稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2016年01月31日 | 週報
二〇一六年一月三一日  NO・四二―四四      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)歴代誌下   二二章(月)  〃  二三章
        司会 高 澤兄(火)  〃    二四章(水)  〃 二五章
        奏楽 慰 子姉(木)  〃    二六章(金)  〃 二七章
招詞祈祷  マラキ三章十九~二十節   (土)  〃     二八章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番        ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日午後、教会学校の教師会があります。     
交 読 文  詩 編九十八編       
讃  美  讃美歌一八七番            
献  金  感謝の祈り      豊口姉  
讃  美  聖 歌五二〇番     
説  教   マタイ六章十節        御国が来ますように。
讃  美  聖 歌六二二番        
祈  祷              坂本兄    あなたの御国が来ますように。(直訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                     マタイ六章九節
                 
   主の祈り③―あなたの御国が来ますように
 第二の祈りは「あなたの御国が来ますように。」である―すなわち「神の国」が―。

「御国」と訳されている語は「場所的」意味では「国」あるが、同時に「支配・統治」の意味を持つ。
 場所的意味では「わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ十八章三六節)と言われているように、この世界のどこにも神の国はない。それゆえこの世界に「キリスト教国」などない。この世界に神の国を打ち建てようとする考えは、この祈りに対する間違った応答である。なぜならそれは人間がもたらすのではなく、「来る」ものだからである。

 しかし「支配・統治」の意味で言えば、神の国は、主イエスの出現によって、すでに来た)と言える。主イエスの教えといやしの業は、神の支配の先取りである。主イエスが「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われ、またパウロも「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」と言っている通りである。

 「来ますように」という言葉は重要である。それは時間(クロノス)の延長の先つまり未来のある時間に、神の国が現れるというよりも、神の国は、ある時(カイロス)突然、この世界に来るのである。私たちは聖書の最後の書物であるヨハネの黙示録の最後の箇所に「以上を証しする方が言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来て下さい。」という言葉を聞く。ここから私たちは神の国の到来と主イエスの再臨の密接な関係を見逃してはならない。主イエスがもう一度来られる時、神の国は完全な形で来るのである。

 この祈りを真剣に祈る者は、決して傍観者であったり、この世界から逃避することはできない。世界がどんなに悲惨な状況にあろうとも、御国がかならず到来して、死も悲しみも嘆きもない新たな平和な世界を主イエスがもたらすことを信じ宣べ伝えていかなければならない。ローマ十四章十七節。
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2016年01月24日 | 週報
二〇一六年一月二四日  NO・四二―四三      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)歴代誌下   十五章(月)  〃  十六章
       司会 高 澤兄(火)  〃    十七章(水)  〃 十八章
       奏楽 慰 子姉(木)  〃    十九章(金)  〃 二十章
招詞祈祷  エゼキエル三六章二二~二四節(土)  〃     二一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番        ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日、午後一時より「祈りのこころ」の読書会。     
交 読 文  詩 編九十七編        ◎本日、責任役員会です。
讃  美  讃美歌一八一番        ◎二五日(月)十時半より当教会にて牧師の集まりの    
献  金  感謝の祈り      志村姉  筑波福音同志会がひらかれます。
讃  美  聖 歌五二〇番     
説  教   マタイ六章九節         御名が崇められますように。
讃  美  聖 歌四七九番        
祈  祷             みつ子師    あなたの御名が聖とされますように。(直訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                     マタイ六章九節
                 
   主の祈り②―あなたの御名が聖とされますように
 第一の祈りは「御名が崇められますように」(新共同訳)―直訳「あなたの御名が聖とされますように」である。この祈りを最初に置かれている事実は、それが主イエスにとって最優先事項だからである。

 新共同訳並びに口語・新改訳が「あがめられますように」と訳している語は、「聖別する」が原意である。つまり神は、私たち人間及び他の被造物と「区別される」。神は万物の創造主であり、私たちは被造物である。そこに絶対的な違い・区別がある。だから「聖とされますように」とは、私たち被造物と区別されて、神がその本質にふさわしい尊敬、敬いを受けるようにということである。別の言葉で言えば「神に栄光が帰せられる」ということである。主イエスによって、神を父と仰ぐ者とされたキリスト者の最大の関心事、最優先事項は、私たちの個々の必要以上に、父なる神がその御名にふさわしく聖とされ崇められることでなければならないことをこの祈りから教えられる。

 「あなたの御名」という言い方がされている。私たちは皆、固有名詞としての名前を持っている。「名は体を表す」と言われるが、しかし神はひとつの呼び名で表わすことはできない。つまり「全能の神、創造主、愛の神」などは神の属性の一つであって、それだけで神のすべてを表わすのには不十分である。それゆえ「あなたの御名」という言葉で、神そのものが表現されているのである。

 では、「誰が」「御名を聖とする」か?原文は「御名「が」聖とされますように(受動態)」となっており、「御名(を)」ではない。つまり私たちによってあなたの御名が聖とされ、崇められるように、と言われていない。この世界は、真の神を知らない。私たちのキリスト者の歩みもまた、神の栄光を帰すとは程遠い。つまり現実は、御名が汚されている、聖とされていないのである。それゆえ主イエスは、万物が、神を御名にふさわしく聖とし、崇めることが実現してくださるように第一に祈りなさい、と言われるのである。人間が人間である事、その本分は、私たちを存在させて下さった神を神としてふさわしく崇めることである。これこそ主イエスの救いに与る者の最優先の祈りである。
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2016年01月17日 | 週報
二〇一六年一月十七日  NO・四二―四二      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)歴代誌下    八章(月)  〃   九章
       司会 みつ子師(火)  〃     十章(水)  〃 十一章
        奏楽 慰 子姉(木)  〃    十二章(金)  〃 十三章
招詞祈祷  詩編五十編十四~十五節   (土)  〃     十四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十 番        ◎二一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎次週は「祈りのこころ」(P・T・ フォーサイス)の     
交 読 文  詩 編九十六編           読書会です。
讃  美  讃美歌一七四番            
献  金  感謝の祈り      堅田姉  
讃  美  聖 歌五二〇番     
説  教   マタイ六章五~八節      
讃  美  聖 歌五九七番          だから、こう祈りなさい。         
祈  祷              高澤兄    天におられるわたしたちの父よ、
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                     マタイ六章九節
                 
   主の祈り―天にいます私たちの父よ!
 「だから、あなたがたはこう祈りなさい」という言葉が添えられて「主の祈り」は始まる。「こう祈りなさい」とは命令形である。このことは、主イエスが「こう祈れ」と言われるから祈る事ができることを意味する。つまり、自分の気分や感情に左右されず、「このように祈るべき」なのである。

 「主の祈り」は「福音全体の要約」(テルトリアヌス)とさえ言われる。さらに冒頭の「天にいます私たちの父よ」の言葉は「福音全体の要約の要約」と言えるほど重要である。この言葉を十全の意味で理解し、心から発することができたら―以下の個別の祈りはここに含まれる―。

 キリスト者の祈りと他の祈りの決定的違いは、私たちが「キリストの御名によって」祈るところにある。主イエスは「わたしの名によって祈るように言われた(ヨハネ十六章二三・二四節)。それは私たちの祈りが、私の祈りである以上に主イエスご自身の祈りとなることを意味する。

 冒頭の言葉は「父よ!」で始まる。主イエスは御自身が祈る時、「神よ」ではなく、「父よ」と言われた。私たちにとって、神が「父」であるとは自明ではない。主イエスにとって「父」は信頼に満ちた親密な関係である。「私たち」と言う言葉は、私たちが主イエスに連なることによって発することができる言葉である。私たちが主イエスのゆえに、神に向かって「父よ」と呼びかけ叫ぶことができるなら、私たちのすべての祈りはすでに満たされ聞かれたと言っても過言ではないだろう。

 しかしそこに「天にいます」という言葉が添えられている。主イエスにあって、神は最も近しい「父」であるが、同時にその父は「天にいます」お方であることを忘れてはならない。「天」とは、ある領域を指す言葉と言うより、地にある人間を超越したお方であることを示すものである。つまり人間が作りだす神ではなく、人間を超えた全知全能の神、万物の上にいます創造主なるお方である。

 主イエスは主の祈りの冒頭で、私たちに聖書が告げる神を「父よ!」と親しみと信頼をもって呼ぶことができる、許されていると告げる。さあ今日も神の前に出て「父よ!」と御名を呼ぼうではないか。
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2016年01月10日 | 週報
二〇一六年一月十日   NO・四二―四一      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)歴代誌下    一章(月)  〃   二章
        司会 高 澤兄(火)  〃     三章(水)  〃 四章
        奏楽 慰 子姉(木)  〃     五章(金)  〃  六章
招詞祈祷  イザヤ六五章一~二節    (土)  〃      七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条            ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番         ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                       予  告
交 読 文  詩 編九十五編         ◎今年の学び会は、P・T・フォーサイスの「祈りの
讃  美  讃美歌一七一番         こころ」を読みます。    
献  金  感謝の祈り      高澤姉  ◎今月の学びは、二四日(第四主日)です。  
讃  美  聖 歌五二〇番          あなたがたが祈るときは、
説  教   マタイ六章五~八節      異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
讃  美  聖 歌二五三番          言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。         
祈  祷              平林姉     あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要を
頌栄祝祷  聖 歌三八三番          ご存じである。   マタイ六章七~八節
                 
   キリスト者の祈り―祈りの前提
 今日の箇所で、主イエスは、私たちが祈る時に気をつけなければならないこと、すなわち祈りの前提について教えておられる。

 一つは、他人に見せる祈りをするな、ということである。これは一見奇妙な勧告のように見えるが、例えば、日本的な所では、滝に打たれて祈るとか、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経を何万回、何時間も唱えることによって、信心深さが他人に知られる等々である。キリスト者も、偉大な先達たちが何時間も祈ったということを知らされると、自分も長い時間祈ってそれにあやかりたいと思う。するとそこに本末転倒が起こり、長く祈る事が「目的」となり、どれだけ祈りに時間を割いたかがその人の信仰のバロメーターになる、という勘違いである。祈りはどこまでも「神に」対して捧げられるものであることを片時も忘れてはならない。他人に信仰深いと思われるためや自己満足のためのものではない。祈りにおいても偽善が忍び込む。

 二つ目は、「言葉数多く、くどくど祈るな」と言われる。多くの人は、長い時間祈る、何万回も唱える、その熱心さの度合いが聞き届けに影響すると考えやすい。しかし主イエスは、そのことをきっぱりと否定される。なぜなら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要なものをご存じ」だからである。では、祈る必要もないのではないか、という疑問が起こるかもしれない。確かに神は、私たちが祈らなくても私たちの必要をご存じであり、私たちに最も良いものを備えて下さるお方である。しかし祈る事は、私たちの「ために」必要なのである。そのような父なる神がおられることを私たちが想起するためである。父(なる神)は、私たちを最も愛しておられ、私たちがどんな者であっても決して見捨てられないと言う全幅の信頼を寄せることができるお方である。他人には決して打ち明けられないようなこともすべて赤裸々に話す事ができるお方である。それゆえキリスト者にとって祈りは、願いを聞き届けてもらうためと言うよりも、父なるお方との親しい愛の交わりの時間なのである。
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聖句カレンダー

2016年01月08日 | 所感
 遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げます。

 新しい年を迎えると、かならずカレンダーをその年のものに変えます。
しかし日めくりカレンダーは、毎月使うことができます。
 我が家では、もう長年、2日綴りの日めくり聖句カレンダーをトイレの壁に掛けてある。大をする時に日にちが違っていればその日に合わせてめくり、それをいつも眺めて読む。毎月毎月、同じ御言葉だが、読むたびに励まされる。本当に短いひと時であるが、御言葉に触れる絶好の機会である。
どうぞ、皆さん、試してみてください。

 今年は、祈りについて成長するために、先ず「主の祈り」を礼拝で取り上げます。
「祈り」はどの宗教にも必然的にあるものですが、キリスト教の祈りとはどのようなものかを確認したいと思います。
「祈り」は信仰生活の土台のようなものですが、それにもかかわらず、私(たち)の祈りはとても貧しいものであることを痛感しています。主イエス・キリストが教え示して下さった祈り(のあり方)は、「独自」のものだと思います。主イエスのように祈れたら、とまではいいませんが、主イエスが与えて下さった特別な賜物として祈りを少しでも豊かに用いる生活になりたいと心から願っています。
 
 毎月一回続けているある本を教材にした学びも、今年は祈りについて古典的名著として有名なP.T.フォーサイスの「祈りのこころ(精神)」を読んでいく予定です。

 週報以外に、もっとブログを更新したいと願っていますが、なかなか実行が伴いません。気負わず、日常感じた些細なことでも載せられたらと願っています。
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