二〇一九年四月二八日 NO・四六ー四 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)Ⅱ歴代誌 十七章(月) 〃 十八章
司会 坂 本兄(火) 〃 十九章(水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章(金) 〃 二二章
招詞祈祷 ホセア六章一~三節 (土) 〃 二三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二一番 ◎二日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り
交 読 文 詩 編 八九編二十~五三節
讃 美 讃美歌一四八番
献 金 感謝の祈り 高澤姉
讃 美 聖 歌一六八番
説 教 フィリピ一章十九~二一節 わたしにとって、
讃 美 聖 歌五二一番 生きることはキリストであり、
祈 祷 志村姉 死ぬことは利益なのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 フィリピ一章二一節
福音の実態ーー生きることはキリスト、死ぬことも益
12節でパウロは、自分の捕縛が「福音の前進に役立った」と述べ、さらにそれが他の人々による福音宣教を活発に促したことを「喜ぶ」(16~18節)と言った。そして「これからも喜ぶ」理由を19節に記す。それは「このことがわたしの救いになる」からである、と。そしてパウロは「わたしの救いとなる」を修飾する「あなたがたの祈りとイエス・キリストの霊の助けとによって」を追記している。この二つが並置されていることから、パウロがどんなにとりなしの祈りに重きを置いていたかを知ることができる。パウロは、教会史上もっとも傑出した人物ということができるが、だからといって、とりなしの祈りを必要としないのではない。事実、他の手紙でも「わたしのために祈ってほしい」と依頼している。ここから、どんな人でもとりなしの祈りを必要としているし、それがその人を支えることを、私たちは深く心にとめて、兄弟姉妹のために祈り続けようではないか。そしてもちろん聖霊の助けなしに私たちの信仰生涯は全うされない。パウロはどんな境遇にあろうとも、兄弟姉妹のとりなしの祈りと聖霊の助けがあることを「知る」ゆえに、喜ぶことができ、救いに到達することを確信している。
20節は、「切なる思いと希望」が冒頭にある。パウロの切なる思いと希望は、自分の身を通してキリストがあがめられることであった。つまり「これまでのように今も」また「生きるにも死ぬにも」自分の身を通してキリストがあがめられることであった。パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(Ⅰコリント9章23節)と述べている。パウロは一人でも多くの人がキリストの福音に与ることを切望している。パウロにとって、救いは単に自分一人の個人的な事柄ではない。それは「このことがわたしの救いとなる」からも分かる。
21節の「わたしにとって、生きることはキリスト、死ぬことは利益なのです」は、パウロ自身の実感を最もよく表しているだけでなく、キリストの福音がもたらす救いの実態を示している。キリストの復活により死は廃止されたので、もはや生と死の区別は、キリストにあってはない。キリストにあって、どんなものも私たちに注がれた神の愛から離すことはできない。これがキリストの福音・救いである。
礼 拝 次 第 (日)Ⅱ歴代誌 十七章(月) 〃 十八章
司会 坂 本兄(火) 〃 十九章(水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章(金) 〃 二二章
招詞祈祷 ホセア六章一~三節 (土) 〃 二三章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二一番 ◎二日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り
交 読 文 詩 編 八九編二十~五三節
讃 美 讃美歌一四八番
献 金 感謝の祈り 高澤姉
讃 美 聖 歌一六八番
説 教 フィリピ一章十九~二一節 わたしにとって、
讃 美 聖 歌五二一番 生きることはキリストであり、
祈 祷 志村姉 死ぬことは利益なのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 フィリピ一章二一節
福音の実態ーー生きることはキリスト、死ぬことも益
12節でパウロは、自分の捕縛が「福音の前進に役立った」と述べ、さらにそれが他の人々による福音宣教を活発に促したことを「喜ぶ」(16~18節)と言った。そして「これからも喜ぶ」理由を19節に記す。それは「このことがわたしの救いになる」からである、と。そしてパウロは「わたしの救いとなる」を修飾する「あなたがたの祈りとイエス・キリストの霊の助けとによって」を追記している。この二つが並置されていることから、パウロがどんなにとりなしの祈りに重きを置いていたかを知ることができる。パウロは、教会史上もっとも傑出した人物ということができるが、だからといって、とりなしの祈りを必要としないのではない。事実、他の手紙でも「わたしのために祈ってほしい」と依頼している。ここから、どんな人でもとりなしの祈りを必要としているし、それがその人を支えることを、私たちは深く心にとめて、兄弟姉妹のために祈り続けようではないか。そしてもちろん聖霊の助けなしに私たちの信仰生涯は全うされない。パウロはどんな境遇にあろうとも、兄弟姉妹のとりなしの祈りと聖霊の助けがあることを「知る」ゆえに、喜ぶことができ、救いに到達することを確信している。
20節は、「切なる思いと希望」が冒頭にある。パウロの切なる思いと希望は、自分の身を通してキリストがあがめられることであった。つまり「これまでのように今も」また「生きるにも死ぬにも」自分の身を通してキリストがあがめられることであった。パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(Ⅰコリント9章23節)と述べている。パウロは一人でも多くの人がキリストの福音に与ることを切望している。パウロにとって、救いは単に自分一人の個人的な事柄ではない。それは「このことがわたしの救いとなる」からも分かる。
21節の「わたしにとって、生きることはキリスト、死ぬことは利益なのです」は、パウロ自身の実感を最もよく表しているだけでなく、キリストの福音がもたらす救いの実態を示している。キリストの復活により死は廃止されたので、もはや生と死の区別は、キリストにあってはない。キリストにあって、どんなものも私たちに注がれた神の愛から離すことはできない。これがキリストの福音・救いである。