二〇一九年六月三十日 NO・四六ー十三 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十一章(月) 〃 十二章
司会 みつ子師(火) 〃 十三章(水) 〃 十四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十五章(金) 〃 十六章
招詞祈祷 詩編百十八編二二~二五節 (土) 〃 十七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六二番 ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り
交 読 文 詩 編 九七編
讃 美 讃美歌四五三番
献 金 感謝の祈り 志村姉 彼らではなく、わたしたちこそ
讃 美 聖 歌五二〇番 真の割礼を受けた者です。
説 教 フィリピ三章一~六節 わたしたちは神の霊によって礼拝し、
讃 美 讃美歌四五八番 キリスト・イエスを誇りとし、
祈 祷 高澤兄 肉に頼らないからです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 フィリピ三章三節
肉に頼るな
1節、パウロは改めて「主にあって喜びなさい」と言う。これは自然感情から起こる喜びではもちろんない。一般的に喜べない状況にあっても損なわれず、持ち続けられる喜びである。その鍵は、ここでも「主にあって」である。主イエスがどんな中にも共にいてくださる所から生まれる喜びである。
2節で突然厳しい警告が発せられる。立て続けに三つの呼び名ーー犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者ーーをあげているが、その言い方からパウロがいかに彼らを危険視していたかが分かる。三つの呼び名であるが、同じ人々である。最後の呼び名から分かるように、彼らは割礼を重んじるユダヤ教的キリスト者であり、異邦人キリスト者に割礼を強いた。
初代教会は、ユダヤ教の経典である旧約を聖書として継承した。そこで旧約の様々な規定が魅力的に映った。その中で特に「割礼」は、アブラハム以来、神による選びのしるしであったので、異邦人キリスト者も受けるように強要する人々がいたのである。パウロは決して割礼そのものを軽視していない。その証拠に3節で「わたしたちこそ真に割礼を受けた者です。」とさえ言う。しかしここでパウロが割礼を強要する人々を厳しく否定するのは、それがキリストの福音が立つか倒れるかの問題、キリストの救いを台無しにする事柄だったからである。
それは「肉を頼りとするか、しないか」と言うことである。「肉」とは、人間の努力、業、功績を意味する。私たちが救われるためには、キリストの御業だけでなく、人間の業の協力が必要であるとするなら、主イエスの十字架の死は無駄になる。パウロは私たち人間が生まれながらに「肉に頼る」存在であること知り、それこそが罪の根であることを知るゆえに、きっぱりとそれを否定するのである。
5~6節でパウロは「肉の頼り」と言う観点から、自分を見せている。まさに彼はユダヤ教的観点から見て最高のエリートだった。あえて自分を語ったのは、人もうらやむ肉の誇りを持つ彼が、肉に頼らないことを際立たせるためである。キリスト者は、宗教的人間、道徳的人間ではない。自分の正しさ、行いに頼り、誇るのではなく、キリストを誇る。そこから「主にある喜び」が溢れてくる。
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 十一章(月) 〃 十二章
司会 みつ子師(火) 〃 十三章(水) 〃 十四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十五章(金) 〃 十六章
招詞祈祷 詩編百十八編二二~二五節 (土) 〃 十七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六二番 ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り
交 読 文 詩 編 九七編
讃 美 讃美歌四五三番
献 金 感謝の祈り 志村姉 彼らではなく、わたしたちこそ
讃 美 聖 歌五二〇番 真の割礼を受けた者です。
説 教 フィリピ三章一~六節 わたしたちは神の霊によって礼拝し、
讃 美 讃美歌四五八番 キリスト・イエスを誇りとし、
祈 祷 高澤兄 肉に頼らないからです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 フィリピ三章三節
肉に頼るな
1節、パウロは改めて「主にあって喜びなさい」と言う。これは自然感情から起こる喜びではもちろんない。一般的に喜べない状況にあっても損なわれず、持ち続けられる喜びである。その鍵は、ここでも「主にあって」である。主イエスがどんな中にも共にいてくださる所から生まれる喜びである。
2節で突然厳しい警告が発せられる。立て続けに三つの呼び名ーー犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者ーーをあげているが、その言い方からパウロがいかに彼らを危険視していたかが分かる。三つの呼び名であるが、同じ人々である。最後の呼び名から分かるように、彼らは割礼を重んじるユダヤ教的キリスト者であり、異邦人キリスト者に割礼を強いた。
初代教会は、ユダヤ教の経典である旧約を聖書として継承した。そこで旧約の様々な規定が魅力的に映った。その中で特に「割礼」は、アブラハム以来、神による選びのしるしであったので、異邦人キリスト者も受けるように強要する人々がいたのである。パウロは決して割礼そのものを軽視していない。その証拠に3節で「わたしたちこそ真に割礼を受けた者です。」とさえ言う。しかしここでパウロが割礼を強要する人々を厳しく否定するのは、それがキリストの福音が立つか倒れるかの問題、キリストの救いを台無しにする事柄だったからである。
それは「肉を頼りとするか、しないか」と言うことである。「肉」とは、人間の努力、業、功績を意味する。私たちが救われるためには、キリストの御業だけでなく、人間の業の協力が必要であるとするなら、主イエスの十字架の死は無駄になる。パウロは私たち人間が生まれながらに「肉に頼る」存在であること知り、それこそが罪の根であることを知るゆえに、きっぱりとそれを否定するのである。
5~6節でパウロは「肉の頼り」と言う観点から、自分を見せている。まさに彼はユダヤ教的観点から見て最高のエリートだった。あえて自分を語ったのは、人もうらやむ肉の誇りを持つ彼が、肉に頼らないことを際立たせるためである。キリスト者は、宗教的人間、道徳的人間ではない。自分の正しさ、行いに頼り、誇るのではなく、キリストを誇る。そこから「主にある喜び」が溢れてくる。