二〇二四年一月二八日 NO・五十―四四 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)マタイ 一章 (月) 〃 二章
司会 松 田兄(火) 〃 三章 (水) 〃 四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 五章 (金) 〃 六章
招詞祈祷 ヨブ記四十章一~五節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十一番 ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎礼拝動画 こちら
交 読 文 詩 編百二一編
讃 美 讃美歌三七〇番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四〇九番 ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。
説 教 ローマ九章十九~二四節 造られたものが、造った者に、
讃 美 聖 歌二九五番 「どうして私をこのように造ったのか」
祈 祷 志村姉 と言えるでしょうか。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ九章二十節
人としての分をわきまえる
19節は、14節に続いて二つ目の反問である。18節で言われているように、神の御意志、すなわち神の絶対的主権ですべてが決定されるとしたら、もはや人に自由はなく、自由がなければ責任もないことになるのではないか。そうであるなら、神が人の行為を非難するのはおかしいではないか、人はそれに逆らうことができないではないか、という理屈(論理)からの反問である。それに対するパウロの答えは「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か」であった。さらに続けて、「造られたものが造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えようか」と言う。ここでパウロは、神と人間が創造主と被造物という関係であることに留意させる。それを21節で、陶工のたとえを用いて説明する。
ここでパウロは論理を尽くして、反問に答えていない。一見高圧的な答え方に見える。しかしこれが問題の核心をつく真理なのである。なぜなら神と人間は、元々同じ土俵に立っていない。人は有限で、時間の中におり、神は無限で、永遠である。神は創造主であり、人は被造物である。パウロは、このように答えることによって、私たちが神に対して取るべき態度がどうあるべきか、を示している。天に向かって唾を吐けば、自分の顔にその唾は戻ってくるように、神に口答えするのは愚かな行為である。
神は人間を決して、均一、画一的に造られなかった。各人は、決して同じ容姿、性格、能力を持っていない。それぞれ個性的に造られたということは、神の計り知れない英知である。果たして、美しく能力ある人が、神に向かって、なぜ私をこんな風に造られたのか、と文句を言う人がいるだろうか。幸福で順風満帆の時は文句は言わないが、その逆なら文句をいうとすれば、それは身勝手な言い分ではないか? 福音に目を注ごう。神が御意志によって、自分に逆らう人間のために、愛する独り子を十字架につけた。これは理屈に合うだろうか? 私たちはその救いの御業に文句を言わず感謝しているではないか!
私たちキリスト者は、いつでも福音の光から神を見るべきである(8章31~39節)。その時私たちは、順境の時も逆境の時も、神のなさることは私たちの思いを超えて正しいということができる。そこに立ち続ける時、私たちに平安がある。そしてその平安がある所に、幸不幸に左右されない自由がある。
礼 拝 次 第 (日)マタイ 一章 (月) 〃 二章
司会 松 田兄(火) 〃 三章 (水) 〃 四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 五章 (金) 〃 六章
招詞祈祷 ヨブ記四十章一~五節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十一番 ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎礼拝動画 こちら
交 読 文 詩 編百二一編
讃 美 讃美歌三七〇番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四〇九番 ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。
説 教 ローマ九章十九~二四節 造られたものが、造った者に、
讃 美 聖 歌二九五番 「どうして私をこのように造ったのか」
祈 祷 志村姉 と言えるでしょうか。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ九章二十節
人としての分をわきまえる
19節は、14節に続いて二つ目の反問である。18節で言われているように、神の御意志、すなわち神の絶対的主権ですべてが決定されるとしたら、もはや人に自由はなく、自由がなければ責任もないことになるのではないか。そうであるなら、神が人の行為を非難するのはおかしいではないか、人はそれに逆らうことができないではないか、という理屈(論理)からの反問である。それに対するパウロの答えは「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か」であった。さらに続けて、「造られたものが造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えようか」と言う。ここでパウロは、神と人間が創造主と被造物という関係であることに留意させる。それを21節で、陶工のたとえを用いて説明する。
ここでパウロは論理を尽くして、反問に答えていない。一見高圧的な答え方に見える。しかしこれが問題の核心をつく真理なのである。なぜなら神と人間は、元々同じ土俵に立っていない。人は有限で、時間の中におり、神は無限で、永遠である。神は創造主であり、人は被造物である。パウロは、このように答えることによって、私たちが神に対して取るべき態度がどうあるべきか、を示している。天に向かって唾を吐けば、自分の顔にその唾は戻ってくるように、神に口答えするのは愚かな行為である。
神は人間を決して、均一、画一的に造られなかった。各人は、決して同じ容姿、性格、能力を持っていない。それぞれ個性的に造られたということは、神の計り知れない英知である。果たして、美しく能力ある人が、神に向かって、なぜ私をこんな風に造られたのか、と文句を言う人がいるだろうか。幸福で順風満帆の時は文句は言わないが、その逆なら文句をいうとすれば、それは身勝手な言い分ではないか? 福音に目を注ごう。神が御意志によって、自分に逆らう人間のために、愛する独り子を十字架につけた。これは理屈に合うだろうか? 私たちはその救いの御業に文句を言わず感謝しているではないか!
私たちキリスト者は、いつでも福音の光から神を見るべきである(8章31~39節)。その時私たちは、順境の時も逆境の時も、神のなさることは私たちの思いを超えて正しいということができる。そこに立ち続ける時、私たちに平安がある。そしてその平安がある所に、幸不幸に左右されない自由がある。