稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2020年10月25日 | 週報
二〇二〇年十月二五日  NO・四七―二九      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第          (日)マタイ    一章(月)  〃    二章
          司会 坂 本兄(火)  〃     三章(水)  〃  四章 
           奏楽 堅 田姉(木)  〃   五章(金)  〃    六章 
招詞祈祷  エレミヤ三一章二三~二五節 (土)  〃   七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六七番        ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎次週は「召天者記念礼拝」です。
交 読 文  詩 編百三九編  ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌二五七番        
献  金  感謝の祈り     みつ子師 彼は(イエス)……両手を彼に当てて、彼に尋ねた。 
讃  美  聖 歌四五〇番       「何か見えるか?」すると彼は見上げて言った。
説  教  マルコ八章二二~二六節     「人々が見えます。木のように見えます。……」
讃  美  聖 歌四八五番        彼はもう一度、その人の両眼に両手を当てた。
祈  祷             高澤兄 その人は一心にみつめた。……見えるようになった。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番            マルコ八章二三~二五節 (柳田友信訳)

   何か見えるか
 マルコはいやしの奇跡を多く記しているが、この箇所の「盲人のいやし」は、異例である。他の奇跡の場合、それを見た人々の「驚きや賞賛」が示され、それが広まったと記されている。しかしここにはそれらが全く記されていない。さらに多くは、主イエスの言葉・命令で一瞬にいやされるのに、ここと「耳の聞こえない人のいやし」(7章31節以下)は、丁寧に触っていやされている。さらに唯一ここは、一回の行為で全快しないで、二回も触られている。まさに主イエスの奇跡の中でも特異である。

 多くの解釈者は、この奇跡が置かれている位置に注目する。この奇跡の前(14~21節)は、弟子たちの無理解が指摘され、後(27~30節)は、ペトロの信仰告白が記されている。ペトロの信仰告白は、言葉上は正しいが、真のメシアの意味(受難のメシア)をまだ理解していない。さらに7章24節~10章までを大きなくくりと見ると、10章の最後の「盲人バルティマイのいやし」の所で、主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられ、バルティマイは「目が見えるようになりたいのです」と答えている。これがこの文脈の結論で、主イエスが誰か、どのようなメシアかが「見えるようになる」ことが主題であることになる。そしてここの盲人のいやしが二段階でなされたことを、弟子たちが主イエスを真に知るようになるためには、段階を踏むことが暗示されている、と言うのである。

 この盲人は、私たちを指している。生まれながらの人間は、主イエスが誰であるかを知らないという点で盲人である。そのような私たちに、主イエスの方から触れてくださることによって、見えるようになる。今日の個所の盲人の動作は細やかに表現されている。最初に触れられた時、盲人は「見上げて」言った、と。ぼんやりではあるが、初めて見えたとき、顔を上げたのである。私たちも神の愛を知った時に顔を上げて歩むことができるようになる。次に触れられると、盲人は「目を見開いて見る」と表現されている。柳田先生は「一心にみつめた」と訳している。すると今度ははっきり見えたのである。私たちの信仰には段階があり成長がある。今もなお主イエスは、私たちに「何か見えるか」「何をしてほしいか」と声をかけておられる。そして私たちの「見えるようになりたいのです」との願いに、主イエスは答え給う!
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週報

2020年10月18日 | 週報
 二〇二〇年十月十八日  NO・四七―二八      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)ゼカリヤ  十一章(月)  〃   十二章
        司会 高 澤兄(火)  〃    十三章(水)  〃 十四章 
        奏楽 堅 田姉(木)マラキ    一章(金)  〃     二章 
招詞祈祷  エレミヤ五章二三~二五節  (土)  〃   三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六六番        ◎二二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より「聖書入門」の学びです。
交 読 文  詩 編百三八編        ◎本日、責任役員会。
讃  美  讃美歌二四七番 ◎礼拝動画 こちら     
献  金  感謝の祈り      高澤姉  
讃  美  聖 歌四五〇番         どうして、今の時代の者たちは
説  教  マルコ八章一~二一節       しるしを欲しがるのだろう。
讃  美  聖 歌五三九番        はっきり言っておく。今の時代には、
祈  祷             志村姉 決してしるしは与えられない。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               マルコ八章十二節

   信仰はしるしを求めない
 1~9節は「四千人の給食」である。6章34節以下に「五千人の給食」がある。違いは、五千人の方は、ガリラヤで、四千人の方は、異邦のデカポリス地方でなされた。これはユダヤ人だけでなく、異邦人にも等しく神の国の救い(祝宴)が与えられることを示している。さらに6節の「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」は、Ⅰコリント11章24節の聖餐についての言葉と全く同じてある。この給食は、聖餐を暗示していると理解できる。つまり神の国の救い(祝宴)は、最終的には、聖餐が指し示す主イエスの十字架の犠牲によって達成されるのである。このように給食の奇跡を十字架の光から見ることがなされている。

 11~13節は、ファリサイ派の人々が、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」た。それに対する主イエスの反応は「「深い嘆き」をもって12節で、きっぱりとその求めを拒否された。彼らの「天からのしるし」とは、単に奇跡を求めたのではなく、メシアであることを証明するような事柄である。例えばヨルダン川の水を分けるとか、城壁を崩壊させるとか、である。

 主イエスは、奇跡を自分がメシアであることを証明するためになさったのではない。どこまでも愛の現れであった。彼らは「試そうとした」と言われているが、「試す、試験する」所からは、信仰も愛も生まれない。もし愛を何かで試そうとするならば、また愛のしるしを求めるところには、もはや愛ではない。主イエスか救い主であることのしるしは、空前絶後の奇跡の業によってではなく、すべての人のための身代わりとして十字架の愛の犠牲にある。このことを信じた者には、奇跡的な出来事を経験しなくても、日常の些細な事柄の中にさえ神の愛とキリストの恵みを覚えて感謝することができるのである。

 14~21節は、1~13節と関連した出来事である。パン種は、ファリサイ派のしるしを求める態度を指している。主イエスは、弟子たちにそれに気をつけるように、と戒められた。私たちは過去に多くの恵みを頂いていても、苦しみや悩み、また怠惰や無気力の中にあると、愛・恵みのしるしを求めやすい。それはパン種のように私たちの心に膨らむ。ここで弟子たちの無理解が浮き彫りにされているが、主イエスの間近にいても、十字架と復活の光を通さなければ、真の主イエスは分からないことを示している。

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週報

2020年10月11日 | 週報
二〇二〇年十月十一日  NO・四七―二七      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)ゼカリヤ   四章(月)  〃    五章
        司会 みつ子師(火)  〃     六章(水)  〃 七章 
        奏楽 堅 田姉(木)  〃     八章(金)  〃    九章 
招詞祈祷  詩編五一編十二~十四節   (土)  〃   十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六二番        ◎十五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎次週は「聖書入門」の学びです。
交 読 文  詩 編百三七編  ◎礼拝動画 こちら  
讃  美  讃美歌二四四番        
献  金  感謝の祈り      志村姉    天を仰いで、深く息をつき、 
讃  美  聖 歌四五〇番       その人に向かって、「エッファタ」と言われた。
説  教  マルコ七章三一~三七節     これは、「開け」という意味である。
聖 餐 式                 人々はすっかり驚いて言った。
讃美祈祷  聖 歌四三四番    坂本兄 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               マルコ七章三四・三七節

   エッファタの声が聞こえるか
 31節は、主イエスがティルス地方から北上してシドンに行き、そこから円を描くように東に向かい南下してデカポリス地方に行かれたと記している。これは大旅行であり、ある人によれば八か月かかる。

 そこに「耳が聞こえず、舌の回らない人」が連れてこられた。「舌が回らない」とは、全く話せないのではなく、耳が聞こえないのでうまく話せない、また舌がもつれている状態を指す。

 連れて来た人々は、「その上に手を置いてくださるように願った」が、主イエスはそれ以上のことをされた。まず指を両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触られた。これまで主イエスは一言でいやしたり、触ったりされたが、それは簡単なものであった。しかしここでは非常に手が込んでいる。その理由は、耳が聞こえないので、言葉をかけても本人にはわからないので、その人にわかるようにされた愛の配慮と見ることもできる。主の人に対する接し方は様々であって、その人に最も適した方法を取られる。

 さらに「天を仰いで深く息をつかれた」と記されている。「深く息をつく」とは、「呻く」「嘆息」の意味である。シュラッターは、「その困苦の重さを嘆息のうちに、御自分の魂において味わい尽くされた」と述べている。そしてひと言「エッファタ(開け)」と言われた。おそらくこの言葉は、この人の耳に聞こえた。

 このいやしは、主イエスが、この人の重荷を自分の重荷として負われた姿を現している。そしてこの人は、霊的に耳が聞こえず、もつれた舌しか持っていない私たちの姿を表す。私たちはどれだけ聖書(神)の言葉を、また家族や隣人の語りかける言葉を真に聞き取っているだろうか。また私たちは接する人々に対して必要な言葉、助けになる言葉を適切に語ることができるだろうか。しかしそのような私たちの病んだ耳と舌を主イエスはご自身に引き受け、そして私たちの耳と舌を開いてくださるのである。

 最後(37節)に、その御業を見た人の感嘆の叫びが記されている。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」と。これは創世記1章31節の神の創造の業の終わりに告げられた言葉(それは極めて良かった)を連想させる。この癒しの出来事は私たち自身の物語である。私たちの重荷を引き受けて、耳と舌を開いてくださる主イエスを、私たちも心から讃美する者として日々歩ませて頂こうではないか。
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週報

2020年10月04日 | 週報
 二〇二〇年十月四日   NO・四七―二六      聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)ゼファニヤ  二章(月)  〃    三章
        司会 高 澤兄(火)ハガイ    一章(水)  〃 二章 
         奏楽 堅 田姉(木)ゼカリヤ   一章(金)  〃    二章 
招詞祈祷  ミカ六章六~八節      (土)  〃   三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六三番        ◎八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編百三六編  ◎礼拝動画 こちら 
讃  美  讃美歌二四三番        
献  金  感謝の祈り      高澤姉  
讃  美  聖 歌四五〇番        しかし彼女は答えて、彼に言う。
説  教  マルコ七章二四~三十節      「主よ、もっともです。
聖 餐 式                 そして食卓の下にいる小犬どもは、
讃美祈祷  聖 歌五四〇番    志村姉 子供たちのパン屑を食べます。(柳田友信訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               マルコ七章二八節

   謙遜の勝利
 24節「イエスはそこを立ち去って、ティルス地方に行かれた」とは、たまたまその地方に行かれたというのではなく、主イエスの活動の転機を告げる言葉である。それはカファルナウムを中心にした宣教活動の終結を意味する。主は、この後しばらく異邦を放浪し、エルサレムへ向かって行かれるのである。なぜ異邦の地に行かれたのか明言されていないが、これまで主イエスは宣教の業をされた後、度々人々を離れ、神の前に静まられた。以下に続く言葉からそのことが推察できる(1章35節、6章31節)。

 そこにイエスのいるのを聞きつけたギリシアの女性が、娘をいやしてもらうためにみもとに来た。しかし主イエスは女性の願いを断られる。そしてその断り方・理由は、ユダヤ人の選民意識に基づく偏狭さと受け取られかねないものである。主イエスが異邦人を「小犬」と呼んだことに、多くの人は躓くだろう。しかしこの主イエスの言葉を字面だけで、ユダヤ人の選民意識による差別的発言と見てはならない。

 主イエスの異邦の巡回は、宣教目的ではなかった。主イエスご自身は、自分の使命は、同胞に旧約の約束に基づく神の救いの実現(神の国)を告げることであることを承知しておられた。異邦人への宣教は、ご自身が十字架にかかり復活して救いの完成がなされた後に、弟子たちが行うことであった。主イエスは神のこのような救いのご計画に対してどこまでも忠実であろうとされたのである。だからこの一見ひどい偏見のような言葉は、神のみ心にどこまでも従おうとする忠実と謙遜から出ている(ローマ15章8節)。

 しかしこの女性は、主イエスにも負けない「謙遜・へりくだり」を示した。主イエスの小犬という言葉に腹を立てることなく、新共同訳は訳していないが「主よ、もっともです」(柳田訳)と主の言葉を承認する。そして主イエスの「まず(最初に)」(27節)という言葉を逆手にとって、小犬もパン屑に与れると答えたのである! すると主イエスは「それほど言うなら、よろしい」(29節)と言われて女性の願いを聞き入れられた。ある人は、主イエスが人との問答・論争で負かされた唯一の個所だと言う。この女性は、私たちが見習うべき模範である。どんなに熱心に祈り願っても、神がそっぽを向いて聞かれないように見える中にあっても、へりくだって御言葉にすがり続ける者のようにと。第一に謙遜、第二に謙遜!
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