稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2018年07月29日 | 週報
二〇一八年七月二九日  NO・四五ー十八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)レビ記   二一章 (月) 〃 二二章
        司会 高 澤兄(火)  〃   二三章(水)  〃 二四章
          奏楽 内 間姉(木)  〃    二五章(金)  〃  二六章
招詞祈祷  イザヤ五七章十五~十六節  (土)  〃    二七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番        ◎二日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り                 ◎「災害救援献金」を募ります。
交 読 文  詩 編 五六編        ◎「天路」の原稿を八月第二主日までにお願いします。     
讃  美  讃美歌二八〇番       
献  金  感謝の祈り      堅田姉 あなたがたの間で知恵ある者、
讃  美  聖 歌四六七番        ものごとを熟知している者は誰か。
説  教  ヤコブ三章十三~十八節    その人は良い振舞いにより、 
讃  美  聖 歌五八九番        知恵の柔和さをもって、
祈  祷            みつ子師 自分の業を示しなさい。(岩波訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ三章十三節
   
上からの知恵に生かされよ
 今日の箇所でヤコブは、「上(天・神)からの知恵」と「下(地上・人間)からの知恵」を比較し、主イエスの救いに与っている私たちキリスト者が、「上からの知恵」に満たされて生きるように勧める。

13節の「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」の問いかけの「知恵」は、「上からの知恵」を指す。その知恵の特徴として第一にあげられているのは「柔和」である。「柔和」という語から、軟弱なイメージを持つかもしれないが、決してそのようなものではない。「柔和」は主イエスの特徴的性質である(マタイ11章29節)。さらにマタイ5章5節で「柔和な人は……地を継ぐ」とある。地を継ぐ者とは、王的・支配的立場である。上からの知恵は、何よりも柔和であるとは、例えば、親が幼児の様々な行動を余裕を持って見守るようなものである。そこにはねたみや争いはない。

それに反して「下からの知恵」の特徴は「ねたみ深く利己的」」(14節)である。ヤコブは「ねたみ」に「にがい」をつけて「にがいねたみ」と言う。「ねたみ」は、身近な人に抱く。その人が尊ばれ自分より良い境遇にあると抱く「にがにがしい思い」である。そこに平和な関係は成立しない。そしてそれは「利己的」である。今私たちがインターネットなどで見る多くの投稿は、「ねたみと利己的」コメントに溢れている。ヤコブは下からの知恵を「地に属し、肉に属し、悪魔に属す」(15節・新改訳)と表す。どんなに科学的進歩を生み出す知恵であっても、この世界の知恵は、人の間の「ねたみと利己心」を取り除くことができない。だからヤコブは「ねたみと利己心のあるところには、混乱とあらゆる悪い行いがある」(16節)と言う。

それに反して上からの知恵は、「純真・温和・優しく・従順」である、と。まさに「柔和である知恵」は、「憐れみと良い実に満ちている」(17節)。そして「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」(18節)。私たちは主イエスの柔和なる知恵によって憐れみを受けた。だから私たちも上からの知恵を頂いて、「ねたみと利己心」から解放され、平和を希求して歩みたい。
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2018年07月22日 | 週報
 二〇一八年七月二二日  NO・四五ー十七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)レビ記   十四章 (月) 〃 十五章
         司会 みつ子師(火)  〃   十六章(水)  〃 十七章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    十八章(金)  〃  十九章
招詞祈祷  イザヤ五十章四節  (土)  〃    二十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条       ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番    ◎二六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り             ◎「災害救援献金」を募ります。
交 読 文  詩 編 五五編     ◎「天路」の原稿を八月第二主日までにお願いします。     
讃  美  讃美歌二七七番     ◎「夏のお楽しみ会」は、四名の子どもが集いました。
献  金  感謝の祈り      高澤姉
讃  美  聖 歌四六七番        舌は、疲れを知らない悪で、
説  教  ヤコブ三章一~十二節     死をもたらす毒に満ちています。 
讃  美  聖 歌七一六番        同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。
祈  祷             志村姉 このようなことがあってはなりません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ三章八・十節
   
舌の性質・働き
 今日の箇所は、「舌」について語られている。私たちはヤコブのこの言葉を通して、「舌」についての認識を新たにしなければならない。それは私たちが思う以上に恐ろしいものである。

 ヤコブは舌について以下のように言う。舌は、言葉を発するための小さな器官であるが、「大言壮語する」(5節)。「舌は火」、それは小さな火が大きな森を燃やすように、広がって多くのものを損なう。さらに舌は「不義の世界」「全身を汚す」「人生の車輪(新改訳)を焼く」「自らも地獄の火によって焼かれる」(6節)。さらに「疲れを知らない悪」「死をもたらす毒に満ちている」(8節)と。「舌について、これ以上に強力に、辛辣に、激烈に語りうるであろうか。」(トゥルナイゼン)と言わざるを得ない。このような舌の性質を、私たちはどれほど意識しているだろうか。舌を通して発せられる言葉は、弓矢や拳銃よりも強力で暴力的である。つまり千里を超えることができ、一度に大量の人を傷つけることができる。そして自分自身の人生を台無しにし、「全身を汚す」。

 以上のように舌の性質について述べたヤコブは、さらに「わたしたちは皆、度々過ちを犯す。」(2節)と自分自身を含めて言う。さらに「舌を制御できる人は一人もいません」(8節)と。舌は、私たちの心の中にあるものを暴露する。私たちは自分の語る言葉によって、自分の心の中にあるものを聞く人に見せている。語られる内容が自分自身そのものである! 私たちは自分の舌が日々語る言葉を通して、自分がどんなに傲慢であり、無慈悲であり、罪深い者であるかを披歴している。

 最後に(9~12節)ヤコブは、自然界を例に出して、以上述べてきた舌の性質、働きが、神が創造された自然界の原理といかにかけ離れているかを示す。自然界で起こりえないことが、人間界で行われている、と。「同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(10節)と。自己中心にしか動くことのなかった私たちの舌は、キリスト者とされて、「神を讃美する」舌とされた。主イエスの恵みに与り、神を讃美する者として舌を動かす者となろう!
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2018年07月15日 | 週報
 二〇一八年七月十五日  NO・四五ー十六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)レビ記     七章 (月) 〃  八章
         司会 高 澤兄(火)  〃    九章(水)  〃  十章
        奏楽 内 間姉(木)  〃    十一章(金)  〃  十二章
招詞祈祷  イザヤ五八章九~十一節   (土)  〃    十三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条         ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六 番      ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り               ◎二一日(土)C・S・の夏のお楽しみ会 。
交 読 文  詩 編 五四編      ◎本日午後一時よりボンヘッファーの学び。     
讃  美  讃美歌二七        ◎本日午後責任役員会。
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌四六七番       
説  教  ヤコブ二章十四~二六節    アブラハムの信仰がその行いと共に働き、 
讃  美  聖 歌三二一番        信仰が行いよって完成されたことが、
祈  祷            みつ子師 これで分るでしょう。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ二章二二節
   
「信仰と行い」は対立するのか
 今日の箇所は、ヤコブの手紙の中心的主題のひとつである。しかしその内容について物議を呼んだ。それはパウロが力説した「信仰による義」と反対のことを言っているように受け取られたから。例えば「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(24節)など。

 キリスト教会が宣教する福音は、主イエスの御業(受肉・十字架・復活・昇天)である。主イエスの御業によって私たちは罪と死から救われたのであって、私たちのどんな業(行い)も私たちを罪と死から解放しない。その意味でパウロの「律法の行いによらず主イエスへの信仰による義」の宣言こそキリストの福音のすべてのすべてである。アルファでありオメガである。

 では、ヤコブは、それに反対しているか?ヤコブは1章3・6節、2章1・5節で信仰について触れており、決して信仰を軽視しているのではない。ではなぜ、「信仰と行い」を比較させているのか。当時、行いを軽視し信仰のみを強調する者たちがいたと思われる。ここはそれに対する反論である。

 私たちは信仰と行いとどちらが大事か、と信仰と行いを対立的に見るのは間違いである。ヤコブは2章1節で「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、分け隔てしてはなりません」言っている。これによって主イエスを信じた者は、当然分け隔てなどしない、ということが言われている。すなわち信仰から生じる行いである。ここでは主イエスの救いに与った者には、それにふさわしい行いが伴うことが、強調されているのである。アブラハムによる例証の中で「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」(22節)と言われているとおりである。その意味で信仰が先で、それに行いが伴うのである。パウロも決して行いを軽視していない(エフェソ2章10節)。さらにパウロは聖霊の結ぶ実について語っている。さらにヤコブの手紙を「藁の手紙」と呼んだルターも、「ああ、本当の信仰とは生き生きとして、なんと力強いことか。そのような信仰に少しの間でも良い行いが欠けることはあり得ない。」と述べている。「信仰と行い」は車の両輪である。
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2018年07月08日 | 週報
 二〇一八年七月八日   NO・四五ー十五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)出エジプト  四十章 (月)レビ記  一章
        司会 みつ子師(火)  〃    二章(水)  〃  三章
        奏楽 内 間姉(木)  〃     四章(金)  〃   五章
招詞祈祷  申命記十章十七・十八節   (土)  〃     六章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条       ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三 番     ◎十二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り              ◎次週はボンヘッファーの学び。
交 読 文  詩 編 五三編             予告
讃  美  讃美歌二七三B番    ◎二一日(土)C・S・の夏のお楽しみ会 。
献  金  感謝の祈り      豊口姉  私の兄弟たちよ、
讃  美  聖 歌四六七番        あなたがたは人を偏り見ながら、
説  教  ヤコブ二章一~十三節    私たちの主、栄光のイエス・キリストへの
讃  美  聖 歌二一七番     信仰を持っているというようなことがないように。
祈  祷             高澤兄 憐れみはさばきに打ち勝つのである。(岩波訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ二章一・十三節
   
   キリスト教会に差別はあるべきではない
 今日の箇所は、「えこひいき(1・9節)、差別(4節)」の事柄が取り上げられている。えこひいきと差別は、厳密には同じではないが。これは、キリスト信仰の根幹に関わることとヤコブは捉えている。

 先ず1節で「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(新改訳)と言われる。「えこひいき・差別」は、私たち人間の本性のようなもので、身に沁み込んでいる。しかし、神は、主イエスは、富や地位・身分また性格の良し悪しで、人をえこひいきも差別もなさらない。敵対者ですら、主イエスに「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず……。」(マルコ12章15節)と言った。主イエスは、当時、人々から軽蔑されていた人たちと食事をし、またサマリアの女性と言葉を交わし救いを告げられた。私たちキリスト者は、このようなお方を救い主と仰いでいるのだから、差別を私たちの中から一掃すべきである。エフェソ6章9節。

 奴隷制度があった時代の初代教会は、教会の中では、その階級の差別は解消されていたはずである。しかし、その中でも、ここでヤコブが取り上げているような問題が起こることがあった。法律上は、人権、平等の時代に生きている私たちであるが、現実は昔と変わらず、差別が蔓延している。ここに、人間のエゴと罪の本性が顕著に現れている。私たちは、主イエスの福音に与ることなくして、これから自由になることはできない。しかしキリストの教会は、この点において、人を分け隔てしないことを実践を通して証ししないなら、「キリストの」名前を冠していることを恥じなければならない。

 神が主イエスを通して、私たち人間に示された愛は、罪人を命を懸けて救う(尊ぶ)ことであった。それゆえヤコブは「憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)と結論する。神に敵対する罪人である私たちを愛し尊んで、神は神の子としてくださった。だから、私たちキリスト者は、すべての人に対してえこひいきや差別することなく接しようではないか。「キリスト者」の名に恥じないように。
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2018年07月01日 | 週報
 二〇一八年七月一日   NO・四五ー十四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)出エジプト  三三章 (月) 〃 三四章
        司会 高 澤兄(火)  〃   三五章(水)  〃 三六章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    三七章(金)  〃  三八章
招詞祈祷  詩編百十九編百五節     (土)  〃    三九章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条        ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 一 番     ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り              ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 五二編     ◎午後、C・S・の教師会を行います。
讃  美  讃美歌二七二番      
献  金  感謝の祈り      平林姉 しかし、自由をもたらす完全な律法を
讃  美  聖 歌四六七番       一心に見つめ、これを守る人は、
説  教  ヤコブ一章二二~二七節 聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。
聖 餐 式                 このような人は、
讃美祈祷  聖 歌一九六番    坂本兄 その行いによって幸せになります。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ヤコブ一章二五節
   
御言葉と私たちの関わり
 22節以下は、19節の「聞くのに早く、話すのに遅く」をさらに敷衍していると言えるが、18・20節でも語られた御言葉について、さらに御言葉と私たちとの関係について語られる。

 23・24節で御言葉が「鏡」にたとえられる。鏡を通して、私たちはその時の自分の姿(状態)を確認できる。同様に御言葉は、私たちの真の姿を示し、さらにいかにすべきかを悟らせてくれる。私たちは、鏡の前を離れると、鏡で見ている時のように鮮明に自分を見ることはできない。御言葉を聞いて行わない人はちょうど鏡の前を離れた人のようだ、とヤコブは言う。

 25節の「自由をもたらす完全な律法」という言いまわしは、ヤコブの御言葉に対する賛辞である!聖書の言葉、特に新約の福音は、「完全」である。すなわち人間を真に救うことができ、さらに御言葉は私たちに真の自由をもたらす、と。それゆえヤコブは、私たちが御言葉を「一心に見つめ」そこに「とどまる」ように促す。つまり私たちは鏡の前を離れるように、御言葉から離れてはならないのだ、と。まさに「あなたの御言葉は、私の道の光」(詩編119編105節)なのである。私たちが御言葉に全き信頼を寄せ、たとえ自分の理解を超えていても、マリアのように「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と言って御言葉に委ねるなら、御言葉は必ず成就し自由を与え、私たちを幸せにする。

 26・27節で「信心深い」「信心」と訳されている語は、同じ語であるが、その元々の意味は「礼拝」することである。つまり神を敬う信仰者として、神に仕える(神奉仕)ことを指す。しかし「御言葉を聞くだけで行わない者」(23節)また「舌を制することができない者」(26節)は、信心深い者であると思い込んでいるだけであり「自分を欺いている」とヤコブは指摘し、その信心は「空しい」と言う。

 27節で、真の信仰者とは、神がそうであるように(詩編68編6節)①困窮にある者を助け、②「世の汚れに染まらない」者である。「御言葉を行う」とは、自分の努力で必死に行うことではない。「自由をもたらす完全な」御言葉に自分を委ね、それに固着して離れないことである。21節参照。
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