二〇二四年三月十七日 NO・五十―五一 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ル カ 六章 (月) 〃 七章
司会 高 澤兄(火) 〃 八章 (水) 〃 九章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十章 (金) 〃 十一章
招詞祈祷 イザヤ六五章一~二節 (土) 〃 十二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎二一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎来週は受難週です。
交 読 文 詩 編百二八編 公 告
讃 美 讃美歌三九一番 ◎二四日(日)午後一時より信徒総会です。
献 金 感謝の祈り 堅田姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌一五五番
説 教 ローマ十章十八~二一節 しかし、イスラエルについては、
讃 美 聖 歌四〇四番 「私は、不従順で反抗する民に、
祈 祷 松田兄 日夜、手を差し伸べた」と言っている。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章二一節
イスラエル問題の重要性
9章~11章は、イスラエルに焦点が当てられている。それは同胞の多くがキリストの福音を信じない現実に心を痛めるパウロの個人的な関心事だからではない。イスラエル問題は、神による救済史の秘義に関わる重要な問題なのである。1章~~8章ではキリストの福音に現された神の義、すなわち「不敬虔な者を義とする」(4章5節)という究極の救いの原理が語られた。それは神の救済史の中心・頂点であるが、救済史と切り離してあるのではない。選民イスラエルは救済史の発端である。そしてイスラエルの存在は、神の約束の言葉に根拠を持つ。だからイスラエルの救済問題は、神の言葉(旧約)に照らして検証されなければならない。9章~11章に旧約の引用が多いのはそのためである。「神の言葉は無効になったのではない」(9章6節)ということを、パウロはこの三章で解明しようとする。
まず9章で神の予定について語ることによって、イスラエルが「神の選びの計画による」(12節)「憐みの器」(23節)であることを示し、それにも関わらず「信仰による義」(31節)ではなく、律法による義を求めて躓いたことを明らかにした。
10章では、イスラエルの躓きの原因・責任が明らかにされる。まずパウロはユダヤ人の神に対する熱心を認めつつも、それが「正しい知識に基づかない」(2節)ことを示す。それは「自分の義を求め」(3節)て、神が与えて下さった神の義であるキリストの福音を拒否したことによる。
今日の箇所はそのことを明確にしている。パウロは、イスラエルは福音を拒否した理由は、彼らがそれを聞かなかったからでも理解しなかったからでもない。なぜなら律法を知らない異邦人でさえ、それを聞き、そして理解して信じ従ったのである(1章5節)。求めることも尋ねることもなかった異邦人が救いに与っているのに、ではなぜイスラエルは、今救いに与らないでいるのか。それは21節ではっきりと彼らの「不従順・反抗」である、と指摘される。しかしそのようなイスラエルに対しても神は「日夜、手を差し伸べ」ておられる。だからパウロは同胞の罪責を目の当たりにしても希望を失わない。「この方(神)の憐みは、この民のそしてすべての人間の『咎(とが)』より大きい」(バルト)。
礼 拝 次 第 (日)ル カ 六章 (月) 〃 七章
司会 高 澤兄(火) 〃 八章 (水) 〃 九章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十章 (金) 〃 十一章
招詞祈祷 イザヤ六五章一~二節 (土) 〃 十二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二四番 ◎二一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎来週は受難週です。
交 読 文 詩 編百二八編 公 告
讃 美 讃美歌三九一番 ◎二四日(日)午後一時より信徒総会です。
献 金 感謝の祈り 堅田姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌一五五番
説 教 ローマ十章十八~二一節 しかし、イスラエルについては、
讃 美 聖 歌四〇四番 「私は、不従順で反抗する民に、
祈 祷 松田兄 日夜、手を差し伸べた」と言っている。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章二一節
イスラエル問題の重要性
9章~11章は、イスラエルに焦点が当てられている。それは同胞の多くがキリストの福音を信じない現実に心を痛めるパウロの個人的な関心事だからではない。イスラエル問題は、神による救済史の秘義に関わる重要な問題なのである。1章~~8章ではキリストの福音に現された神の義、すなわち「不敬虔な者を義とする」(4章5節)という究極の救いの原理が語られた。それは神の救済史の中心・頂点であるが、救済史と切り離してあるのではない。選民イスラエルは救済史の発端である。そしてイスラエルの存在は、神の約束の言葉に根拠を持つ。だからイスラエルの救済問題は、神の言葉(旧約)に照らして検証されなければならない。9章~11章に旧約の引用が多いのはそのためである。「神の言葉は無効になったのではない」(9章6節)ということを、パウロはこの三章で解明しようとする。
まず9章で神の予定について語ることによって、イスラエルが「神の選びの計画による」(12節)「憐みの器」(23節)であることを示し、それにも関わらず「信仰による義」(31節)ではなく、律法による義を求めて躓いたことを明らかにした。
10章では、イスラエルの躓きの原因・責任が明らかにされる。まずパウロはユダヤ人の神に対する熱心を認めつつも、それが「正しい知識に基づかない」(2節)ことを示す。それは「自分の義を求め」(3節)て、神が与えて下さった神の義であるキリストの福音を拒否したことによる。
今日の箇所はそのことを明確にしている。パウロは、イスラエルは福音を拒否した理由は、彼らがそれを聞かなかったからでも理解しなかったからでもない。なぜなら律法を知らない異邦人でさえ、それを聞き、そして理解して信じ従ったのである(1章5節)。求めることも尋ねることもなかった異邦人が救いに与っているのに、ではなぜイスラエルは、今救いに与らないでいるのか。それは21節ではっきりと彼らの「不従順・反抗」である、と指摘される。しかしそのようなイスラエルに対しても神は「日夜、手を差し伸べ」ておられる。だからパウロは同胞の罪責を目の当たりにしても希望を失わない。「この方(神)の憐みは、この民のそしてすべての人間の『咎(とが)』より大きい」(バルト)。