された
祈  祷            みつ子師 神の作品である。(塚本訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                エフェソ二章十節
   私たちの救いの現実
 この世界の現実が悪に満ちていること、私たちが日々経験する他者との軋轢や不和の現実を、聖書は「あなたがたは……過ちと罪に死んでいた」(1節)と宣告した。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださった(4~5節)、と告げられる。これがキリストによる救いである。

 6節以下、神の愛とキリストによる救いの内容が説明される。1章20節で、神が「キリストを死者の中から復活させ」、「御自分の右の座に着かせた」と言われたが、6節で、キリスト者を「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」と言われている。「よって」と訳されている語は、口語訳のように「あって」と訳す方が良い。この節が言わんとすることは、キリストの身に起こった「復活と高挙」はキリストにあって(in)すでに私たちにも起こっているのだ、と。それは1章23節で「教会はキリストの体である」と言われたことに通じる。かしらであるキリストに起こったことは、体である教会にも及ぶのである。そしてこの事は、私たちが将来受け取るのではなく、今すでに起こったというアオリストの時制が用いられている。

 8節では、この驚くべ救いは、どこまでも神の恵みによってもたらされたのであって、私たちの努力や功績は何一つ関わらないことが確認され、神の贈り物だと言われる。ただその救いをいただく通路として「信仰」が述べられている。ここでも「救われた」という完了形が使われていて、救いは将来の事ではなく、すでに成し遂げられていることが強調されている。さらに9節は、私たちの「行いによるのではない」と念を押している。それは誰も自分を誇らないためである、と。

 10節は結論である。「神に造られた」、「キリスト・イエスにおいて造られた」とは、キリストによる「新生」のことである。そして神はキリストによって、私たちを死から命へ移して下さっただけではなく、それ以前とは違って神の御心に適う「善い業」を行えるようにしてくださった、と。すでに復活の命に与るだけでなく、善い業も行える者として下さっているとは、何という幸いな生涯でないか!
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「受肉・洗礼・荒野の誘惑」

2018年11月02日 | 行事
 10月2日から11月13日まで毎週火曜日午前10時~12時まで、日本福音学校 千葉校の信徒研修講座が開かれている。今年は30周年の記念の年であるので、原点に戻って、「キリストの生涯」について 学んでいる。私も主イエスの「受肉・洗礼・荒野の誘惑」について10月9日に話しました。その時のための草稿を主イエスの「受肉・洗礼・荒野の誘惑」についての理解の一助になればと思い載せます。



   主イエスの受肉と洗礼と荒野の誘惑    JES千葉校   10/9/18
緒論)  今年は日本福音学校、千葉校の30周年の記念の年です。そこでキリスト教とはキリストなのですから、原点に立ち返って「キリストの生涯」を学ぶことになった。今日は「主イエスの受肉と洗礼と荒野の誘惑」について学ぶ。
私たちは主イエスの誕生を「降誕」という言い方をする。これは普通の人には用いない。つまりこのような言い方をすることは、イエスの誕生は、他の誕生と同じでないことを言い表している。
主イエスの歴史的誕生について、新約聖書ではマタイとルカの福音書が記している。共通しているのは、主イエスは、聖 霊によって宿ったということです。これによって主イエスは、ただの人でないことが示されている。ボンヘッファーは、クリスマスという文章の中でこう言っている。「すべてのキリスト教神学は、神が人となり給うたというこの奇跡中の奇跡の中に、その根源を持っている。「聖なる神学」、それは馬小屋の中の神々しい幼子の神秘の前にひざまずく膝の中にある。神の奇跡を奇跡として確認し、神の秘密をまさに秘密としてとらえ、弁護し、栄光を帰すこと、このことだけが神学の務めである。」そしてヨハネ福音書は、その冒頭のロゴス賛歌でロゴスは神と共にあり神であった、さらに万物は言葉によって成ったと述べて後、14節で「ロゴスは肉となって、わたしたちの間に宿られた」と述べている。この「ロゴスは肉となった」という言葉から「受肉」という神学用語が出てきた。それは創造主であるロゴスが被造物となられたということを意味する。だから「受肉」とは神が人間になられた、ということを意味し言い表している。
 11世紀にカンタベリーの大司教であったアンセルムスは「神はなぜ人となられたのか」という一書を表しました。そこで今日私たちは「神はなぜ人となられたのか」、また「神はなぜ人とならねばならなかったのか」と、受肉の目的、意味を問うていきたい。

 Ⅰ.受肉の前提
 ①創造――人間の創造
 最初に受肉の前提について考えたい。それは天地創造、人間の創造にまでさかのぼる。創世記の1・2章に万物の創造が記されている。人間は他の被造物と違って1章26節で「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」27節「神は御自分にかたどって人を創造された。」とある。この神に似せて、御自分にかたどってということはどういうことか。創造の業は6日で終わりません。2章2節にはっきりと「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息された」と語られています。私たちは安息なさったという言葉につられて、七日目をただ神が休息された、つまり六日間働いてその疲れを癒すかのように、七日目を休まれた、というように理解しやすいのではないか。しかしここをそのように理解するとしたら、意味を取り違えている。神は人間のように疲れる事はない。主イエスはヨハネ福音書5章17節で安息日にベトサイダの池38年間病気で苦しんでいる人を癒された時、ユダヤ人の批判に対して「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われた。話を戻すと、創世記2章2節にはこうも書いてある。「神は御自分の仕事を完成された」と。この七日目こそ、創造の完成の日であった、ということをわすれてはならない。この日がなければ創造のみ業は終わらなかったし、完成しなかった。あるいはこの日を目指して創造のみ業は進められた、と言ってもよい。そこで、3節に『第七の日を神は祝福し聖別された』といわれているのです。第七の日は、人間にとって最初の日です。神にかたどって造られた人間は、神の祝福と聖別に与り、神との親しい交わりに預かるのです。その事なしに創造の御業は完成しないのです。そして十戒に「安息日を覚えて聖とせよ」(出エジプト記20章8節)といわれている。その内容につて主イエスはマルコ2章27-28節で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」と言われている。安息日は神のためではなく人のために、神が人間との交わり祝福し聖別するために備えられたのです。それこそ創造の完成を意味する。

 ②ノアの契約(創世記9章1-17節)
 次に受肉の前提として、「ノアの契約」について見ます。
 まず「命」について言えば、神が万物を造り、命あるものとされたことからも当然引き出されるのですが、エゼキエル18章4節「すべての命はわたしのものである。」ということです。その意味で尊いものです。動物の命については、その命の代わりに5節で、お金や物で賠償することができると書かれている。
 しかし人間の命については「人間どうしの血については、人間からは人間の命を賠償として要求する。」(5節)と言われているのです。そしてその理由として6節で「人は神にかたどって造られたからだ。」と言われている。つまり、人の命は、物やお金で賠償できるものではなく、命には命によってでなければ贖えない、ということが言われているのです。ここから人の命は交換不可能の尊い、かけがえのないものであることが示されている。人の命は地球よりも重いのという言葉がありますが、それはこのような理由からです。
 そしてここに「神はなぜ人となられたのか」の一つの理由が明らかになる。神は全能の力をもっていても、人を死から命に移すことはできない。人の命は人の命によってでなければ償えないほど尊いものだからです。
 
 Ⅱ.受肉の目的
 1.救済の観点から
アンセルムスは「神はなぜ人となられたのか」という一書を著しました。そこで主に二つの理由を述べている。
 ①「人は罪によって無限に毀損されているので、それに対する賠償を求めてやまない神の名誉から。」
今のあの契約の所で確認したように、罪によって死ぬものとなった人間の命を罪ら贖うために神は人となる必要があった。人の命は人の命によってということ。これは人の救いと言う観点から「神はなぜ人となられたのか」を明らかにしている。
 ②「神の最も貴重な業としての人間を破壊することは不可能であるから。」
アンセルムスは神の愛という理由を挙げている。
 ①の神の義という観点から、神が人とならなければならなかった必然性が明らかになる。神の義は「罪を犯した魂は死ぬ」ことを要求する。罪は死によって償われる以外にない。だから神が全能であるなら、その全能によって人の罪を帳消しにし、命を与えたらよいのではないか、という考えは退けられる。それでは神の義は全うされないのです。それでは神の義であるということが否定されてしまう。それで神は私たちの罪のための身代わりとして主イエスの命を死に付された。
 ②も①と深く関わっていて神は人間を愛してやまないので、滅びることを望まれず、死から命に救うために御子イエスを送ってくださった、と言う。
以上のように、アンセルムは、救済の目的のために、神は人となられたと言う。

 Ⅱ.創造の観点から
 神に罪を犯した人間を死から命への救済ということだけを考えるならば、主イエスは十字架にかかり、復活し、昇天されたら、もはや人間である必要があるか、という問いが起こります。つまり神は一時的に人間になったけれどもそれを成し遂げたら、元の神に戻られた、と。このような考えは、ひとつの仮現論です。一時的に仮に人間の姿を取られた、と。
しかしモルトマンという神学者は、救済の立場からだけでなく、創造の立場からキリストの受肉の目的を強調する。そして「神のこの受肉は、永遠から神の意図であったのであり、世界の創造は、外的な枠を示し、子の人となることの準備を示すものである。」エフェソ1章3.節に「天地創造の前に、神は私たちを選ばれた」と記されている。さらに5節で「キリストによって神の子にしようと前もってお定めになった」とある。神は全知全能の神です。行き当たりばったりに行動されるお方ではない。だから神は人間を創造された時、「神は御自分にかたどって人を創造された。」時から、人となることを意図しておられたのである。主イエスは、今神の右の御座におられても、人間である。
 ヨハネ黙示録に記されている新天新地、新しいエルサレムにおいて神と小羊が都の光であると言われている(21章23節)。キリストが小羊と呼ばれているのは、私たちのために命を捨ててくださったイエスを象徴しているわけです。ここに人となられた姿を見る。
 イエス・キリストは、人となられて以来、永遠にまことの神であり、まことの人であり続け給う。そして私たちは人でありつつ、またキリストによって神の子でもある。神の人間創造の初めに「ご自分に似せて、ご自分にかたどって」造られたことを完成としてロゴスの受肉があるのである。ですからモルトマンは神の子は人間の罪のために人となっただけではなく、むしろいっそう創造の完成のためであったということである。したがって「人類が罪なしに生き続けたとしても、やはり神の子は人となったであろう。」と言っている。
 ではなぜ神はこのようなことをなさったのか。それこそ神の本質にかかわることなのです。なぜなら神は三位一体の神だからです。愛の交わりを本質とされるからです。
 子が人となることこそ初めて、最初の創造を、完成するのである。子が人となることは、新たなる創造の基礎となる。

 結び)
 バルトは「言葉が肉なった」ということは「言は時間となった」ということを意味する、と言った。つまりそれは歴史の中に登場したと言うことです。2000年前、ロゴスがイエスとしてこのように生まれられた時こそ、「神が人となられた」瞬間です。これはこの地上で、歴史上で起こった最大の出来事です。まさに歴史の中心にイエス・キリストの降誕と言う出来事が立っている。西暦がキリストの誕生を中心にそれ以前とそれ以後を設定しているのは、まさに聖書的に正しい。私たちは主イエス・キリストの受肉と御業を通して、神がどのようなお方かを知らされる。だからヨハネ1章18節の「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ということを知るのです。そしてそれは「恵みと心理に満ちていた」(14節)と言うほかない。
 神はイエスのようなお方であり、人となるほどに人間を愛し、自分を空しく、低くしてまでも人間と一つになることを望まれる神であることをこの「受肉」という出来事、事実は現しているのである。
 神が人となられたというのは、一時的なことではない。約2000年前、イエスと言う人として「肉となって宿られて」以来、主イエスにおいて、永遠にまことの神であり、まことの人間である。黙示録には小羊という言葉が何度も記されていて、21章に天のエルサレムが描写されているが、全能者である神と小羊が、神殿であり、都の明かりであると記されている。天の御国においても主イエスは小羊であり給う。
 もう一度「神はなぜ人となられたのか」と問うならば、神は人となるほど人間を愛してやまないからだ、と言える。神にかたどって、神のかたちに、人間を造られた、というその時から、神はこのような完成を目論んでおられたのである。これが私たち人間に注がれた神の愛、御業です。ですからヘブライ1.13には、人間は天使に勝る存在であり、人間に奉仕する霊である、と言われている。なぜならロゴスであり神の御子は、人間そのものであり給うからです。


 洗礼について
 緒論) 内村鑑三の言葉に「読むべきものは、偉人の筆になりし、偉人伝なり」というのがある。立派な人の伝記を読むことは私たちの生き方に非常によい影響があるが、偉人を真に理解するのは同じように偉人でなければというのである。以前、福音書をマタイ伝、マルコ伝と呼んでいた。しかし最近は使わなくなった。それは福音書が伝記のように、主イエスの生涯を網羅的に記していないからです。四つある福音書の中で主イエスの誕生を記しているのはマタイとルカ、ヨハネは歴史的とは言えない。マルコは、バプテスマのヨハネの記事から始まっている。そしてルカが12歳の主イエスが祭りのために両親とエルサレムに行ったことを一度だけ記しているだけで、四つの福音書はバプテスマを受けるためにバプテスマのヨハネの前に現れるまで主イエスが30歳までどのように過ごされたか全く沈黙しているのです。つまり福音書は、主イエスの伝記ではなく、主イエスのもたらされた「福音」の記録なのです。実に3年に満たない期間です。福音書が記しているのは、主イエスが人類の救済のために何をなさったことです。
 今日の学びの「受肉と洗礼と荒野の誘惑」は、主イエスの公生涯の直前の出来事です。そして「洗礼と荒野の誘惑」はメシアとしての活動するための必要不可欠の準備・備えと位置付けることができる。
受肉の所で「神はなぜ人となられたのか」ということを見てきました。ここでは「罪のないイエスがなぜ洗礼を受けられたのか」を見ていきたい。

 Ⅰ.洗礼者ヨハネについて
四つの福音書はすべて、洗礼者ヨハネの登場と働きを記している。そして共通してイザヤ40章3節を引用して、洗礼者ヨハネの働きを示している。それは荒野で叫ぶ声、主の道を整えて、メシアの来られることを人々に知らせ、備えさせる働きです。ヨハネの働きはユダヤ全土に知れ渡った。それを聞いて、主イエスは30年の沈黙を破ってヨハネのもとに来られた。ついに時が満ちたのです。先駆者の登場によって、いよいよ主イエスは、自分がこの世に来た務めを果たすために、人々の前に公に姿を現された。
 当時ユダヤ教にはファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派があった。エッセネ派では毎日洗礼が行われていたようです。しかし洗礼者ヨハネの洗礼は一回限りのものでした。そして洗礼者ヨハネの洗礼は、「悔い改めの洗礼」(ルカ3章3節)でした。
「悔い改めるメタノエオー」とは「変えるメタ」と「考えるノエオー」の合成語です。
罪を告白し罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼3節でした。
 そこで「罪のないイエスが洗礼を受けられたのか」という大きな疑問が起こってくる。

 Ⅱ.主イエスの洗礼
 1受洗の理由・意味
 a.ヨハネの働きの承認
主イエスはヨハネのバプテスマの働きをすべての人間が神の御心として受け入れ承認されたのである。主イエスご自身がマタイ11章9-10節で、ヨハネの事を預言者以上の者、またイザヤ40章3節の言葉を引用して、先駆者、メシアのために道備えをするものと認めておられる。
またヨハネが選民のイスラエルに「悔い改めの洗礼」。罪の赦しが必要なことを宣べ伝えたことは神からのものだと認められたのです。

b.「正しいことをすべて行うことは、我々にふさわしい」(マタイ3章15節)の意味
人々はぞくぞくとヨハネのもとに来て洗礼を受けていたが、主イエスもその中に混じって洗礼を受けるためにヨハネものとに来られた(ルカ3章21節)。しかしヨハネは、それを思いとどまらせようとします。すると主イエスは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うことは、我々にふさわしい」(マタイ3章15節)と言われた。
先ほど語句の説明をしたが、悔い改めとは、「方向転換」意味です。心だけとか一部の転換でなく、全体の方向転換である。主イエスは、罪のための方向転換は必要なかったけれども、それまでの私生活に別れを告げ、全面的に方向転換してメシアとして神の国の宣教の働きのために、方向転換の洗礼を受けられたと見ることもできるのではないか(これは個人的な思いつきです)? まさに主イエスの生涯の決定的分岐点が洗礼を受けることでした。
 ではなぜ罪のない主イエスは、洗礼を受けられたのか。主イエスは、罪のないお方であり、自分のために「悔い改めの洗礼」を受ける必要なかった。洗礼を受けたのは、罪人である私たちのために受けられたということです。主イエスは十字架にかかる直前にイザヤ書を引用してご自分が「罪人の一人に数えられる」(ルカ22章37節)と言われた。主イエスは、私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださっただけでなく、私たちのために洗礼を受けてくださった。「受肉」、神が人となられたということは、単に一人の人になられたのではなく、完全にまことの人になられた、ということなのです。だから洗礼を受けることも真の人として当然のこととして受けられたのです。洗礼はそれを如実に表している。
 
2.受洗の結果 使徒言行録10章36~43節 
  ①聖霊の降臨
 聖霊の降臨は、メシアとして任職する「油注ぎ」である(イザヤ61章1節)。これ以前に、主イエスが聖霊を受けておられなかったというのではない。洗礼によってメシアとしての召命がなされた。その意味で聖霊の降臨は、メシアとしての即位式と言うこともできる。
   ②天からの声
 天からの声は、神が主イエスの洗礼を「正しいこと」として承認されたしるしである。この言葉の背景に詩編2編7節の「王」としての任命とイザヤ42章1節以下の「僕」としての両方を見ることができる。
人類の救い主であるメシアの性質が暗示されている。マタイ11章27節。

 結論)
「罪のないイエスがなぜ洗礼を受けられたのか」の理由を三つにまとめることができる。
1.洗礼者ヨハネの務めの承認
2. 罪人である私たちと一つになられた。
3. イエスのメシアとしての召命、即位を意味する。


 荒野の誘惑について
 メシアとしての召命・即位を受洗を通して受けられたイエスは、すぐに宣教を始められなかった。そこに深い理由がある。マタイ4章1節は「イエスは悪魔から誘惑を受けため、霊ら導かれて荒れ野に行かれた」と記されている。荒野に行かれたのは、自分の意志ではなく、聖霊の導きによるとはっきり言われている。ではなぜ聖霊は主イエスを荒野に導かれたのか。それは「悪魔の誘惑を受けるため」と言われている。ではなぜ悪魔の誘惑を受けなければならなかったのか? そこで先ず、誘惑の理由を「第二のアダム」という視点から見ていきたい。

Ⅰ.荒野の誘惑の理由 (マタイ4章1~11節)
 1. 第二のアダムとして(ローマ5章12~21節)
 最初のアダムは、蛇の誘惑を受けてまんまと引っ掛かり、罪を犯してしまった。その結果、罪と死がこの世に入った。そしてそれが全人類に及ぶようになった。もちろんこれはアダムのせいでということではあるが、アダムは私たちの代表であり、私たちもまたそこにいたら同じように罪を犯したということができる。まさにアダムは全人類の代表、型です。
そこで主イエスは、真の人として最初のアダムができなかったこと、悪魔の誘惑に負けてしまったことを克服されたのです。主イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬだけでなく、神が「神のかたち」に造られた本来あるべき人間として、私たちに代わって神に完全に服従された。悪魔でも自分自身でもなく、神を神とされた。ローマ5章18~21節を読む。
 2. いかなるメシアか
  主イエスは、40日40夜、荒野で断食されました。これはモーセのシナイ山で十戒を授かる時に似ています。モーセが40日(申命記9.9)も戻らないので、民はアロンに金の子牛を作らせて罪を犯した。またイスラエルの荒野の40年をも想起することができる。
 「誘惑」の性質についてひと言述べれば、その人が誘惑を受けるとは、それが実行可能なものであるということが前提条件です。実行・実現可能でないものは誘惑の対象ではない。悪魔はここで3つの誘惑を、主イエスにした。その内容をくわしく見ることは今日はできないが、それらは全部、私たちの誘惑と次元が違う。私たちは悪魔から石をパンに変えよ、などという誘惑を受けることはない。そこで主イエスが誘惑を受けた内容から、主イエスがどのようなお方であるか、悪魔が意識しているかが分かるのです。悪魔は主イエスを「神の子」(マタイ4章6節)と認めているのです。そしてその力を発揮せよと迫ってる。
 主イエスの悪魔に対する答えに注目すると、そこにははっきりした特徴がある。それは3回(申命記8章3節、6章16節、6章13節)とも聖書言葉だけで悪魔に立ち向かい、答えていることです。
 それと比べるとエバは、蛇に対して神が言われた言葉に(創世記2章17節)余分な言葉を(創世記3章3節)「触れてもいけない」付け加えたり、少し緩和している―「死んではいけないから」と。神は「必ず死んでしまう」と言われたのです。悪魔は、私たちが神の言葉にしっかりと厳密にとどまらない時、そのすきを突いてくる。この誘惑においても、主イエスは、まことの人間として、悪魔に立ち向かっておられる。悪魔に対抗し、打ち勝つには、神の言葉以外にはないのです。主イエスは、天使の助けや神の子としての力を用いないで、私たちと、またアダムと全く同じ人間として、悪魔の誘惑を退けられたのである。「イエス・キリストの地上の生の継続のために神的属性や諸力が使われなかったことである。」(ボンヘッファー)ということができる。もし神としての力を用いたら、第二アダムとは言えなくなる。
  主イエスは、アダムや私たちに代わって、人間として神の御心に適う歩みを成し遂げてくださったのである。十字架による罪の贖いだけでなく、神の創造の目的にふさわしい神のかたちに造られた人間としてのあるべき姿を示された。ジョン・ミルトンはアダムとエバの堕罪をテーマにして「楽園喪失」を書きましたが、この主イエスの荒野の誘惑を題材にして「楽園回復」を書きました。まさに第二のアダムとして。
 これによって、主イエスは、自分がどのようなメシアであるかをはっきり自覚された。それは神的力で人々を驚嘆させ、王のように君臨するメシアではないことを。むしろ十字架の死に至るまで従順に神に従う僕としてメシアであると。神は主イエスを通して私たちに愛を示された。力づくで、ご自分に従わせるのではなく、愛から喜んで神を神として崇め、ほめたたえる者と私たちがなることを望まれた。愛は自由の応答を求める。神は相なる神であるゆえに、その愛のゆえに、ご自分を限定しむなしくなられた。
フィリピ2章6~11節は、そのことを最もよく物語っている。

 結論)
 荒野の誘惑を通して、主イエスは、第二のアダム、人間の代表として、神への従順を示され、悪魔の誘惑を退けられた。そして受肉の目的である、人間の命を贖うのは人間の命でなければならないゆえに、十字架の死に至る僕としてのメシアとしてこれから活動することを確認されたのである。
  




 主イエス・キリストの受肉・洗礼・荒野の誘惑  レジュメ 
 受肉について
緒)  受肉」という言葉は、神学用語であるが、この言葉は、ヨハネ福音書1章14節の「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」の御言葉に由来する。
Ⅰ.受肉の前提 
 1.創造――人間の創造
受肉の前提として、私たちは「人間の創造」に注目しなければならない。
創世記1章26-27節と2章1-3節を参照。
そこに人間を「神のかたち」に、すなわち「神に似せて」「神にかたどって」造られたと言われている。創造の完成日として第七日が記されているがそこに人間創造の秘義がある。
2.ノアの契約(創世記9章1-17節)
ノアの契約の中で言われていることに注目しなければならない。そこで人間の命は代替の不可能であり、人の命は人の命によってでなければ賠償できないと明記されている。
そこに「神が人となられた」理由の一端がある。
Ⅱ.受肉の目的 
 1.救済の観点から
ノアの契約によって明らかなように、神は人の命を贖うために、人となられたのである。
2.創造の観点から
それは人間の創造の時に、人間を「神にかたち」に創造された目的を成就し完成するためである。主イエス・キリストこそ、神のかたちの造られた人間そのもの、その真の姿である。主イエス・キリストの内に、まことの神とまことの人間が一つとなっている。
創造の観点から、たとえ人が罪を犯さなかったとしても、神は人となられた。それは創造の御業の完成だからである。
 結) 主イエスの誕生こそ、歴史の最大の出来事であり、歴史の中心である。私たちは主イエス・キリストを通してのみ、神がどのようなお方であるかを知る。神は人間を限りなく愛し、人間になるほどに自分を与えられる。主イエスは受肉以来、永遠に「まことの神であり、まことの人」であり給う。人間の名誉はここにある。キリストがこのようなお方であるゆえに、人間は天使に優る存在なのである(ヘブライ1章14節)。

洗礼について
Ⅰ.洗礼者ヨハネについて
四つの福音書は、イザヤ40章3節以下を引用して、洗礼者ヨハネが旧約の預言の成就であることを示す。それはメシアの登場のために道備えをすることである。
ヨハネは「悔い改めの洗礼」を授けた。洗礼を受ける者が、自分は罪を赦されなければならない罪人であることを認めることによって、メシアによる救いに与る備えがなされる。
Ⅱ.主イエスの受洗
1受洗の理由・意味
①ヨハネの働きの承認
②「正しいことをすべて行うことは、我々にふさわしい」(マタイ3章15節)の意味
 主イエスは、洗礼者ヨハネの「悔い改めの洗礼」を全面的に認められた。
  2.受洗の結果 使徒言行録10章36~43節 
  ①聖霊の降臨
 聖霊の降臨は、メシアとして任職する「油注ぎ」である。これ以前に、主イエスが聖霊を受けておられなかったというのではない。洗礼によってメシアとしての召命がなされた。
   ②天からの声
 天からの声は、神によるメシアとしての即位式である。この言葉の背景に詩編2編7節の「王」としての任命とイザヤ42章1節以下の「僕」としての両方を見ることができる。
人類の救い主であるメシアの性質が暗示されている。マタイ11章27節。
結) 「罪のないイエスがなぜ洗礼を受けられたのか」の理由を三つにまとめることができる。
1.洗礼者ヨハネの務めの承認
2. 罪人である私たちと一つになられた。
3. イエスのメシアとしての召命、即位を意味する。

荒野の誘惑について
Ⅰ荒野の.誘惑の理由
 1. 第二のアダムとして(ローマ5章12~21節)
最初のアダムは、サタンの誘惑に負けて、神の御言葉に逆らい、この世に罪と死が入った。
しかし主イエスは、第二のアダムとして、死に至るまで神に従順なお方として全人類の代わりに打ち勝たれた。
2.いかなるメシアか(フィリピ2章6~11節)
力をもって神の国を打ち立てる政治的なメシアではなく、人類の罪を担う僕としてのメシアであることを確認される。
結) 洗礼は、主イエスがメシアとしての公生涯を歩むための召命・即位式であった。
荒野の誘惑は、どのようなメシアとして活動するのかの確認であった。
洗礼と荒野の誘惑を通って、イエスはメシアとしての活動の準備は整ったのである。
パウロがフィリピ2章6~11節で見事に言い表しているように「受肉」と「洗礼」と「荒野の誘惑」は、イエスが、「まことの神でありまことの人」であることを如実に物語る。
この後いよいよ主イエスの公生涯が始まる。それは十字架の死に至るまで続く。
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