二〇二一年十月三一日 NO・四八―三一 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)レビ記 二二章(月) 〃 二三章
司会 みつ子師(火) 〃 二四章(水) 〃 二五章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 二六章(金) 〃 二七章
招詞祈祷 詩編百十九編九~十節 (土)民数記 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五五番 ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週は召天者記念礼拝です。
交 読 文 詩 編 三九編
讃 美 讃美歌三六八番
献 金 感謝の祈り 高澤姉 主の僕たる者は争わず、
讃 美 聖 歌四六七番 すべての人に柔和に接し、
説 教 Ⅱテモテ二章二二~二六節 教えることができ、よく忍び、
讃 美 聖 歌五七八番 反抗する者を優しく
祈 祷 坂本兄 教え導かねばなりません。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅱテモテ二章二四・二五a節
主の僕としてのキリスト者のなすべき振る舞い
「若いころの情欲」(新共同訳)は、ここでは、肉欲などを指しているのではなく、若者にありがちな、自己主張や自己過信、さらに虚栄などを指すのだろう。辻学は「若者じみた欲望を避けなさい」と訳す。この時、テモテはすでに三十代後半だったと思われるが、パウロはテモテが議論で異なる教えをする者を打ち負かそうとする思いを戒めているのである。そして何よりも追い求めるべきものは、「義、信仰、愛、平和」でなければならない、と。若者じみた熱情は、独りよがりになりがちだが、これらを追い求める者たちは、主を呼び求める人々と「共に」である。これを「礼拝」と結びつける人もいる。
23節は、14節以下で繰り返し述べられた「議論」の無益さが強調されており、「争い」を生むだけだと言われる。これは「平和を追い求める」ことと真逆である。私たちはたとえ議論で相手を打ち負かしても、それによって相手の心を変えることはできないし、むしろ反発を起こさせ、溝が深くなる。
24~25節は、「主の僕」の普遍的な態度、振る舞いについて述べている。ここに「すべての人に」とあるのを見落としてはならない。どんな人に対しても、「柔和に接し、よく忍び、優しく」接するのである。そうすることによって「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれない」からである。「かもしれない」と訳されている語は、含みのある語である。人を悔い改めさせ、真理を認識させるのは、人にはできない。まして議論で打つ負かすことによってはできない。それは神のみがおできになることである。しかし私たちが「争わず、柔和に接し、よく忍び、優しく」接することによって、神がそれを用いて相手を変えてくださる「かもしれない」とパウロは言う。だからこそ、すべてを神の御手に委ねて、私たちは主の僕として心からそのような態度で接するべきである。口でする伝道や証は必要であるが、それと共に、何より大切なのは「柔和と優しさ」を伴う愛である。
26節は、サタンの力の強さが示されている。サタンは、人を生け捕りにし、自分の意のままにすることができる。しかし神が恵みによって、私たちの振る舞いを用いて下さって「目覚めさせてその罠から逃れさせて」下さるかもしれない。結果は神に委ねて、私たちの成すべき事が何かをここは教えている。
礼 拝 次 第 (日)レビ記 二二章(月) 〃 二三章
司会 みつ子師(火) 〃 二四章(水) 〃 二五章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 二六章(金) 〃 二七章
招詞祈祷 詩編百十九編九~十節 (土)民数記 一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五五番 ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎次週は召天者記念礼拝です。
交 読 文 詩 編 三九編
讃 美 讃美歌三六八番
献 金 感謝の祈り 高澤姉 主の僕たる者は争わず、
讃 美 聖 歌四六七番 すべての人に柔和に接し、
説 教 Ⅱテモテ二章二二~二六節 教えることができ、よく忍び、
讃 美 聖 歌五七八番 反抗する者を優しく
祈 祷 坂本兄 教え導かねばなりません。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅱテモテ二章二四・二五a節
主の僕としてのキリスト者のなすべき振る舞い
「若いころの情欲」(新共同訳)は、ここでは、肉欲などを指しているのではなく、若者にありがちな、自己主張や自己過信、さらに虚栄などを指すのだろう。辻学は「若者じみた欲望を避けなさい」と訳す。この時、テモテはすでに三十代後半だったと思われるが、パウロはテモテが議論で異なる教えをする者を打ち負かそうとする思いを戒めているのである。そして何よりも追い求めるべきものは、「義、信仰、愛、平和」でなければならない、と。若者じみた熱情は、独りよがりになりがちだが、これらを追い求める者たちは、主を呼び求める人々と「共に」である。これを「礼拝」と結びつける人もいる。
23節は、14節以下で繰り返し述べられた「議論」の無益さが強調されており、「争い」を生むだけだと言われる。これは「平和を追い求める」ことと真逆である。私たちはたとえ議論で相手を打ち負かしても、それによって相手の心を変えることはできないし、むしろ反発を起こさせ、溝が深くなる。
24~25節は、「主の僕」の普遍的な態度、振る舞いについて述べている。ここに「すべての人に」とあるのを見落としてはならない。どんな人に対しても、「柔和に接し、よく忍び、優しく」接するのである。そうすることによって「神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれない」からである。「かもしれない」と訳されている語は、含みのある語である。人を悔い改めさせ、真理を認識させるのは、人にはできない。まして議論で打つ負かすことによってはできない。それは神のみがおできになることである。しかし私たちが「争わず、柔和に接し、よく忍び、優しく」接することによって、神がそれを用いて相手を変えてくださる「かもしれない」とパウロは言う。だからこそ、すべてを神の御手に委ねて、私たちは主の僕として心からそのような態度で接するべきである。口でする伝道や証は必要であるが、それと共に、何より大切なのは「柔和と優しさ」を伴う愛である。
26節は、サタンの力の強さが示されている。サタンは、人を生け捕りにし、自分の意のままにすることができる。しかし神が恵みによって、私たちの振る舞いを用いて下さって「目覚めさせてその罠から逃れさせて」下さるかもしれない。結果は神に委ねて、私たちの成すべき事が何かをここは教えている。