二〇二二年九月二五日 NO・四九―二六 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 五章(月) 〃 六章
司会 坂 本兄(火) 〃 七章(水) 〃 八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 九章(金) 〃 十章
招詞祈祷 詩編百二五編一~二節 (土) 〃 十一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六 番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日の教義学要綱の学びはお休みです。
交 読 文 詩 編 七九編 ◎二六日(月)牧師夫妻は、筑波福音同志会へ。
讃 美 讃美歌五一二番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌五二〇番 あなたがたが、気力を失い疲れ果てて
説 教 ヘブライ十二章一~三節 しまわないように、御自分に対する罪人たちの
讃 美 聖 歌六〇八番 このような反抗を忍耐された方のことを
祈 祷 松田兄 よく考えなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章三節
信仰の旅路を走り抜くために
1節の「このように雲の(ような)証人に囲まれている」(直訳)は、11章の旧約の信仰者たちを指している。この比喩を、すでに走り終えた彼らが、今走っている私たちを観客として天から見つめて応援している、とイメージしやすい。しかし彼らは見物人ではなく、まさに私たちを「取り囲んで」一緒に走り応援している。彼らも「すべての重荷や絡みつく罪」を経験し、それを「かなぐり捨てて」走り抜いた者だからである。彼らを思う時、私たちはその応援を肌で感じるなら、「忍耐強く走り抜く」助けを得る。
しかし彼らに優るお方がおられる。「信仰の創始者また完成者であるイエス」である。主イエスこそ、信仰の歩みを全うされたお方である。それゆえ神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17章5節)と言われた。主イエスは、私たちの歩むべき信仰の道を拓いてくださった。しかし主イエスは、信仰の道を拓いただけでなく、そのゴールへと導いてくださる完成者でもある。すでに主イエスは、私たちのために救いを成し遂げまた御国を獲得してくださっている。だから私たちはいつも主イエスを凝視し目を離さないならば、道を逸れてしまうことはない。
続けて「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て」と言われる。「喜びを捨て」を口語訳は「喜びのゆえに」と訳す。どちらの訳も可能であり、前者ならば、主イエスは父なる神との交わりにある「喜びを捨てて」十字架の呪いの死を耐えられた意味になる。後者ならば、十字架の苦しみを、その後の復活・高挙・神の右の御座に着く「喜びのゆえに」耐えられた意味になる。告別説教のヨハネ15章11節、16章22節、17章13節には、主イエスが弟子たちに、御自身の喜びを与えられることが約束されている。主イエスは、私たちを救い、私たちが喜びをもって信仰の旅路を続けることができるために、十字架の死を恥とはされなかった。そして今は「神の右に座し」大祭司として執り成しを続けておられる。
私たちの信仰の旅路には、「すべての重荷や絡みつく罪」(2節)だけでなく、私たちを「気力を失い疲れ果てさせる」(3節)ものがある。しかし私たちには信仰の創始者また完成者、そして大祭司なる主イエスがいます。主に目を留め、主の御業を思うなら、私たちは信仰の旅路を走り抜けることができる。
礼 拝 次 第 (日)ヨブ 五章(月) 〃 六章
司会 坂 本兄(火) 〃 七章(水) 〃 八章
奏楽 内 間姉(木) 〃 九章(金) 〃 十章
招詞祈祷 詩編百二五編一~二節 (土) 〃 十一章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六 番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日の教義学要綱の学びはお休みです。
交 読 文 詩 編 七九編 ◎二六日(月)牧師夫妻は、筑波福音同志会へ。
讃 美 讃美歌五一二番 ◎礼拝動画 こちら
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌五二〇番 あなたがたが、気力を失い疲れ果てて
説 教 ヘブライ十二章一~三節 しまわないように、御自分に対する罪人たちの
讃 美 聖 歌六〇八番 このような反抗を忍耐された方のことを
祈 祷 松田兄 よく考えなさい。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヘブライ十二章三節
信仰の旅路を走り抜くために
1節の「このように雲の(ような)証人に囲まれている」(直訳)は、11章の旧約の信仰者たちを指している。この比喩を、すでに走り終えた彼らが、今走っている私たちを観客として天から見つめて応援している、とイメージしやすい。しかし彼らは見物人ではなく、まさに私たちを「取り囲んで」一緒に走り応援している。彼らも「すべての重荷や絡みつく罪」を経験し、それを「かなぐり捨てて」走り抜いた者だからである。彼らを思う時、私たちはその応援を肌で感じるなら、「忍耐強く走り抜く」助けを得る。
しかし彼らに優るお方がおられる。「信仰の創始者また完成者であるイエス」である。主イエスこそ、信仰の歩みを全うされたお方である。それゆえ神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17章5節)と言われた。主イエスは、私たちの歩むべき信仰の道を拓いてくださった。しかし主イエスは、信仰の道を拓いただけでなく、そのゴールへと導いてくださる完成者でもある。すでに主イエスは、私たちのために救いを成し遂げまた御国を獲得してくださっている。だから私たちはいつも主イエスを凝視し目を離さないならば、道を逸れてしまうことはない。
続けて「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て」と言われる。「喜びを捨て」を口語訳は「喜びのゆえに」と訳す。どちらの訳も可能であり、前者ならば、主イエスは父なる神との交わりにある「喜びを捨てて」十字架の呪いの死を耐えられた意味になる。後者ならば、十字架の苦しみを、その後の復活・高挙・神の右の御座に着く「喜びのゆえに」耐えられた意味になる。告別説教のヨハネ15章11節、16章22節、17章13節には、主イエスが弟子たちに、御自身の喜びを与えられることが約束されている。主イエスは、私たちを救い、私たちが喜びをもって信仰の旅路を続けることができるために、十字架の死を恥とはされなかった。そして今は「神の右に座し」大祭司として執り成しを続けておられる。
私たちの信仰の旅路には、「すべての重荷や絡みつく罪」(2節)だけでなく、私たちを「気力を失い疲れ果てさせる」(3節)ものがある。しかし私たちには信仰の創始者また完成者、そして大祭司なる主イエスがいます。主に目を留め、主の御業を思うなら、私たちは信仰の旅路を走り抜けることができる。