稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2022年10月30日 | 週報
 二〇二二年十月三十日  NO・四九―三一       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第   宗教改革記念主日 (日)ヨブ    四十章(月)  〃    三四章
             司会 小村 師(火)  〃   四二章(水)詩編     一編
               奏楽 内 間姉(木)  〃    二編(金)  〃    三編
招詞祈祷  マルコ十二章十六~十七節  (土)  〃    四編
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番         ◎三日(木)祈祷会はお休みです。
主の祈り                 ◎本日、粂川信夫師をお迎えしての特別集会です。
交 読 文  詩 編 八四編        ◎次週は、召天者記念礼拝です。
讃  美  讃美歌二六二番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      志村姉   人よ、何が善であり    
讃  美  聖 歌四一三番          主が何をお前に求めておられるかは
説  教 ミカ六章六~八節 粂川信夫師   お前に告げられている。
讃  美  聖 歌五一一番         正義を行い、慈しみを愛し
祈  禱             高澤兄  へりくだって神と共に歩むこと、これである。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ミカ六章八節 

   教会と国家                         粂川信夫
 今年の一番の驚きは、ロシアによるウクライナ侵攻であろう。ウクライナは、四千万人を超える国である。面積は日本の1.6倍、耕地面積はフランスの1.8倍の農業国である。ウクライナはロシアと同じスラブ民族で「兄弟国」なのだ。1922年にソ連が出来ると、ソ連を構成する共和国の一つとなった。ところが国内では親ロシア派2割と親欧米派8割が対立を続けてきた。ここが悲劇の源である。そのソ連が約70年後に崩壊した(1990年頃)。1991年にウクライナは独立を宣言。しかし、プーチン氏はあきらめなかった。

 彼の本当の目論見はどこにあるのか。2つある。
① 大国ロシアをもう一度復活させたいという野望。侵攻のチャンスは2021年のバイデン政権の誕生である。バイデンはNATOを重視した。ウクライナにもNATO加盟を願うゼレンスキー政権が2019年5月に誕生。「これは危ない、しかし、東部地域は18年近く、内部対立が続いている。この機会に、親ロシア派の多い地域だけでも、ロシア領に併合してしまおう。」という野望である。
② ウクライナをNATOに加盟させず、ロシアの傀儡政権にしてしまいたいという野望。
彼は以前からウクライナ征服の願望があり、その機会を虎視眈々と狙っていた。

 さて聖書は、教会と国家について、どう言っているのであろう。
1. 教会とクリスチャンは国家(上に立つ権威)に従うべきである(ローマ13章1節)。独裁者の権力が悪魔化した時、どうすべきかはほとんど説かれていない。唯一、ペテロが使徒5章29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言った。 戦争を止めるのは、政府のリーダーの務めである。

2.政治家が「正義と慈しみとへりくだり」に生きること(ミカ6章8節)。預言者ミカは、他国に対して暴力的な指導者に対して警告を発した。神の求めることは、「ただ正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって、神と共に歩むこと、これである」(ミカ6章8節)と言った。具体的な行動を提案したい。
① 為政者たちが「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって、神と共に歩む」よう祈ること。
② プーチン大統領に要望書を送ること。

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週報

2022年10月23日 | 週報
二〇二二年十月二三日  NO・四九―三十       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)ヨブ    三三章(月)  〃    三四章
          司会 坂 本兄(火)  〃   三五章(水)  〃   三六章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   三七章(金)  〃   三八章
招詞祈祷  詩編百十八章五~九節    (土)  〃   三九章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番        ◎二七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より、教義学要綱15の学びです。
交 読 文  詩 編 八三編         ◎オアシス稲毛No49が出来ました。配布にご協力を。
讃  美  讃美歌二六二番         ◎次週は、粂川信夫師をお迎えしての特別集会です。
献  金  感謝の祈り     みつ子師   ◎礼拝動画 こちら  
讃  美  聖 歌四一二番    
説  教 ヘブライ十三章一~六節    
讃  美  聖 歌五八六番        
祈  禱             松田兄  兄弟愛を続けなさい。(口語訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヘブライ十三章一節 

   兄弟愛の実践
 ここから最後の勧告がなされる。1節を新共同訳は意訳しているが、直訳すれば「兄弟愛を続けなさい」(口語訳)、「兄弟愛が保たれるように」(岩波訳)である。2~3節は、兄弟愛の具体的内容である。

 キリスト者は、お互いを「兄弟姉妹」と呼び合う。それは主イエスが私たちを兄弟と呼び、兄弟とされたからである(2章10・17節)。これによって、特別な意味で兄弟姉妹なのである。そして兄弟愛の基準は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)である。私たちは、キリストが私たちになして下さったことに基づいて、兄弟姉妹に接するのである。ここは、私たちがお互いを兄弟姉妹と呼び合うことが名ばかりになっていないか、再考させる。

 2節は「旅人のもてなし」について言われている。これは兄姉に限定すべきではないが、実際的には、兄姉に対してである。当時の宿屋の劣悪さ(高額・売春)から旅する兄姉を守るためである。当時、キリスト者のもてなしは評判で、キリスト者と偽る人が後を絶たなかったようである。しかし騙されるのを恐れて愛の奉仕が滞ることがないように、それを天使へのもてなしと言う。主イエス御自身も「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」(マタイ25章40節)と言われた。

 3節、牢に囚われている人(兄姉)への献身的な奉仕は、異教徒が目を見張るほどであったことは、彼らの文書でも確認される。苦難であれ病であれ、体を持って生きている者なら、その辛さは分かるはず。

 4節、結婚の純潔は、当時だけでなく、いつの時代においても、教会が保持し続ける尊い使信である。

 5節もまた4節と共に、私たちが注意深く取り組まなければならない事柄である。金銭欲・執着についての勧告は、他でもなされている。Ⅰテモテ6章8~10節、フィリピ4章11~13節。マタイ6章24節で主イエスは、それは信仰の根幹にかかわることと言われる。「すべての貪欲の源は不信である」(カルヴァン)。貪欲には満足も平安もない。だから「神御自身、『わたしは、決してあなたを離れず、決してあなたを置き去りにしない』」との御言葉に信頼して貪欲から解放されるように促している。

 6節(詩編118編6節)は、5節後半の御言葉に対する応答である。この告白から平安と感謝が生まれる。
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2022年10月16日 | 週報
 二〇二二年十月十六日  NO・四九―二九       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)ヨブ    二六章(月)  〃    二七章
          司会 高 澤兄(火)  〃   二八章(水)  〃   二九章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   三十章(金)  〃   三一章
招詞祈祷  ハガイ二章六~九節     (土)  〃   三二章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十 番        ◎二十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より、責任役員会。
交 読 文  詩 編 八二編         ◎オアシス稲毛No49が出来ました。配布にご協力を。
讃  美  讃美歌二六二番         ◎次週は教義学要綱15「苦しみを受け」の学びです。
献  金  感謝の祈り      志村姉   ◎礼拝動画 こちら   
讃  美  聖 歌四一〇番    
説  教 ヘブライ十二章二五~二九節     このように、わたしたちは揺り動かされることのない
讃  美  聖 歌四七八番         御国を受けているのですから、感謝しよう。
祈  禱             坂本兄  ……畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えて
頌栄祝祷  聖 歌三八三番            いこう。    ヘブライ十二章二八節 

   震われぬ国の民
 25~26節は、18~24節で対比された旧約と新約、律法と福音の違いについてさらに語っている。
旧約で告げられた神の御旨は、地上に関することだけであり、また揺り動かされたのも地だけであるが、主イエスによってもたらされた新しい契約、福音は、天から告げられた御旨であり、地だけでなく、天をも揺り動かすほどのものである、と語られる。ここで「拒む」「背を向ける」という否定的表現が使われているのは、読者である私たちを脅かすためではなく、旧約の民に与えられているものと新約のキリスト者に与えられているものの圧倒的な違いを強調するためである。

 26節の引用は、ハガイ書2章6節であるが、ヘブライ人の手紙の著者は、すでに2章10~12節で詩編102編26~28節を引用して、やがて今ある天地は震われて滅びることを語っている。そして黙示録が告げているように、その後で新しい天と地が現れるであろう。しかしここで著者は、天地が震われて滅びるのは、決して震われず永遠に存続するものが明らかになるためである、と27節で語っている。このように、著者は「新しい契約の仲介者イエス(24節)が、私たちにもたらして下さった救いがどれほど大きなものであるかを旧約と対比して浮き彫りにする。

 以上を踏まえて、28節こそ、ここで著者が読者に告げたい中心のメッセージである。「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている」のである。だから私たちはたとえ天地宇宙が震われ滅びても恐れることはない。それゆえ著者は、「感謝しよう」と呼びかける。その感謝には、「畏れ敬い」が伴う。「畏れ」は恐怖ではない。「畏敬と敬虔」である。それは神がモーセに顕現された時、「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エジプト3章5節)と言われたように、神の聖さに対する人間の取るべき態度である。おそれかしこみつつ感謝をささげることこそ「神が喜ばれる礼拝である」。主日礼拝が最大の礼拝であるが、私たちは日常生活においてもこの心持で神に仕えるのである。

 29節は申命記4章24節の引用である。この一見恐れを抱かせる言葉は、私たちに対してというよりも、私たちの救いを妨げる者に対する裁きの言葉であろう。私たちには大祭司イエスが共におられる!
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2022年10月09日 | 週報
二〇二二年十月九日   NO・四九―二八       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)ヨブ    十九章(月)  〃    二十章
           司会 みつ子師(火)  〃   二一章(水)  〃   二二章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   二三章(金)  〃   二四章
招詞祈祷  イザヤ二章二~五節     (土)  〃   二五章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番        ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎天路29号ができました。ご活用ください。
交 読 文  詩 編 八一編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌二六二番         
献  金  感謝の祈り      松田兄     
讃  美  聖 歌四〇八番    
説  教 ヘブライ十二章十四~二四節    すべての人との平和を、また聖なる生活を
讃  美  聖 歌五五三番        追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、
祈  禱             高澤兄 だれも主を見ることはできません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヘブライ十二章十四節 

   平和と聖さを求めよ
 苦難を子に対する神からの愛の訓練として受け止め、それによって鍛え上げられた者に期待され求められているのは、「平和と聖さ」である。「すべての人との平和を追い求めなさい」という勧告がなされているのを不思議に思う人がいるかもしれない。平和を願わない人はいないと思うからである。しかし私たちの周りにも、社会、国家間にも平和はまれである。なぜなら私たちは互いに自分の考えや主張を相手に押し付け、相手の要求を退けやすいからである。それゆえ、私たちは父なる神からの訓練を通して、謙遜と従順を学び、それが身にしみることなしに、「平和に満ちた実を結ぶ」(11節)ことはできない。

 「聖さ」については、10節でも取り上げられた。この聖さは、単に倫理的に罪を犯さないとか、聖人のようになるということが言われているのではなく、すでに主イエスの死の犠牲、十字架の血によって、「聖なる者とされた人たち」(2章11節)として神との関係が深められることが言われている。だから続けて「聖さなしにはだれも主を見ることはできない」と言われているのである。

 続いて15節で「神の恵みから外れるような人がないよう……注意を払いなさい」(岩波訳)と言われる。私たちは「平和と聖さ」を熱心に追い求めなくなると神の恵みから外れる危険がある。さらにそれによって、私たちの心に「苦い根が現れ」、互いにいがみ合うようになるのである。
 16~17節のエサウの例は、彼が神から与えられた「長子の権利」を軽んじ、目先の肉の欲求を優先した生き方を示す。彼は悔い改めたのではなく後悔しただけで、神に対して心は頑ななままであった。

 18~22節は、旧約と新約、律法と福音の対比である。18~21節は、神の聖と尊厳の前に、人々が恐れを抱き、近づくことができない姿が語られている。それとは対照的に22~24節は、主イエスの注がれた血によって、私たちは恐れることなく神に近づくことができる者とされたことが語られている。これこそ私たちに備えられている神の御国の姿である。黙示録22章3~4節に描かれているように、そこで「御顔を仰ぎ見る」のである。旧約では、神を見る者は死ぬと言われたが、主イエスの救いによって、私たちは神の御顔見ることができる。今はその価値が分からないとしてもこれに優る光栄はないのである。
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2022年10月02日 | 週報
二〇二二年十月二日   NO・四九―二七       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)ヨブ    十二章(月)  〃    十三章
          司会 高 澤兄(火)  〃   十四章(水)  〃   十五章
           奏楽 内 間姉(木)  〃   十六章(金)  〃   十七章
招詞祈祷  イザヤ三五章三~四節    (土)  〃   十八章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番        ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は、聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 八十編         ◎礼拝動画 こちら 
讃  美  讃美歌二六二番         
献  金  感謝の祈り      坂本兄     
讃  美  聖 歌四〇七番         およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものでは
説  教 ヘブライ十二章四~十三節      なく、悲しいものと思われますが、後になると
聖 餐 式                 それで鍛え上げられた人々に、
讃美祈祷  聖 歌六一五番    高澤姉 義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヘブライ十二章十一節 

   訓練(苦難)の意味するもの
 4~5節の勧告は、当時の教会の状況を反映している。3節の「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」や12節の「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」は、迫害などによって信仰が動揺している信仰者を懸命に慰め励まそうとしている。

 「罪と戦って」と言われている「罪」とは、道徳的なものだけを指すのではなく、私たちを信仰から引き離そうとするすべてのものと見ることができる。「血を流すまで抵抗したことがありません」という言葉は、徹底的に罪と戦う覚悟を持つようにと言っていると見るのが普通であるが、加藤常昭師は、3節と4節をつなげて、主イエスがあなた方に代わって十字架上で血を流して下った。それゆえあなたがたは、血を流さないで来れた。だからイエス様を見上げなさい、というように理解する。5節以下の言葉も、読者を叱責するというよりは、慰め励まそうとしていることを思えば、是認できる。

 5~6節は、箴言3章11~12節の引用である。神が私たちを鍛錬するためにお用いになるものは、人によって千差万別である。ある人には病気や怪我、ある人には家庭や職場関係のトラブル、また生活苦などである。神は、それらの困難の中で、私たちがいよいよ神に頼ることを学ばせられる。

 7節以下は、肉の父によるしつけを例に出して父なる神の鍛錬がいかに優れているかを語っている。神は愛する者を訓練(鍛錬)される。訓練は、どんな種類のものであっても、当座は苦しいのであり、決して喜べない。しかし神は、私たちが御自身の「子」にふさわしい者となることを願ってなさるのである。それは「「御自分の神聖にあずからせる」(10節)ためである。そして一時の苦難と悲しみを経験した後に、「それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」ためである。

 この世の人にとって、自分の身に起こるすべての困難は、単に不幸にすぎない。しかしキリスト者にとって、すべての困難は、神から差し出される愛の訓練であり、それを通して、私たちは神の子供たちにふさわ整しいものとえられるのである。主イエスでさえ「苦しみによって従順を学ばれた」のである(5章8節)。私たちはこのように苦難の意味を理解する時、忍耐できる力を与えられる。
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