二〇二二年五月二九日 NO・四九―九 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)列王記下 九章(月) 〃 十章
司会 みつ子師(火) 〃 十一章(水) 〃 十二章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十三章(金) 〃 十四章
招詞祈祷 レビ十七章十一節 (土) 〃 十五章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五四番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より大掃除をします。
交 読 文 詩 編 六八編 ◎本日はアジア祈禱日です。
讃 美 讃美歌四二〇番 ◎次週は、ペンテコステ礼拝です。
献 金 感謝の祈り 志村姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌四〇一番
説 教 ヘブライ九章一~十節 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、
讃 美 讃美歌一七一番 供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の
祈 祷 坂本兄 良心を完全にすることができないのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ九章九節
今なお戦いの中で
1~5節は、神がモーセを通して与えられた幕屋の聖所について記されている。聖所と至聖所に何が置かれているか、具体的名称を挙げている。詳しくは出エジプト25~26章参照。1節で「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました」言われているが、「聖所」は神の臨在される場所であり、その神の前に出て、様々な儀式を行うことが「礼拝の規定」と言われている。幕屋の聖所は二つ(聖所と至聖所)に分かれていた。祭司が聖所に入り、毎日規定に従って犠牲を捧げた。しかし至聖所には大祭司が年に一度入り、香をたき、自分とすべての民のための犠牲の血を、契約の箱の「贖いの座」に振りかけた。
7節に「過失のために献げる血」とあるが、この「過失」とは、本来「無知である、故意でない」意味であるが、カルヴァンは、「人間はたとえ、知りつつ、わざと罪を犯しても、自分の欲望のために盲目になっていて、正しく判断することができない」と言い、それゆえ「この語は、無知を意味しているだけでなく、故意の罪をも意味している」と注解する。罪のために献げる血を「必ず携えていきます」とあるように、神の御前に出るためには、罪が取り除かれなければならなかった。そのためには、人に代わって動物の「血(命)」が捧げられる必要があった。このような命の代償なしに、罪は取り除けないという事実は、私たちに罪の恐ろしさを認識させる。罪があるままで、聖なる神との交わり(礼拝)はできないのである。
9節に「この幕屋とは、今という時の比喩です」と言われている。これはこの地上にあっては、現在でもなお、完全な安息に到達していない(4章9~11節)、と言うのである。2章8節参照。さらに「供え物といけにえが献げられても良心を完全にすることができない」と言われている。私たちは、「良心」を良いものだと考えていないだろうか。ボンヘッファーが指摘しているように、良心は、おのれを善悪の審判者として、神から逃亡し、神なしにすまそうとする点で、罪の結果、人の内に生じたものである。それゆえ、それは「清められ」(14節)なければならないのである。
大祭司イエスの贖いの犠牲によって、神との完全な和解はなされているが、今なお私たちは地上にあって、罪との戦いと様々な限界の中にある。それゆえ私たちは、主イエスの完全な救いの希望に支えられて、信仰の歩みに邁進すべきである。
礼 拝 次 第 (日)列王記下 九章(月) 〃 十章
司会 みつ子師(火) 〃 十一章(水) 〃 十二章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十三章(金) 〃 十四章
招詞祈祷 レビ十七章十一節 (土) 〃 十五章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五四番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より大掃除をします。
交 読 文 詩 編 六八編 ◎本日はアジア祈禱日です。
讃 美 讃美歌四二〇番 ◎次週は、ペンテコステ礼拝です。
献 金 感謝の祈り 志村姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌四〇一番
説 教 ヘブライ九章一~十節 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、
讃 美 讃美歌一七一番 供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の
祈 祷 坂本兄 良心を完全にすることができないのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ九章九節
今なお戦いの中で
1~5節は、神がモーセを通して与えられた幕屋の聖所について記されている。聖所と至聖所に何が置かれているか、具体的名称を挙げている。詳しくは出エジプト25~26章参照。1節で「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました」言われているが、「聖所」は神の臨在される場所であり、その神の前に出て、様々な儀式を行うことが「礼拝の規定」と言われている。幕屋の聖所は二つ(聖所と至聖所)に分かれていた。祭司が聖所に入り、毎日規定に従って犠牲を捧げた。しかし至聖所には大祭司が年に一度入り、香をたき、自分とすべての民のための犠牲の血を、契約の箱の「贖いの座」に振りかけた。
7節に「過失のために献げる血」とあるが、この「過失」とは、本来「無知である、故意でない」意味であるが、カルヴァンは、「人間はたとえ、知りつつ、わざと罪を犯しても、自分の欲望のために盲目になっていて、正しく判断することができない」と言い、それゆえ「この語は、無知を意味しているだけでなく、故意の罪をも意味している」と注解する。罪のために献げる血を「必ず携えていきます」とあるように、神の御前に出るためには、罪が取り除かれなければならなかった。そのためには、人に代わって動物の「血(命)」が捧げられる必要があった。このような命の代償なしに、罪は取り除けないという事実は、私たちに罪の恐ろしさを認識させる。罪があるままで、聖なる神との交わり(礼拝)はできないのである。
9節に「この幕屋とは、今という時の比喩です」と言われている。これはこの地上にあっては、現在でもなお、完全な安息に到達していない(4章9~11節)、と言うのである。2章8節参照。さらに「供え物といけにえが献げられても良心を完全にすることができない」と言われている。私たちは、「良心」を良いものだと考えていないだろうか。ボンヘッファーが指摘しているように、良心は、おのれを善悪の審判者として、神から逃亡し、神なしにすまそうとする点で、罪の結果、人の内に生じたものである。それゆえ、それは「清められ」(14節)なければならないのである。
大祭司イエスの贖いの犠牲によって、神との完全な和解はなされているが、今なお私たちは地上にあって、罪との戦いと様々な限界の中にある。それゆえ私たちは、主イエスの完全な救いの希望に支えられて、信仰の歩みに邁進すべきである。