二〇二四年三月二四日 NO・五十―五二 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 棕櫚の主日 (日)ル カ 十三章 (月) 〃 十四章
司会 松 田兄(火) 〃 十五章 (水) 〃 十六章
奏楽 みつ子師(木) 〃 十七章 (金) 〃 十八章
招詞祈祷 イザヤ五三章三~五節 (土) 〃 十九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二六一番 ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より信徒総会です。
交 読 文 詩 編百二九編 ◎今週は受難週です。
讃 美 聖 歌三九六番 ◎来週はイースター礼拝です。
献 金 感謝の祈り 豊口姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌四〇三番
説 教 マルコ十五章二九~三二節
讃 美 讃美歌一二一番 代わる代わるイエスを侮辱して言った。
祈 祷 志村姉 「他人は救ったのに、自分は救えない。」
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マルコ十五章三一節
なぜ主イエスは十字架にかかられたのか
主イエスは、十字架の苦しみを受けただけでなく兵士や通行人、律法学者たち、さらに同じく十字架にかけられた者たちからも侮辱され罵られた。それらの言葉の中の「他人は救ったのに、自分は救えない」(31節)の言葉は、発した人の思いを超えて、「主イエスによる福音」の意味をよく表している。
福音書は主イエスの伝記ではない。あくまでも主イエスによる福音を記したものである。その証拠に、マタイとルカの誕生の記事と、ルカのみにあるイエスの十二歳の宮詣の記事以外は、すべて公生涯と呼ばれるわずか3年足らずの出来事だけを記している。それも最後の一週間に、多くの紙面が割かれている。これは主イエスの生涯の目的、中心が、このためであることを示している。
なぜ主イエスは「十字架から降りて自分を救ってみろ」(29節)という言葉を退けられたのか。その理由は神の御子が「人となられた」という秘義の中にある。そしてこの嘲笑の言葉は、すでに公生涯の最初にサタンから受けた「荒野の誘惑」において克服し確認された事柄であった。四十日の断食の後、サタンによって、飢え死にを防ぐために石をパンに変えるよう言われた時、それを退けられた。主イエスは自分のために神の力を行使することを拒否された。さらに「神の子なら、飛び降りて見ろ」いう言葉も退けられた。決してイエスは、自分が神の子であることを証明するために人となられたのでも、この世に来られたのでもない。もし人々が言うように十字架から降りたなら、彼らは主イエスを神の子メシアと認めたかもしれない。しかしそれでは人の罪は贖われることはできないのである! 主イエスはどこまでも人として、すべての人の罪を担い、その罰を、神の裁きを、怒りの杯を飲み干さなければならなかった。それ以外に人間を救う道はなかったのである。たとえ神の全能の力でもそれは不可能であった。十字架は、神の義と愛の現れである! まさに「自分を救えない」ところに、主イエスの十字架の目的と意味がある。神の子イエスは、まことの人として死に給うた。神はまことの人間となられるほどに人間を愛し、罪人を愛し給う。マルコ十一章十九節。そして十字架の悲惨な敗北と見える死を見て、百人隊長のように「まことに、この人は神の子であった」(39節)と告白するのが聖書の信仰である。
礼 拝 次 第 棕櫚の主日 (日)ル カ 十三章 (月) 〃 十四章
司会 松 田兄(火) 〃 十五章 (水) 〃 十六章
奏楽 みつ子師(木) 〃 十七章 (金) 〃 十八章
招詞祈祷 イザヤ五三章三~五節 (土) 〃 十九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌二六一番 ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後一時より信徒総会です。
交 読 文 詩 編百二九編 ◎今週は受難週です。
讃 美 聖 歌三九六番 ◎来週はイースター礼拝です。
献 金 感謝の祈り 豊口姉 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 聖 歌四〇三番
説 教 マルコ十五章二九~三二節
讃 美 讃美歌一二一番 代わる代わるイエスを侮辱して言った。
祈 祷 志村姉 「他人は救ったのに、自分は救えない。」
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 マルコ十五章三一節
なぜ主イエスは十字架にかかられたのか
主イエスは、十字架の苦しみを受けただけでなく兵士や通行人、律法学者たち、さらに同じく十字架にかけられた者たちからも侮辱され罵られた。それらの言葉の中の「他人は救ったのに、自分は救えない」(31節)の言葉は、発した人の思いを超えて、「主イエスによる福音」の意味をよく表している。
福音書は主イエスの伝記ではない。あくまでも主イエスによる福音を記したものである。その証拠に、マタイとルカの誕生の記事と、ルカのみにあるイエスの十二歳の宮詣の記事以外は、すべて公生涯と呼ばれるわずか3年足らずの出来事だけを記している。それも最後の一週間に、多くの紙面が割かれている。これは主イエスの生涯の目的、中心が、このためであることを示している。
なぜ主イエスは「十字架から降りて自分を救ってみろ」(29節)という言葉を退けられたのか。その理由は神の御子が「人となられた」という秘義の中にある。そしてこの嘲笑の言葉は、すでに公生涯の最初にサタンから受けた「荒野の誘惑」において克服し確認された事柄であった。四十日の断食の後、サタンによって、飢え死にを防ぐために石をパンに変えるよう言われた時、それを退けられた。主イエスは自分のために神の力を行使することを拒否された。さらに「神の子なら、飛び降りて見ろ」いう言葉も退けられた。決してイエスは、自分が神の子であることを証明するために人となられたのでも、この世に来られたのでもない。もし人々が言うように十字架から降りたなら、彼らは主イエスを神の子メシアと認めたかもしれない。しかしそれでは人の罪は贖われることはできないのである! 主イエスはどこまでも人として、すべての人の罪を担い、その罰を、神の裁きを、怒りの杯を飲み干さなければならなかった。それ以外に人間を救う道はなかったのである。たとえ神の全能の力でもそれは不可能であった。十字架は、神の義と愛の現れである! まさに「自分を救えない」ところに、主イエスの十字架の目的と意味がある。神の子イエスは、まことの人として死に給うた。神はまことの人間となられるほどに人間を愛し、罪人を愛し給う。マルコ十一章十九節。そして十字架の悲惨な敗北と見える死を見て、百人隊長のように「まことに、この人は神の子であった」(39節)と告白するのが聖書の信仰である。