稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2012年02月26日 | 週報
二〇一二年二月二六日  NO・三八―四八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第             (日)民数記   二七章(月)  〃   二八章
              司会 桝 本兄(火)  〃   二九章 (水)  〃   三十章
              奏楽 慰 子姉(木)  〃   三一章(金)  〃   三二章
招詞祈祷 イザヤ六五章一~五前半節  (土)  〃    三三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六六番        ◎一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                       公 示
交 読 文  詩 編 七七編        ◎三月二五日(日)午後一時より教会総会です。
讃  美  讃美歌五三〇番              
献  金  感謝の祈り      高澤姉  次週の讃美歌六七・一三六・ 聖歌四〇〇番
讃  美  聖 歌四五一番       
説  教   ローマ十章十八~二一節      しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順
讃  美  聖 歌一八〇番             で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言ってい
祈  祷             堅田姉      ます。                 
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                   ローマ十章二一節
                 
   聖書から見る歴史の現実
 九章から十一章を読むと、旧約聖書が頻繁に引用されているのが目につく。今日の箇所はすべて引用である。このことは決して偶然ではない。なぜならパウロは同胞イスラエルの福音拒否・躓きを、神の救済史の中で位置付けているからである。パウロはいやというほど同胞の拒否を体験した。しかし彼は体験からこの現実を解明しない。それは個人の一経験に裏打ちされるような事柄ではないのである。それは九章で強調された神の絶対主権(自由)に基づく神の救済の歴史の計画(預言と成就)からだけ正しく現実を受けとめることが可能だからである。
 
 十八節は、詩編十九編五節の引用。イスラエルの拒否は、聞かなかったと言い訳できない。
 十九節は、申命記三二章二一節の引用。すでにモーセがこのことを告げている。妬みは愛の裏返しと言えるだろう。頑ななイスラエルに妬みを起こさせ、御許に引き寄せようとの神の愛である。
 二十節は、イザヤ六五章一節の引用。これこそ異邦人の救いの内実である。ローマ書の主題である「不敬虔な者の義認」をこの御言葉は良く示している。
 二一節は、イザヤ六五章二節の引用。この言葉からルカ福音書に記されている「放蕩息子のたとえ」を思い出す。さらにこの節の内容について十一章で詳しく取り上げられる。
 
 イスラエルは、パウロの宣教―業(律法)によらず、恵みにより信仰による義(救い)―を受け入れることができなかった。また律法を知らない・行わない異邦人の救いなど到底考えることも受け入れることもできなかった。しかしパウロは言うのである。すでにモーセがイザヤがそのことを告げているではないか、と。まさにパウロが今味わっている悲惨な現実(同胞の拒否)は、神の救いの計画の中にあるのである、と。神は「不敬虔な者を義とする神」なのである。ケーゼマンの「パウロにとって聖書は来るべき歴史についての神の予知に関する記録ではない。むしろ聖書は来るべき歴史を導入し、いわばそれを動かして行くものである。」は、この箇所のパウロの真意をよく表していると言える。
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週報

2012年02月19日 | 週報
二〇一二年二月十九日  NO・三八―四七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第             (日)民数記   二十章(月)  〃   二一章
                司会 高 澤兄(火)  〃   二二章 (水)  〃   二三章
               奏楽 慰 子姉(木)  〃   二四章(金)  〃   二五章
招詞祈祷 イザヤ五二章七~十節    (土)  〃    二六章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六三番        ◎二三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日、午後一時より新約の学び「ローマ書」。
交 読 文  詩 編 七六編        ◎二二日より、受難節に入ります。
讃  美  讃美歌五二九番              
献  金  感謝の祈り      志村姉  次週の讃美歌六六・五三〇・ 聖歌四五一番
讃  美  聖 歌四五一番       
説  教   ローマ十章十四~十七節      従って、信仰は聞くことから(生じるのであり)、しか
讃  美  讃美歌四三六番           も聞くことはキリストの言葉によって(生じるのであ
祈  祷             大庭姉      る。)               (直訳)  
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                   ローマ十章十七節
                 
   信仰は聞くことから生じる
 ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と言っている。そして聖書は神の言葉である。それゆえそこに記されていることはかならず実現する。
 さて、今日の箇所で強調されているのは、御言葉(福音)を宣べ伝えることであり、宣べ伝えられたことを「聞く」と言うことである。
 
 十四~十五節の内容は、時間的順序とは逆に記されている。それは十三節の「呼び求める」という言葉を受けているからと思われる。十五節の「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」は、イザヤ五二章七節の引用であるが、この言葉によって宣教者の重要性がよく表されている。「なんと美しいことか」をケーゼマンは「いかにふさわしい時に(来ることか)」と受け取る。「美しい」ということによって、福音の素晴らしさが強調されるが、「ふさわしい時」では、神の救済史の最も適切な時に、福音が与えられ、伝えられたことが強調されることになる。それによって、ユダヤ人が福音を拒否したことに対して弁解の余地がないのである。それゆえ十六節で「しかし、すべての人が福音を信じたのではない」と言われるのである。

  十七節は総括である。まず「信仰は聞くことから」生じる・来る・起こると言われる。ここで「聞く」ということが重要である。信仰は「読む」ことによって生じるのではない。また瞑想し、悟ることによって生じるのではない。どこまでも語られた言葉を聞くことから生まれるのである。聖書が神の言葉あると言う時、それは生きた言葉であるゆえ、それは声として聞かれるものなのである。福音が語られ聞かれる所に聖霊が働かれるのである。それによって私たちの内に信仰が生じるのである。その意味で公同の礼拝は最も重要である。さらに「聞くことはキリストの言葉によって」と言われている。福音とはどこまでも、キリストがもたらされたものを内容としている。そこで伝えられるのは、どこまでもキリストの救いの御業である。私たちは聖書の言葉から生ける神の声を聞いているであろうか?
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2012年02月12日 | 週報
二〇一二年二月十二日  NO・三八―四六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第             (日)民数記   十三章(月)  〃   十四章
               司会 桝 本兄(火)  〃   十五章 (水)  〃   十六章
              奏楽 慰 子姉(木)  〃   十七章(金)  〃   十八章
招詞祈祷 詩 編二三編一~六節    (土)  〃    十九章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六二番        ◎十六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎次主日は、午後新約の学び「ローマ書」高澤兄担当。
交 読 文  詩 編 七五編        ◎
讃  美  讃美歌五二七番        次週の讃美歌六三・五二九・ 聖歌四五一番      
献  金  感謝の祈り      高橋姉  
讃  美  聖 歌四五一番         ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に
説  教   ローマ十章九~十三節     同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を
讃  美  讃美歌二八七番        豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者
祈  祷             小村姉   はだれでも救われる」のです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ十章十二~十三節
                 
   イエスは私たちの「主」である
 「イエスは主である」(キュリオス イエスース)、たった二語であるが、これを口で公に言い表すことは、当時では勇気がいる、ある意味命がけであった。それは「カエサルは主である」と言わなければならなかったからである。キリスト者は、カエサルではなく、イエスが主である、と告白したのである。「主」とは、旧約において神を表す言葉である。だからユダヤ人に対して、キリスト者が「イエスは主である。」と言う時、「イエスは神である」と言ったに等しい。さて、「イエスは主である」という告白は、私たちにとってどのような重みを持っているだろうか。私の全存在・全生活の「主」は、本当にイエスであろうか。それとも私自身か。「イエスが(私の)主である」時、私は本当に「救われている」。私の命も人生も、イエスの御手の中にあり、「主のもの」となったのである。これほど確かなことはない。

 なぜなら「主を信じる者は、だれも失望することがない」(十一節)からである。「失望することがない」と訳されている言葉は、「辱められない。むなしくされない。滅ぼされない」等の意味を持つ。
 今日の箇所に四回も「すべての人(だれも)」が出てくる。何と力強いことか。例外はない。能力によらず、性格によらず、そう、生き様にもよらず、イエスを信じる者・呼び求める者を、イエスは救い、「豊かにお恵みになる」(十二節)。これが神が主イエスを通して私たち人間に用意された福音である。   
 
 十二節の「すべての人に同じ主がおられ」と訳されている語句を、「同一の方(主)がすべての人の主である」と訳と「イエスは『万民の主』である」ということが強調されていることがわかる。だれであっても、どんな時でも、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(十三節)のである。イエスを信じる者、イエスを主と告白する者の生は、この豊かな恵みの中にある人生となる。私たちの生活には、いつでも呼び求めることができるお方がいる。私たちはひとりでも孤独でもないだけでなく、救いが与えられる日々を送ることができる。パウロはこの福音を宣べ伝えた。私たちはその福音の言葉を聞いて、信仰が呼び起され、信仰をもってその言葉に自分を委ねて、その救いを恵みを味わうのである。
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2012年02月05日 | 週報
二〇一二年二月五日   NO・三八―四五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第             (日)民数記    六章(月)  〃    七章
              司会 高 澤兄(火)  〃    八章 (水)  〃    九章
               奏楽 慰 子姉(木)  〃    十章(金)  〃   十一章
招詞祈祷 申命記三十章十一~十四節  (土)  〃    十二章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五八番        ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日は聖餐の恵みに与れました。
交 読 文  詩 編 七四編        ◎本日、責任役員会です。
讃  美  讃美歌五二六番        次週の讃美歌六二・五二七・ 聖歌四五一番      
献  金  感謝の祈り      永田姉      「だれが底なしの淵に下るか」と言ってはならない。 
讃  美  聖 歌四五一番             これは、キリストを死者の中から引き上げることにな
説  教   ローマ十章四~八節         ります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉
聖 餐 式                    ひ  はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあ
讃美祈祷  聖 歌一九六番  みつ子師    る。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の
頌栄祝祷  聖 歌三八三番            言葉なのです。   ローマ十章七~八節
                 
   信仰の言葉すなわち福音の中にいますキリスト
 五節以下は、四節の説明である。ここでも「律法による義」と「信仰による義」が比較される。
 
 五節で「モーセは…書いている。」と言い、六節で「信仰による義は…語っている。」と言って、対比されている。それも「書く」と「語る」と言葉を注意深く使い分けて、違いを強調するのである。書くは「文字」を、語るは「霊」を想起させる(「文字は殺しますが、霊は生かします」2コリント三章六節)。
 
 五節はレビ記十八章五節の引用であるが、パウロはガラテヤ三章十二節にも引用していることから、これが律法の義について語る常套句であることが分かる。六節~八節の引用は、申命記三十章十二節と十四節の自由引用であり、さらに詩編の百七編二六節も考慮される。この箇所のパウロの聖書(旧約)引用は、牽強付会に見えるが、主イエスが「聖書はわたしについて証しするものだ。」(ヨハネ五章三九節)の視点からの引用であり、解釈なのである。
 
 パウロが聖書を引用して言いたいことは(だれが天に上るか」「だれが底なしの淵に下るか)、そのようなことは、人間に不可能であるがゆえに、律法による義が本来人間に不可能であることを明らかにするのであり、しかし信仰による義は、キリストを知るゆえに、もはやそのようなことを求めも問いもしない。なぜなら、キリストは、私たちが永遠の命に与るために復活して天に挙げられたのであり、私たちの罪のために死んで黄泉に降って下さったからである。

  八節は特に重要である。「御言葉は近くにある。」と言われる。救いの道は、はるか遠く長い道のりではない。キリストにあって、私たちのそばにある。それは「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」として身近にある。具体的には、礼拝で語られる御言葉である。そこに聖霊は働いて、信じる者をキリストの恵みに包むのである。だからキリスト者は、2コリント五章十六にあるように、高挙されたキリストをもはや肉によって(感覚で)知ることはなく、どこまでも、「信仰の言葉」によって聖霊にあって知るのである。それゆえ福音は一章十六・十七節で言われているように神の力、神の義なのである。
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