二〇一九年十二月二九日 NO・四六ー三九 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 年末礼拝(日)箴言 一章(月) 〃 二章
司会 高 澤兄(火) 〃 三章(水) 〃 四章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 五章(金) 〃 六章
招詞祈祷 詩編百三八編七~八節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 三〇番 ◎二日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り
交 読 文 詩 編 百十八編十七~二九節 この一年の神の守りと導きを
讃 美 讃美歌一二一番 感謝し讃美いたします
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌四〇四番 この子をイエスと名付けなさい。
説 教 マタイ一章二一~二三節 この子は自分の民を罪から救うからである。
讃 美 聖 歌二九二番 その名はインマヌエルと呼ばれる。
祈 祷 坂本兄 「神は我々と共におられる」という意味である。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マタイ一章二一・二三節
主イエス降誕の意味
主イエスの降誕を、ルカはマリアを中心に、マタイはヨセフを中心に記している。ヨセフの困惑は、マリアよりも大きかった。さらにヘロデの幼児虐殺は、この世界の悲惨と罪を如実に示している。
今日の箇所は、簡潔にまた明快に主イエスの降誕の意味を述べている。
第一に「この子は自分の民を罪から救う」と。主イエスが来られたのは、人間を「罪」から救うためである。私たちは苦しみや悩みから救うためというならありがたいと思うが、罪からの救いと言われてもなかなかピンと来ない。しかし罪からの救いこそ根本的な救いなのである。聖書でいう罪とは、法律に違反するとか、道徳に反するということ以上に、神から離れていることである。神を念頭に置かず、自分の力や富に頼る生き方である。ここに、人間がこの世で起こすあらゆる悲惨な出来事の根がある。
第二は、第一と密接に関わるが、主イエスは、命を懸けて私たちを罪から救い、神のもとに立ち帰らせて下さった。それによって「神は我々と共におられる」ようになった。愛と平和に満ち給う神、命の源である神が、生きている時も死ぬ時も、いついかなる時も共にい下さることを信じ知ることこそ救いである。自分の知恵と力で思い描く人生設計は、世界や社会の情勢の変化、自然災害の前に簡単に崩れる。自分と富を頼りとする人生は不安がつきまとう。しかし主イエスは、山上の説教で「思い悩むな」、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要ことをご存じである」(6章32節)と言われた。マタイ11章28~30節参照。主イエスを通して、目に見える所だけで判断すれば、自分り将来に不安や恐れが付きまとう。しかし万物の神が、私たちの父なる神であり、その神が私たちの人生に伴ってくださることを知る時、その中に憩うことができる。ヘブライ4章10節参照。
主イエスを信じれば、順風満帆な人生を送れるというのではない。ヨセフは、困惑と犠牲を強い要られる所を通らされた。しかし彼は神の御言葉に従ったのである。そのように私たちも、様々な試練の中を通るとしても、聖書の約束の言葉を信じて委ねる時、それを担うことができ耐えることができる。主イエスが共にいて下さる人生であるゆえに、平和の裡に進むことができる。
礼 拝 次 第 年末礼拝(日)箴言 一章(月) 〃 二章
司会 高 澤兄(火) 〃 三章(水) 〃 四章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 五章(金) 〃 六章
招詞祈祷 詩編百三八編七~八節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 三〇番 ◎二日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り
交 読 文 詩 編 百十八編十七~二九節 この一年の神の守りと導きを
讃 美 讃美歌一二一番 感謝し讃美いたします
献 金 感謝の祈り 平林姉
讃 美 聖 歌四〇四番 この子をイエスと名付けなさい。
説 教 マタイ一章二一~二三節 この子は自分の民を罪から救うからである。
讃 美 聖 歌二九二番 その名はインマヌエルと呼ばれる。
祈 祷 坂本兄 「神は我々と共におられる」という意味である。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マタイ一章二一・二三節
主イエス降誕の意味
主イエスの降誕を、ルカはマリアを中心に、マタイはヨセフを中心に記している。ヨセフの困惑は、マリアよりも大きかった。さらにヘロデの幼児虐殺は、この世界の悲惨と罪を如実に示している。
今日の箇所は、簡潔にまた明快に主イエスの降誕の意味を述べている。
第一に「この子は自分の民を罪から救う」と。主イエスが来られたのは、人間を「罪」から救うためである。私たちは苦しみや悩みから救うためというならありがたいと思うが、罪からの救いと言われてもなかなかピンと来ない。しかし罪からの救いこそ根本的な救いなのである。聖書でいう罪とは、法律に違反するとか、道徳に反するということ以上に、神から離れていることである。神を念頭に置かず、自分の力や富に頼る生き方である。ここに、人間がこの世で起こすあらゆる悲惨な出来事の根がある。
第二は、第一と密接に関わるが、主イエスは、命を懸けて私たちを罪から救い、神のもとに立ち帰らせて下さった。それによって「神は我々と共におられる」ようになった。愛と平和に満ち給う神、命の源である神が、生きている時も死ぬ時も、いついかなる時も共にい下さることを信じ知ることこそ救いである。自分の知恵と力で思い描く人生設計は、世界や社会の情勢の変化、自然災害の前に簡単に崩れる。自分と富を頼りとする人生は不安がつきまとう。しかし主イエスは、山上の説教で「思い悩むな」、「天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要ことをご存じである」(6章32節)と言われた。マタイ11章28~30節参照。主イエスを通して、目に見える所だけで判断すれば、自分り将来に不安や恐れが付きまとう。しかし万物の神が、私たちの父なる神であり、その神が私たちの人生に伴ってくださることを知る時、その中に憩うことができる。ヘブライ4章10節参照。
主イエスを信じれば、順風満帆な人生を送れるというのではない。ヨセフは、困惑と犠牲を強い要られる所を通らされた。しかし彼は神の御言葉に従ったのである。そのように私たちも、様々な試練の中を通るとしても、聖書の約束の言葉を信じて委ねる時、それを担うことができ耐えることができる。主イエスが共にいて下さる人生であるゆえに、平和の裡に進むことができる。