稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2024年09月15日 | 週報
 二〇二四年九月十五日  NO・五一―二四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)Ⅰヨハネ   二章 (月)  〃   三章
         司会 高 澤兄(火)  〃     四章 (水)  〃  五章
          奏楽 内 間姉(木)Ⅱヨハネ    一章 (金)Ⅲヨハネ  三章
招詞祈祷  ゼカリヤ八章二二~二三節     (土)黙示録     一章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番        ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後責任役員会。
交 読 文  詩 編 四 編        ◎二五日(水)午後一時半より筑波福音同志会の聖会が
讃  美  讃美歌五一六番         当教会で開かれます。
献  金  感謝の祈り      堅田姉  ◎礼拝動画 こちら
讃  美  聖 歌五二九番         私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください。
説  教  ローマ十五章二二~三三節    私がユダヤにいる不従順な者たちから救われ、
讃  美  聖 歌五〇一番         エルサレムに対する私の奉仕が
祈  祷             松田兄  聖なる者たちに喜んで受け入れてもらえますように。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              ローマ十五章三十・三一節

   ローマの手紙の執筆の背景
 今日の箇所から、私たちはパウロがローマの手紙を書いた目的を知ることができる。一つは、「行きたいと長年、切望していた」(23節)からであるが、最大の理由は、ローマ帝国の最西端のスペインに伝道に行くための手助けをしてほしいと願っていたからである。ローマ教会は、パウロが建てた教会ではないので、自己紹介を兼ねて、自分が宣べ伝えている福音を知ってもらうために、1章16~15章13節を記した。パウロがスペインでの宣教を熱望した理由は、福音をローマ帝国全土に伝えたいという願いからである。これは主イエスの大宣教命令に合致する(マタイ28章18~20節)。

 西方での伝道に移行する前に、パウロの最優先課題は、エルサレム教会に異邦人教会からの献金を届けることであった。献金は単に愛のしるしではなく、エルサレム教会と異邦人教会との一致の確証のしるしであった。パウロは伝道した地域のユダヤ人からひどく憎まれた。それは彼が伝えた福音が律法を否定するものと映ったからである。そしてそれはエルサレム教会にとって頭痛の種であった。その地のユダヤ人キリスト者は律法を遵守していたからである。だから23節に「ユダヤにいる不従順な者たちから救われる」だけでなく、「私の奉仕が聖なる者たちに喜んで受け入れてもらえるように」と述べているのである。東方を去る前に、何としてもエルサレム教会と異邦人教会の一致を確立したかったのである。

 私たちはこの箇所を通して、パウロが置かれていた状況の厳しさを垣間見せられる。27節や9~11章が示しているように、パウロはエルサレム教会、またイスラエルの優越を認めている。それはユダヤ人が優れているというのではなく、どこまでも神の選びと約束の担い手としての救済史的優越による。それゆえエルサレム教会と異邦人教会の一致のために、たとえ命の危険があるにしても、パウロ自らエルサレムに赴かなければならなかったのである。だからパウロは異邦人教会の一翼であるローマ教会に「私のために神に祈り、私と一緒に戦ってください」(30節)と執り成しの祈りを要請したのである。

 パウロはここで願ったような形でローマに行くことはできなかった。使徒言行録28章の最後に囚人としてであるが、他人と交わることができる形で2年間を過ごせた、とある。スペイン行は不明である。
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2024年09月08日 | 週報
二〇二四年九月八日   NO・五一―二三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)Ⅰペトロ   三章 (月)  〃   四章
         司会 坂 本兄(火)  〃     五章 (水)Ⅱペトロ  一章
         奏楽 内 間姉(木)  〃     二章 (金) 〃     三章
招詞祈祷  イザヤ九章一~三節     (土)Ⅰヨハネ    一章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番         ◎十二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎天路の原稿、早めにお願いします。
交 読 文  詩 編 三 編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌五一五番         
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌四三〇番         そこで私は、神のために働くことを、
説  教  ローマ十五章十四~二一節    キリスト・イエスにあって誇りに思っています。
讃  美  聖 歌五二九番         私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、      
祈  祷             堅田姉  何も話そうとは思いません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              ローマ十五章十七・十八節

   パウロの人となり
 14節からいよいよエピローグに入る。ここは1章5~15節に対応している。

 14節の冒頭は「私は確信している」という言葉で始まっており、以下で述べることを強調している。この言葉はローマ書にここを含めて三回出て来る。8章38節と14章14節である。前の二つから分かるように、強い確信を表す言葉である。それゆえここでローマの信徒たちが「善意に溢れ、あらゆる知識に満たされ、互いに戒め合うことができる」というのは決して誇張でもお世辞でもないのである。これは1章8節に呼応する。ここにパウロの並外れた主イエスに対する信頼とまた深い謙遜がある。

 それにもかかわらず、15節で「この手紙ではところどころかなり思い切って書いた」と述べている。「ところどころ」がどこを指すのか特定できないが、1章16節~15章13節までに記された内容は、かなりの部分、衝撃的で深淵である。しかしこれは、パウロが他の伝道者たちと全く違う新しいことを述べたというのではない。どこまでも共通の唯一のイエス・キリストの救いの御業を宣べ伝えたのである。ただその真の意味を誰よりも深く汲み取り詳述したのである。それゆえ14節と15節は矛盾しない。パウロは「神からの恵みをいただいて」その召しの務めを忠実に果たすために全力を注いだだけである。

 16節からパウロは、異邦人の使徒としての務めを祭司の務めになぞらえて語っている。異邦人を「供え物」に譬えているが、これは12章1節に対応する。パウロは自分の使徒としてのすべての務めを「キリストが私を通して働かれた」(18節)と確信しており、それゆえただ「キリスト・イエスを誇る」(17節)。パウロの大胆さと謙遜、忠実さは、このような自己理解に深く根差している。

 19節の「エルサレムからイリリコンまで巡って」と言う記述は論争されている。使徒言行録だけでなく、新約のどこにもパウロがイリリコンに行ったと言う記述がないからである。ただⅡテモテ4章10節に「テトスはダルマティアに行った」とある(ダルマティアはイリリコンの別名)ことから、その地域との繋がりを見ることができる。おそらくこの言葉によって、パウロはローマ帝国の東方での働きは一段落したことを示唆し、首都ローマからイスパニアまで西方での宣教に乗り出す決意を表明したのであろう。
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2024年09月01日 | 週報
二〇二四年九月一日   NO・五一―二二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)ヤコブ    一章 (月)  〃   二章
          司会 高 澤兄(火)  〃     三章 (水)  〃    四章
           奏楽 内 間姉(木)  〃     五章 (金)Ⅰペトロ 一章
招詞祈祷  詩編九八編一~三節     (土)  〃    二章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 一〇 番       ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 二 編         ◎天路の原稿、早めにお願いします。
讃  美  讃美歌五二九番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌四五八番         希望の源である神が、信仰によって得られる
説  教  ローマ十五章七~十三節     あらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、
聖 餐 式                  聖霊の力によって、あなたがたを
讃  美  聖 歌六〇四番    松田兄  希望に満ち溢れさせてくださいますように。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十五章十三節

   希望に生きることができる
 7節を口語訳は「キリストも私たちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである」訳しているが、ここでパウロは、私たちが神の栄光を現わすよう行動せよと言っているのではなく、「キリストが私たちを神の栄光へと受け入れて下さった」(直訳)と言っている。つまり、キリストが私たちになして下さったその恵みを互いの間でも活かすように勧めている。

 8節は、9章3節の「子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」を彷彿させる。「神の真実のゆえに」、「先祖たちと交わした約束を揺るぎないものとするため」に、キリストは神の御子であるのに人となり、十字架の死に至るまでへりくだり「仕える者となられた」のである。しかしそれだけに留まらず、キリストの救いの御業は異邦人にまで及んだのである。それを9節では「(神の)憐れみのゆえに」と言っている。
 9節後半~12節までに旧約から四つの引用を通して、選びと約束の民でなかった異邦人が、イスラエルと共に、恵み・救いに与ることの幸いを示している。その内容は、異邦人が、喜びに溢れ、主なる神に感謝と讃美をささげ、ほめ歌を歌う者となる、ということである。

 13節は祈りで結ばれている。冒頭でパウロは、神を「希望の神」と呼ぶ。パンドーラの箱ではないが、人間にとって「希望」ははかないものである。死をもってすべてが終わるという目に見える現実から、人の知恵は、諦念によってそれをそのまま受け入れることを良しとした。しかし主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、私たちに確かな希望が与えられた。それは4章17節にある「死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」とあることがキリストを通して実現したからである。

 13節までで1章16節から語られてきた福音の中に啓示された神の義、すなわち「不敬虔な者の義認」についての教えと勧めが終わる。まさに13節の祈りは、締めくくりに相応しい。目に見えるものは希望ではない。たとえ見える所はどんなに厳しく悲惨であっても、キリストのゆえに、キリスト者は希望に生きることができる。キリストにある希望こそ、わたしたちの「喜びと平和」また生きる原動力である。
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2024年08月25日 | 週報
二〇二四年八月二四日  NO・五一―二一       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)ヘブライ   七章 (月)  〃   八章
          司会 松 田兄(火)  〃     九章 (水)  〃    十章
           奏楽 内 間姉(木)  〃    十一章 (金)  〃 十二章
招詞祈祷  ホセア十一章三~四節    (土)  〃   十三章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番         ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後責任役員会。
交 読 文  詩 編 一 編          ◎天路の原稿、八月中にお願いします。
讃  美  讃美歌五一二番         ◎礼拝動画 こちら 
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌四五八番        
説  教  ローマ十五章一~六節       私たち強い者は、
讃  美  聖 歌五九四番         強くない者の弱さを担うべきであり、
祈  祷             志村姉  自分を喜ばせるべきではありません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十五章一節

   強い者とされた者の責務
 1節に「強い者」と「強くない者」が出て来るが、おそらくほとんどのキリスト者は、自分を「強い者」と思っている。それゆえ他の兄弟を批判し裁く。しかしここでパウロは「強い者」の特徴を二つ上げて示す。一つは「担う者」であり、もう一つは「自分を喜ばせない」と。この基準によれば、裁くだけで担うことをしない者、自己満足している者は「強い者」ではないことになる。すると私たちは皆「強くない者」ではないか! しかしここでパウロは読者を皆「強い者」とみて語りかけている。1節の冒頭に「……すべきである」という語があり、これは「責任、義務」があることを意味し、強い者は、強くない者の弱さを批判し軽蔑のではなく、担う責務を負っている。

 この段落に三回「喜ばせる」という語が出て来る。「自分を喜ばせない、隣人を喜ばせる、キリストも自らを喜ばない」である。隣人を喜ばせるとは、お世辞を言う、機嫌を取る、媚びることではない。隣人の(利)益となることを図ることである。それも「善へ」と、また「建てる」ためである。つまりキリストの教会を建て上げるという善に向かって、弱い者を励まし強めるのである。

 3節は、キリストの生涯を示して、強い者とはどのような者かの模範を示している。主イエスは、自分を喜ばすのではなく、父なる神の御心を絶えず行って神を喜ばした。そして「強い者」と自認しているが実は弱い者の「そしり」を余すところなく引き受け担われた。それによって私たちは救われたのである。

 4節は、聖書はすべて私たちに「忍耐と慰め」を教え導く、と述べる。この二つのものが希望を生み、私たちは弱い者を担うこと、自分を喜ばせないことができるようになる。

5節の「キリスト倣って」という言葉は、模範(模倣)という側面も否定できないが、むしろ私たちの行動の「根拠」である。キリストがまさに弱い私たちを担って自分を捧げて下さったゆえに、私たちはキリストの体の一部として互いに「同じ思いを抱いて」生きることが可能となる。

 6節は、頌栄である。キリストによって強くされた私たちが、互いの弱さを担い、仕え合う時に、「心を合わせ、声をそろえて」神を讃美し神に栄光を帰すことができるようになる。
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2024年08月25日 | 週報
二〇二四年八月二四日  NO・五一―二一       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)ヘブライ   七章 (月)  〃   八章
          司会 松 田兄(火)  〃     九章 (水)  〃    十章
           奏楽 内 間姉(木)  〃    十一章 (金)  〃 十二章
招詞祈祷  ホセア十一章三~四節    (土)  〃   十三章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番         ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後責任役員会。
交 読 文  詩 編 一 編       ◎天路の原稿、八月中にお願いします。
讃  美  讃美歌五一二番         
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌四五八番        
説  教  ローマ十五章一~六節       私たち強い者は、
讃  美  聖 歌五九四番         強くない者の弱さを担うべきであり、
祈  祷             志村姉  自分を喜ばせるべきではありません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十五章一節

   強い者とされた者の責務
 1節に「強い者」と「強くない者」が出て来るが、おそらくほとんどのキリスト者は、自分を「強い者」と思っている。それゆえ他の兄弟を批判し裁く。しかしここでパウロは「強い者」の特徴を二つ上げて示す。一つは「担う者」であり、もう一つは「自分を喜ばせない」と。この基準によれば、裁くだけで担うことをしない者、自己満足している者は「強い者」ではないことになる。すると私たちは皆「強くない者」ではないか! しかしここでパウロは読者を皆「強い者」とみて語りかけている。1節の冒頭に「……すべきである」という語があり、これは「責任、義務」があることを意味し、強い者は、強くない者の弱さを批判し軽蔑のではなく、担う責務を負っている。

 この段落に三回「喜ばせる」という語が出て来る。「自分を喜ばせない、隣人を喜ばせる、キリストも自らを喜ばない」である。隣人を喜ばせるとは、お世辞を言う、機嫌を取る、媚びることではない。隣人の(利)益となることを図ることである。それも「善へ」と、また「建てる」ためである。つまりキリストの教会を建て上げるという善に向かって、弱い者を励まし強めるのである。

 3節は、キリストの生涯を示して、強い者とはどのような者かの模範を示している。主イエスは、自分を喜ばすのではなく、父なる神の御心を絶えず行って神を喜ばした。そして「強い者」と自認しているが実は弱い者の「そしり」を余すところなく引き受け担われた。それによって私たちは救われたのである。

 4節は、聖書はすべて私たちに「忍耐と慰め」を教え導く、と述べる。この二つのものが希望を生み、私たちは弱い者を担うこと、自分を喜ばせないことができるようになる。

5節の「キリスト倣って」という言葉は、模範(模倣)という側面も否定できないが、むしろ私たちの行動の「根拠」である。キリストがまさに弱い私たちを担って自分を捧げて下さったゆえに、私たちはキリストの体の一部として互いに「同じ思いを抱いて」生きることが可能となる。

 6節は、頌栄である。キリストによって強くされた私たちが、互いの弱さを担い、仕え合う時に、「心を合わせ、声をそろえて」神を讃美し神に栄光を帰すことができるようになる。
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2024年08月18日 | 週報
二〇二四年八月十八日  NO・五一―二十       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)フィレモン  一章 (月)ヘブライ  一章
         司会 高 澤兄(火)  〃     二章 (水)  〃    三章
         奏楽 内 間姉(木)  〃     四章 (金)  〃 五章
招詞祈祷  詩編二五編四~五節     (土)  〃    六章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番         ◎二二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎天路の原稿、八月中にお願いします。
交 読 文  詩 編百五十編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌五一〇番         
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌四五八番        
説  教  ローマ十四章十八~二三節     食べる時に疑いを持つ者は、すでに断罪されている。
讃  美  聖 歌五八八番         信からではないからである。
祈  祷             坂本兄  信からでないことは、すべて罪である。(田川訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十四章二三節

   「信からでないことは、すべて罪である」の真意
 14章は一貫して「食物」について見解の異なる二つのグループに対して、お互いに「裁かない」ように、また躓かせないようにと、しつこいほど言葉を重ねてパウロは語る。その根底にあるのは、パウロがこれまで一貫して語ってきた「キリストの信実(ピスティス)」によって人は救われるのであって、食物のタブー、すなわち何を食べる、食べないという律法の行いによって、人の救いが左右されないという基盤に立ってのことである。だから「主がその人を立たせることがおできになる」(4節)、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きた人にも主となられるため」(9節)、「キリストはそのきょうだいのために死んでくださった」(15節)と、自分と立場の違う兄弟も、キリストの御業による救いに与っていることを覚え尊重するように喚起する。

 14章の最後の節(23節)にある最後の言葉「信からでないことは、すべて罪である」は、14章の結論であるだけでなく、8章までで語られたキリストの福音をもう一度確認している。すなわち1章17節の「神の義は、福音の中で、(キリストの)信(ピスティス)から(私たちの)信仰(ピスティス)へと啓示される。」に立ち帰っている。ピスティスは、通常「信仰」と訳される。しかし「信仰」とはどこまでも人間の側のことである。しかしパウロはそれをキリストにも当てはめて用いている。3章22・26節「キリストの真実によって」と訳されている。そして「信から」という言い回しをパウロが用いる時、それは、私たちの信仰ではなく、「キリストの信(信実)」を表す。そうゆえ23節は「信から」であるので、これはキリストの信(信実)を指す。パウロがいう私たちの信仰は、私たちが持つ「信念」や「確信」ではない。私たちの信仰はどこまでもキリストのピスティスに依拠しており、キリストの信に与ることなのである。ではなぜ「キリストの信からでないものがすべて罪である」と断定されるのかと言えば、罪とはどこまでも神との関係である。罪の赦しはキリストの信によって与えられるのであるから、それによらないことは、罪に留まるのである。もし23節を私たちの信仰と取るならば、それこそ個々人の信仰の確信は各自異なるし、さらにそれほど信頼のおけるものではない。救いがキリストの信であることを真に知る者は裁かない。
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2024年08月11日 | 週報
二〇二四年八月十一日  NO・五一―十九       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)Ⅱテモテ   一章 (月) 〃  二章
         司会 坂 本兄(火)  〃     三章 (水)  〃    四章
         奏楽 内 間姉(木)テトス     一章 (金)  〃 二章
招詞祈祷  イザヤ四二章一~四節    (土)  〃    三章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六 番         ◎十五日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り                 ◎天路の原稿、八月中にお願いします。
交 読 文  詩 編百四十九編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌五〇九番         
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌四五八番         私は、主イエスにあって知り、確信しています。
説  教  ローマ十四章十三~十七節    それ自体で汚れているものは何一つありません。
聖 餐 式                  汚れていると思う人にとってだけ、
讃美祈祷  聖 歌六〇五番    松田兄  それは汚れたものになるのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十四章十四節

   キリストにある自由をいかに行使するか
 14節の「私は、主イエスにあって知り、確信しています。それ自体で汚れたものは何一つありません」は、マルコ7章15節の主イエスの言葉を想起させるが、これは単に「食べ物」に関する事だけに限定されるのではなく、祭儀的な聖と不浄、また宗教的な聖と(世)俗の区別を撤廃する革命的宣言である! その根拠は、神の御子が人間となられてこの世に来られたことによって実現した。それ以前は、「神は天におられ、あなたは地上にいる」(コヘレト5章1節)が厳然たる現実であった。しかし主イエスにおいて「真の神と真の人」が一つとなったのである。主イエスが死んで救いの御業を完成された時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15章39節)のは、聖と不浄、聖と俗の区別が取り除かれたことを象徴的に現している。つまり日常生活そのものが絶えず神との交わりの場となるのである。

 しかしモーセの律法を規範として生きて来たユダヤ人キリスト者にとって、食べ物の聖・不浄から自由になることは、良心のとがめを感じた。そこでキリストによる自由を勝ち得た異邦人キリスト者との間に摩擦が生じたのである。それはコリント教会で特に大きかった(Ⅰコリント8章)。そしてパウロは一貫して、食べ物における自由を主張する者にそれを放棄するように勧めている。なぜか? むしろ彼らの伝統に囚われた状態を正してあげるべきではないのか。ガラテヤ2章5節以下にあるように、パウロはペトロを激しく叱責したではないか。それは福音を台無しにすることに通じることだったからである。しかしここで取り上げられているのは飲食のことである。「食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはならない」(15節)、「神の国は飲み食いではない」(17節)と述べて、弱い人を躓かせないために、自分の自由を放棄するよう勧める。それは「キリストはそのきょうだいのために死んでくださった」(16節)からである。強者・弱者を問わず、人の救いのために、主イエスの命と引き換えの重さがあることを忘れてはならない。

 現代において、ここで取り上げられている食べ物のタブーはもはや問題にならない。しかし禁酒禁煙は類似的問題と言えるだろう。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」(Ⅰコリント10章23節)ことを知り、「愛に従って歩む」(15節)ことこそ真の自由の行使である。
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2024年08月04日 | 週報
二〇二四年八月四日   NO・五一―十八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)Ⅱテサロニケ 三章 (月)Ⅰテモテ  一章
          司会 松 田兄(火)  〃     二章 (水)  〃    三章
           奏楽 みつ子師(木)  〃     四章 (金)  〃 五章
招詞祈祷  詩編百二七編一~二節    (土)  〃   六章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三 番         ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編百四十八編        ◎天路の原稿、八月中にお願いします。 
讃  美  讃美歌五〇四番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌四五八番        
説  教  ローマ十四章七~~十二節      何故なら、このためにこそめにこそ、キリストは死んで、
聖 餐 式                  生きたのだ。それは、死者たちに対しても
讃美祈祷  讃美歌三六一番    松田兄  生者たちに対しても主となるためである。(田川訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十四章九節

   「主のもの」であることを知るキリスト者の幸い
 7~9節は、私たちの存在について、すなわち私たちの生と死の意味するものについて語られる。私たちの人生、生きる目的・意味はどこにあるのか。多くの人は「自分のため」と答えるだろうか? しかしその生き方は孤独であり、つまらない人生である。パウロは明確に答える、「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もありません」(7節)と。ギリシア人もまた「生きるにせよ死ぬにせよ、自分一人のためにそうするのは恥ずべきこと」であるのを知っていた。しかしここでさらにはっきりとパウロは私たちが生きるまた死ぬとすれば「主のため」であると存在の理由、生きる目的を示している。ほとんどの訳が「(主の)ために」と訳している語は与格であって、直訳すれば「私たちは主に生き、主に死ぬ」である。田川健三は「主に対して」と訳して「人間の生はそれ自体として存在しているのではなく、神に向かい合うものとして、神との関りにおいてしか人間は存在しない」と解説している。私たちは誰一人として自分の意志で生まれなかったし、自分の死を(寿命)定めることはできない。

 9節の冒頭に「なぜならこのことのために」という言葉があり、前節の「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」となるために「キリストは死んで生きた」と理由を示す。「死んで生きた」という順序は、キリストの救いの御業、十字架と復活の順序を表している。それによってキリストは死者と生者の主となられた。「キリストは生と死を踏破され、今やその両者に対して支配力を握っておられる。」(ヴィルケンス)。それゆえ死ですべてが終わり無に帰するのではない。私たちは死んでもそこに主イエスがおられる。このように私たちの生も死も主の御手の中にあること、「主のもの」であることを知る時、私たちの人生は豊かな意味を持つのである。それは私たちが何か「主のために」なしたからではない。主が十字架と復活を通して、私たちのために勝ち取ってくださったものである。

 12節は、最後の審判が想定されているが、ここにおいても私たちの何かの業によって申し開きをするのではなく、キリストの御業のゆえに立つことができる。だから11節にあるように、キリストのゆえに神をほめたたえるようになるのである! キリスト者とは、自分が主のものあることを知る存在である。
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2024年07月28日 | 週報
二〇二四年七月二八日  NO・五一―十七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)Ⅰテサロニケ 一章 (月)  〃    二章
         司会 松 田兄(火)  〃     三章 (水)  〃     四章
           奏楽 内 間姉(木)  〃     五章 (金)Ⅱテサロニケ 一章
招詞祈祷  詩編六五編三~五節     (土)  〃   二章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 一 番         ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より「礼拝」3章の学びです。
交 読 文  詩 編百四十七編        ◎天路の原稿、八月中にお願いします。 
讃  美  讃美歌五〇三番          ◎礼拝動画 こちら 
献  金  感謝の祈り      豊口姉
讃  美  聖 歌四七八番        
説  教  ローマ十四章一~六節       信仰の弱い人を受け入れなさい。
讃  美  聖 歌五四五番         その考えを批判してはなりません。
祈  祷             志村姉  神がその人を受け入れてくださったのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十四章一・三節

   キリスト者の自由の用い方
 12~13章は、1~8章で明らかにされたキリストの真実による救いに与った私たちキリスト者がいかに歩むべきかの根本的・普遍的勧告がなされた。すべての人に愛と謙遜をもって接するように、と。

 14~15章13節では、教会内における「一致」を取り上げる。この一つのテーマについてこれほど紙面を割いていること自体が、その重要性を示すと共に、それが容易ではないことを示す。

 1節の冒頭「信仰の(に関して)弱い人を受け入れなさい」と言われている。ここで「信仰の弱い人」の具体的例として、「菜食主義者」(2節)、「特定の日を重んじる」(6節)人と言われている。ここで言われている信仰の弱い人とは、おもに律法の規定に縛られて偶像に捧げられた肉を食べない人である。別の言葉で言えば、宗教的タブーに固執している人たちである。

 しかしパウロは食べ物や特別な日に囚われていない。なぜなら、人が救われるのは、(律法の)行いによるのではなく、ただキリストの真実による恵みによってのみであることを確信していたからである。パウロは自分を「私たち強い者は」(15章1節)と呼んでいる。また「私たちには、すべてのことが許されている」(Ⅰコリント6章12節)ということができた。しかしこの箇所で、それらに囚われている人を「受け入れる」ように勧めて、「その考えを批判してはならない」と強い人に勧める。それはキリストの体である教会の交わりと一致を優先するためである。福音の根本に抵触しない限り、何を食べるか食べないか、日を重んじるか重んじないかはたいしたことではない、というのである。

 パウロは両者に対して「軽んじるな」「裁くな」と言う。この背後にあるのは、自己の立場の絶対化である。しかしパウロは、各自の主人はキリストであることに注意を向ける。そのことを踏まえるならば、他人を裁くことは僭越であり傲慢である。しかし私たちはここから脱け出すのは容易ではない。

 この事柄は、現代のキリスト者にとっても他人事ではない。例えば禁酒禁煙をキリスト者のしるしとする人とそうでない人がいる。個々の事柄について意見や考えが違っても、その人がキリストを信じる人であれば、主にある兄弟として受け入れ尊重すべきである。そこにキリスト者の自由と愛と謙遜がある。
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2024年07月21日 | 週報
二〇二四年七月二一日  NO・五一―十六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)フィリピ   二章 (月) 〃  三章
        司会 高 澤兄(火)  〃    四章 (水)コロサイ 一章
        奏楽 内 間姉(木)  〃    二章 (金) 〃   三〃章
招詞祈祷  イザヤ二一章十一~十二節  (土)  〃   四章
頌  栄  聖 歌三八四番           (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九〇番         ◎二五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日責任役員会。
交 読 文  詩 編百四十五編        ◎次週は午後一時より「礼拝」3章の学びです。 
讃  美  讃美歌五〇二番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌四七八番         日中を歩むように、品位をもって
説  教  ローマ十三章十一~十四節    歩もうではありませんか。馬鹿騒ぎや泥酔、
讃  美  聖 歌七二三番         淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て、
祈  祷             松田兄  主イエス・キリストを着なさい。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ十三章十三・十四節

   時を知る者の歩み方
 冒頭にある「そしてこれは」を共同訳は「さらに」と訳しているが、口語訳は「励まねばならない」を補って「特に、この事を励まねばならない」と訳している。「これは」は直接には8~10節の隣人愛を指すのであろうが、12章以下の勧めを指すと見ることができる。

 ここでパウロは、12章からなされたキリスト者としての生き方を根拠づけるものとして「あなた方は時を知っている」からと言う。ここの「時(カイロス)」と後の「覚める時(ホーラー)」は区別される。後者は、時計が刻む時であるが、前者の「時(カイロス)」は決定的時、すなわち神の時である。具体的に言えば、神が主イエスを通してなされた救いの時である。私たちキリスト者は、その時を知っている者として生きている、とパウロは言うのである。。そしてキリスト者は、キリストの死と復活によって「すでに」救いは来た、私たちの上になされたことを知る。そして同時に「未だ」すなわち「神の子どもの栄光の自由に入るという希望」(8章21節)に生きている。このように今の時を捉えている。そして「私たちの救いは……近づいている」(11節)ことを知っている。このように時・歴史は救いの完成に向かっていることを知るのがキリスト者である。決して時は終わりのない循環・輪廻ではない。

 今私たちが生き、経験している世界は「闇夜」であり、益々暗さが増しているように見える。しかし私たちは絶望しない。なぜならすでに「昼は近づいた」のを知っているからである。すでに聖霊によって神の愛が注がれているのであり、すでに「光の武具」(12節)を身に着けることが許されているのである。それゆえこの暗黒の世で刹那的喜びに逃げない。それらは「闇の行い」であり、夜に行う営みのようなもので、昼に生きるキリスト者に相応しくない。それをパウロは昼間のきちんとした服装で過ごすのにたとえている。共同訳はそれを「品位をもって歩もう」と訳している。闇の行いはだらしがない服装で下品である。

 最後に同じことをパウロは「主イエス・キリストを着なさい」と言い替えている。これはすでに無条件で人に貸与されているものである。私たちキリスト者は、救いの時の近いこと知る者として、どんなに暗く困難な時・状態にあっても、絶望することなく、キリストを着るものとして生きるのである。
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