二〇二二年三月二七日 NO・四八―五二 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)サムエル上 二三章(月) 〃 二四章
司会 坂 本兄(火) 〃 二五章(水) 〃 二六章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 二七章(金) 〃 二八章
招詞祈祷 イザヤ六一章一~三節 (土) 〃 二九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十二番 ◎三一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教義学要綱「天と地」の学びです。
交 読 文 詩 編 五九編 ◎本日、松田兄弟、松田姉妹の転入会式をいたします。
讃 美 讃美歌四六五番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌七一七番 多くの苦しみによって、従順を学ばれました。そして
説 教 ヘブライ五章一~十節 完全な者となられたので、御自分に従順である
転入会式 松田兄姉 すべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
讃 美 聖 歌二五五番 高澤兄 神から……大祭司と呼ばれたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ五章八~十節
大祭司イエスの生きざま
1~3節で、大祭司の要件について語られる。①人間でなければならない(1節)。②人々のために人々に代わって神に犠牲を捧げる(1節)。③神によって任命された者である(4節)。
以上の要件を主イエスも満たしておられる。しかし6節で詩編110編4節を引用して「メルキゼデクと同じような大祭司」(10節)であると言われ、これまでの大祭司との違いも明らかにされる。メルキゼデクという名前は、創世記14章18節と詩編110編4節に出てくるだけで、謎に満ちた存在である。ただ創世記14章18節に、彼が「祭司であり同時に王」であると言われている。旧約において大祭司はアロンの家系から、王はダビデの家系から選ばれるのであって、大祭司であり同時に王であることはない。ここでメルキゼデクの名前が挙げられたのは、主イエスが大祭司であり同時に王(主)であるからである。
7~9節は、キリストの生涯を総括している。7節の言葉は、他の新約に例を見ない主イエスの姿を表している。これをある人はゲッセマネの出来事と言い、ある人は十字架の出来事と言う。あるいは両方を指すと言う。しかしある人は「彼の肉の日々において」(直訳)の言葉から、主イエスの生涯全体を指すと言う。この中のどれか一つに特定するのは困難である。主イエスは祈りの人であり、朝早くから絶えず祈られたことは確かである。主イエスは肉体を取り、人間の弱さ、死ぬべき存在としての限界を御自身の身に引き受けられた。そして大祭司として私たちに代わって、私たちが救いに与るために、日夜「祈りと願い」を熱心に捧げられたに違いない。そしてその頂点がゲッセマネであり、十字架である。ここで祈りが「聞き入れられた」と言われているが、ゲッセマネでの主御自身の願いは聞かれなかった。しかしそれでも神の御心に従順に十字架につかれた。そこで「わが神、わが神……」という叫びを発せられた。そして最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られた。ここに聞き入れられたことを見ることができる。「完全な者となられた」とは、道徳的完全ではなく、目標に達する意味での完成のことである。十字架の苦しみを通して従順に神のみ旨を完成されたゆえに、主イエスは「永遠の救いの源」となられた。主イエスは今も大祭司として、私たちのために熱心に執り成し、私たちの弱さを共に苦しみ給う。
礼 拝 次 第 (日)サムエル上 二三章(月) 〃 二四章
司会 坂 本兄(火) 〃 二五章(水) 〃 二六章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 二七章(金) 〃 二八章
招詞祈祷 イザヤ六一章一~三節 (土) 〃 二九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十二番 ◎三一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より教義学要綱「天と地」の学びです。
交 読 文 詩 編 五九編 ◎本日、松田兄弟、松田姉妹の転入会式をいたします。
讃 美 讃美歌四六五番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌七一七番 多くの苦しみによって、従順を学ばれました。そして
説 教 ヘブライ五章一~十節 完全な者となられたので、御自分に従順である
転入会式 松田兄姉 すべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
讃 美 聖 歌二五五番 高澤兄 神から……大祭司と呼ばれたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ五章八~十節
大祭司イエスの生きざま
1~3節で、大祭司の要件について語られる。①人間でなければならない(1節)。②人々のために人々に代わって神に犠牲を捧げる(1節)。③神によって任命された者である(4節)。
以上の要件を主イエスも満たしておられる。しかし6節で詩編110編4節を引用して「メルキゼデクと同じような大祭司」(10節)であると言われ、これまでの大祭司との違いも明らかにされる。メルキゼデクという名前は、創世記14章18節と詩編110編4節に出てくるだけで、謎に満ちた存在である。ただ創世記14章18節に、彼が「祭司であり同時に王」であると言われている。旧約において大祭司はアロンの家系から、王はダビデの家系から選ばれるのであって、大祭司であり同時に王であることはない。ここでメルキゼデクの名前が挙げられたのは、主イエスが大祭司であり同時に王(主)であるからである。
7~9節は、キリストの生涯を総括している。7節の言葉は、他の新約に例を見ない主イエスの姿を表している。これをある人はゲッセマネの出来事と言い、ある人は十字架の出来事と言う。あるいは両方を指すと言う。しかしある人は「彼の肉の日々において」(直訳)の言葉から、主イエスの生涯全体を指すと言う。この中のどれか一つに特定するのは困難である。主イエスは祈りの人であり、朝早くから絶えず祈られたことは確かである。主イエスは肉体を取り、人間の弱さ、死ぬべき存在としての限界を御自身の身に引き受けられた。そして大祭司として私たちに代わって、私たちが救いに与るために、日夜「祈りと願い」を熱心に捧げられたに違いない。そしてその頂点がゲッセマネであり、十字架である。ここで祈りが「聞き入れられた」と言われているが、ゲッセマネでの主御自身の願いは聞かれなかった。しかしそれでも神の御心に従順に十字架につかれた。そこで「わが神、わが神……」という叫びを発せられた。そして最後に「成し遂げられた」と言って息を引き取られた。ここに聞き入れられたことを見ることができる。「完全な者となられた」とは、道徳的完全ではなく、目標に達する意味での完成のことである。十字架の苦しみを通して従順に神のみ旨を完成されたゆえに、主イエスは「永遠の救いの源」となられた。主イエスは今も大祭司として、私たちのために熱心に執り成し、私たちの弱さを共に苦しみ給う。