稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2023年09月24日 | 週報
二〇二三年九月二四日  NO・五十―二六       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)エゼキエル  二章(月)哀 歌   三章
          司会 松 田兄(火)  〃    四章(水)  〃   五章
           奏楽 内 間姉(木)  〃    六章(金)  〃   七章
招詞祈祷  イザヤ一章十八節      (土)  〃    八章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六二番        ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は午後一時より教義学要綱24の学びです。
交 読 文  詩 編百十九編ワウ       ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌三三三番         
献  金  感謝の祈り      豊口姉
讃  美  聖 歌四六一番      
説  教   ローマ七章七~十三節       罪が戒めによって機会を捉え、私を欺き、
讃  美  聖 歌四五三番         その戒めによって私を殺したのです。
祈  祷             志村姉  罪は戒めによってますます罪深いものとなりました。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              ローマ七章十一・十三節後半

   律法と罪の関係  
 7章以前にも、パウロは度々律法について否定的に語って来た(3章20節、4章14~15節、5章13・20節、6章14節など)。しかし7章全部を用いて、パウロはさらに「律法」を取り上げる。なぜこれほどまでに、パウロは律法に固執するのだろうか? 

 1~6節においても、「律法からの解放」「律法に対して死んだ」と語って来たので、読者が律法を悪いものと誤解するのを恐れて、律法は決して罪ではなく(7節)、「律法そのものは聖なるものであり、正しいもの」であることを確認する。それにもかかわらず、パウロは、律法からの解放を強調する!

 7~13節でパウロが取り上げるのは、「罪と律法の関係」である。そしてパウロは罪を擬人化して用い、人間を支配する、人間を超えた力として示す。ここで「むさぼり」という戒めが出て来るが、これは戒めの一つとして用いられているのではなく、律法全体の総括、代表するものとして用いられている。「むさぼり」という語は、単に「欲(望)」を表す語であり、悪い意味だけでなく「生気・気力」の意味を表す。そして幾人もの学者が、ここでパウロは「むさぼり」を十戒の10番目の他人ものを欲しがる罪の意味で用いているのではなく、「神と隣人に対する自己主張の欲である。」(ケーゼマン)と理解する。

 むさぼりという欲は、人のものを強奪する悪い意味で作用するだけでなく、一見高尚で立派な「律法の行いによって自分を義とする」欲として現れる。最初の人アダムとエバに臨んだのは「神のようになる」という欲である。それは宗教的人間、自らの力で敬虔な者となること欲する「欲望」である。

 なぜ律法から解放されなければならないのか。それは「罪は戒めによって機会を捉え、私の内にあらゆる貪りを起こし」(8節)、「私を欺き、殺す」(11節)のであり、「罪は戒めによってますます罪深いものとなる」(13節) からである。これが私たちを支配する罪と律法の関係である。

 律法そのものは聖であり正しいが、私たちが・罪が、それによって「むさぼり」すなわち自律と自己義認へと追いやり、最もひどい神への反逆を生むのである。それはキリストの犠牲の愛を否定する。罪に支配されている私たちは、律法からの解放なしに、キリストの恵みに与り至ることはできないのである。
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週報

2023年09月17日 | 週報
 二〇二三年九月十七日  NO・五十―二五       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第         (日)エレミヤ  五二章(月)哀 歌   一章
         司会 高 澤兄(火)  〃    二章(水)  〃   三章
           奏楽 内 間姉(木)  〃    四章(金)  〃   五章
招詞祈祷  イザヤ五四章五~八節    (土)エゼキエル  一章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五八番        ◎二一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎十八日(月・祝)は午前十時より半日修養会です。
交 読 文  詩 編百十九編ヘー      ◎本日は午後一時より責任役員会。
讃  美  讃美歌三三二番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌四六一番         私たちは、自分を縛っていた律法に対して
説  教   ローマ七章一~六節       死んだ者となり、律法から解放されました。
讃  美  聖 歌二四八番        その結果、古い文字によってではなく、
祈  祷             松田兄 新しい霊によって仕えるようになったのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ七章六節

   律法からの解放  
 パウロは、キリストの福音を「不敬虔な者を義とする」(4章5節)ものとして語り、罪人が無条件で恵みによって救われることを告げた。しかしそれは「罪にとどまり」「罪を犯す」(6章1・15節)ことを容認することではない。そこで6章で罪からの自由・解放を語った。

 次にパウロが7章で取り上げるのは「律法からの解放」である。律法からの解放とはどういうことなのか? なぜ律法から解放されなければならないのか? これを正しく理解することは容易ではない。すでに6章14節で「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」と言われている。
 1節でパウロは、律法の限界について明示する。「律法とは、人が生きている間だけ支配するものである」と。つまり死んだ人には効力を発揮しないし、死んだ人はもはや律法から解放され自由である。

 2~3節は「結婚」の比喩を用いているが、4節で説明しているのと完全には合致しない。以前は「夫」を律法を指すと見ていたが、パウロは決して「律法が死ぬ」とは言わず、「私たちが律法に対して死ぬ」(5節)と言う。さらに「夫」を「古い自分」と見る見方もある。「女」はキリスト者である。

 4節の「わが兄弟たちよ、キリストの体によってあなた方も律法に対して殺されたのです」(前田訳)は重要である。「キリストの体」と「殺された」という言葉から、キリストの十字架の死の事実が言い表わされている。キリストは、律法の定めに従い、私たちの罪のために死なれた。イエス・キリストに起こった事は、私たちのためというだけでなく、私たちにも文字通り起こった事なのである。だから「しかし今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり。律法から解放された」(6節)と言われる。さらにそれは結婚の比喩の意味で「死者の中から復活させられた方のものとなる」(4節)のである。

 「その結果我々は霊の新しさにおいて仕えることになったので、もはや文字の古さにおいて仕えているわけではない」(田川訳)。この言葉を、キリスト者は、聖霊の力によって律法を行うことができるようになると取ってはならない。律法の行いからは、自分を誇ること、人を裁くことしか出てこない。キリスト者の行動は、恵みの下に生かされている喜びからなされる。同じく見える行為でもそこに雲泥の差がある。
 
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2023年09月10日 | 週報
 二〇二三年九月十日   NO・五十―二四       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第         (日)エレミヤ  四五章(月)  〃  四六章
         司会 坂 本兄(火)  〃   四七章(水)  〃  四八章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   四九章(金)  〃  五十章
招詞祈祷  イザヤ五七章十八~十九節  (土)  〃   五一章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五六番        ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎十一日(月)牧師夫妻は、筑波福音同志会へ。
交 読 文  詩 編百十九編ダレト      ◎十八日(月・祝)は午前十時より半日修養会です。  
讃  美  讃美歌三三一番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      新栄兄
讃  美  聖 歌四六一番         だが今やあなた方は罪から自由にされて
説  教   ローマ六章十五~二三節     神の奴隷となり、聖化へといたるあなた方の実を、
讃  美  聖 歌五五三番        すなわち究極的には永遠の生命へといたる実を         
祈  祷             高澤兄 持っている。(田川訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ六章二二節

   聖化について  
 パウロが宣べ伝えた福音は、主イエス・キリストの真実、すなわちその死と復活によって、「不敬虔な者を義とされる」(4章5節)神の恵みである。この恵みを誤って受け取って「罪にとどまる」(1節)、「罪を犯そう」(15節)という者がいた。しかしパウロは、罪を犯すことを正当化することを決して容認しない。

 16節からパウロは奴隷の比喩を用いて、そのことを証明する。パウロは、現代人のように人間を自主独立の存在と見ないで、人間は「罪の奴隷」(17節)か「義の奴隷」(18節)のどちらかであり、この二者択一しかない存在と言う。そしてキリスト者は、「キリストにあって」罪と死の支配から解放された(7節)者であり、「罪と死の世界」から「義と命の世界」に移された存在である。

 以上を踏まえて、19節以下で「聖化・聖潔」について言及される。パウロは、3章21節以来、キリストによって、不敬虔な者を義とされる(義認)ことを語って来た。では私たちは「義認と聖化」の関係をどう捉えたらよいか? よく言われるのは、義認はキリストの救いによる一回限りの出来事であり、聖化は生涯にわたって継続される、と。そしてキリスト者はすでに義とされているのだから、罪を犯さない清い生活を送るように召されている、と。しかしここで義認と聖化を分離して、義認は神の一方的恵みによって私たちに与えられたが、聖化の歩みは、私たちの(信仰の)努力で成し遂げられなければならない、と理解するなら、それは大きな間違いである。それは律法の行いによる義の追求と変わらなくなる。そうなれば、それは律法による義よりもさらに高尚な「山上の説教」を自力で実行するという到底不可能な事への過酷な戒めとなる。そこには神との平和も神の愛の満たしもないのであり、もはや救いではない。

 聖化は、義認と切り離すことはできず、その延長線上にある。義とされたキリスト者は、以前の罪の奴隷の生活が「恥と死」(21節)であることを知っている。そして今や義の奴隷とされて、罪に仕えない生活へと召され入れられている。それは神との平和、神の愛の注ぎの中を歩む生活である。そして聖化の歩みは、「永遠の命」に至るまでの道程である。永遠の命は確実に備えられており、そこに至るまで、キリスト者は恥ずべき実ではなく、義の美しい実を結ぶ歩みが許され備えられている。そこを歩め、と。
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週報

2023年09月03日 | 週報
二〇二三年九月三日   NO・五十―二三       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)エレミヤ  三八章(月)  〃  三九章
           司会 高 澤兄(火)  〃   四十章(水)  〃  四一章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   四四章(金)  〃  四三章
招詞祈祷  イザヤ四十章二八~三一節  (土)  〃   四四章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五五番        ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より、責任役員会。
交 読 文  詩 編百十九編ギメル      ◎本日は聖餐の恵みに与りました   
讃  美  讃美歌三二六番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌四六一番      
説  教   ローマ六章十二~十四節     罪があなたがたを支配することはありません。
聖 餐 式                  あなたがたは律法の下ではなく、
讃美祈祷  聖 歌五九三番    高澤姉  恵みの下にいるからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ六章十四節

   勧めの根拠にあるもの  
 11節までを踏まえて、12節以下で具体的な勧めがなされる——「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」(12節)、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません」(13節)——。

 ここでまず確認したいのは、両節に出てくる「罪」についての理解である。ここで言う罪は、私たちが犯す個々の罪ではない。5章12節以下で取り上げられた「罪と死の支配」という意味での、人間を支配する「力」である。私たちはアダム以来、罪と死の支配に屈していた。しかし今ではキリストにより、また恵みによって、私たちは「罪と死の支配」から「義と命の支配」に移されたのである。さらに6章1節以下では、そのような罪の支配の領域から、キリストの死に合わせられることによって救出されたことを「罪に対して死んだ私たち」(2節)と言い表している。これこそ主イエスが私たちのために成し遂げて下さった救いである。それが「義とされる」ということである。

 12節の「死ぬべき体」と言うのは、13節では「五体」と言い替えられているが、今この地上に存在している私たちそのものを指している。それは肉体だけでなく霊魂も含む全体である。キリストは復活して神の御許におられるが、私たちの復活は、キリストの再臨を待たねばならない。それだから、キリスト者の生は、すでに救われ義とされている、と同時に、いまだ、復活した朽ちない体に達していないという中で生きる生である。それゆえ必然的にこのような勧めがなされるのである。

 この勧めは、一所懸命努力して、個々の罪を犯さないようにしなさいと、いう勧めではない。「罪の力(支配)」は私たちの頑張りや精進で勝てる相手ではない。これまで語られたように、キリストは私たちのために「罪と死の支配」に打ち勝ち、私たちをその支配から「義と命の支配」に入れて下さった、また神は恵みの賜物を与えてくださっている、だからそのことに心に留めるようにという勧めである。それが14節に「罪があなたがたを支配することはありません」で言い表されている。命令法(勧め)はどこまでも直説法(義と命に与っている)から出てくる。それゆえ「あなたがたは恵みの下にいるから」と言われる。
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