稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2023年11月26日 | 週報
二〇二三年十一月二六日 NO・五十―三五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)ホセア   五章(月)   〃 六章
         司会 松 田兄(火)  〃   七章(水)   〃   八章
          奏楽 内 間姉(木)  〃   九章(金) 〃    十章
招詞祈祷  イザヤ十一章六~九節    (土)  〃  十一章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌八七B番        ◎三十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                  ◎礼拝動画 こちら
交 読 文  詩 編百十九編サメク   
讃  美  讃美歌三六五番        
献  金  感謝の祈り      豊口姉
讃  美  聖 歌五九一番        
説  教   ローマ八章十八~二二節     思うに、今この時の苦しみは、 
讃  美  聖 歌四七九番        将来私たちに現されるはずの栄光に比べれば、
祈  祷             志村姉 取るに足りません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ八章十八節

   なぜ被造物は虚無に服しているのか
 18節以下は、1章18節から語られてきたことのエピローグと言えるだろう。そして18節は以下に語られることの主題の提示である。19節以下は、なぜ「今の時の苦しみは、将来現される栄光と比べれば、取るに足らない」(18節)ことを様々な角度から説明する。

 19~22節で、先ず「被造物」が取り上げられる。ここの「被造物」は人間を除くすべての存在を指すだろう。ここに記されている被造物の姿は深刻である。パウロは「被造物は虚無に服している」(20節)、「滅びへの隷属状態にある」(21節)、「呻き、共に産みの苦しみを味わっている」(22節)と言う。神の造られた被造物・自然界は、本来美しく良いものであり、私たちはその素晴らしさに感嘆させられる。しかし同時に、そこでは弱肉強食が日々繰り返されている。また、自然は私たちに突然牙をむくのである。しかしこの箇所でパウロは、ただ目に見える現実の悲惨を強調しているのではない。それから目を背けることなくしっかり見据えつつ、その先にある栄光・救いの希望を語っている。

 19節は興味深い表現である。「神の子たちの現れるのを」とは、キリストの再臨によって実現する事柄である。しかしパウロは「被造物はキリストの再臨を待ち望んでいる」とはここでは言わない。ここでパウロの念頭にあったのは、人間とその他の被造物との密接な関係、つまり創造の秩序である。創世記には、人間は被造物の冠として最後に創造された。その他の被造物は、人間の管理下にある。そして今ある被造物の虚無は、人間の堕罪に起因する(創世記3章17節)。それゆえ人間が「神の栄光の自由に入る」時に、その他の被造物は「滅びの隷属から解放される」のである。だからこのような表現を用いる。

 「苦しみから栄光へ」、「隷属から栄光の自由へ」と言う「……から……へ」は、聖書の根幹にある。つまり初めがあり終わり(完成・ゴール)がある。聖書の冒頭は「初めに神は天と地を創造された」で始まる。聖書は決して輪廻のように終わりのない円環を主張しない。ゴールもない円環は、「虚無」である。そこには人間の存在の意義は見出せない。そこからニヒリズムが生まれる。人間・全被造物は、創造主なる神の栄光を現わすために存在する。そして神はそれを完成して下さる。そこにこそ私たちの「希望」がある。
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週報

2023年11月19日 | 週報
 二〇二三年十一月十九日 NO・五十―三四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第         (日)ダニエル  十章(月)  〃 十一章
         司会 坂 本兄(火)  〃  十二章(水)ホセア   一章
          奏楽 内 間姉(木)  〃   二章(金)       三章
招詞祈祷  イザヤ四三章四~七節    (土)  〃   五章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七四番        ◎二三日(木)の祈祷会はお休みです。筑波福音同志会
主の祈り                  の秋季聖会が龍ヶ崎教会で開かれます。
交 読 文  詩 編百十九編ヌン    ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌三五五番        
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌五九一番        
説  教   ローマ八章十四~十七節      御霊ご自身が、私たちの霊に、 
讃  美  聖 歌一九〇番         私たちが神の子供であるということを
祈  祷             松田兄  保証してくださる。(試訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ八章十六節

   神の子供たち・神の相続人
 1節で「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」と言いい、キリスト者は「命の霊の法則によって、罪と死の法則から解放された」(2節)と言われたが、14節以下では「神の子供たち」である、と言われる。8章全体において、パウロは聖霊の働きを強調しているが、ここでも同様である。14節冒頭は「神の霊に導かれる者」で始まっている。「導かれる」と訳されているのは、もう少し躍動的に「神の霊に動かされる、駆り立てられる」というニュアンスであろう。

 本来「神の子」というのは、主イエス・キリストおひとりに当てはまる事柄である。しかし神は、イエス・キリストのゆえに、私たちの罪を赦すだけでなく、罪と死から解放するだけでなく、「神の子供たち」として下さったのである。15節の「子としてくださる」とは原意は「養子とする」という意味である。

 私たちキリスト者が「キリスト・イエスにある」(2節)、「(聖)霊にある」(9節)と言うのは、「神の子供たち」の身分を受けることに繋がるのである。養子としてであるが、私たちキリスト者は、文字通り「神の子供たち」とされたということがここで告げられている。このことがどれほど破格の、想像を絶する事柄であるかを十分受け止めることはできないほどである。その結果、私たちは、主人の命令にびくびくして従う奴隷ではなく、慈愛に富む父なる神の御旨を喜んで行う子供として生きる者とされた。さらに私たちは「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」(17節)とされた。神は惜しみなくキリストが受け継がれるものに、私たちをも同じく与らせて下さるのである!

 このようにキリスト者に与えられた豊かな恵み・救いを告げたパウロは、最後に「私たちはキリストと共に栄光を受けるために、共に苦難を受ける」(意訳)ことを伝える。これを共同訳のように「キリストと共に苦難を受けるなら、共に栄光をも受ける」と苦難を受けることを条件にしているように訳すのは、誤解を生む。私たちは苦難を受けたら栄光を受けるのでは決してない。キリストがこの世で苦難を受けられたように、キリストと共に、聖霊によって歩む者は、自己中心的なこの世から必然的に迫害・反対を受けるのである。だから信仰のゆえの戦いを恐れたり、苦難を受けることに驚いてはならない。
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2023年11月12日 | 週報
二〇二三年十一月十二日 NO・五十―三三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)ダニエル  三章(月)  〃 四章
        司会 坂 本兄(火)  〃   五章(水)  〃   六章
          奏楽 内 間姉(木)  〃   七章(金)       八章
招詞祈祷  イザヤ六一章一節      (土)  〃   九章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七四番        ◎十六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎アジア祈禱日の献金四万円はアフガニスタンの 
交 読 文  詩 編百十九編メム       ペシャワール会に送金しました。
讃  美  讃美歌三五五番         ◎本日は、聖餐の恵みに与りました。
献  金  感謝の祈り     みつ子師  ◎礼拝動画 こちら
讃  美  聖 歌五九一番           
説  教   ローマ八章十二~十三節     
聖 餐 式                  それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って  
讃美祈祷  聖 歌五七三番    高澤姉 生きると言う義務を、肉に対して負ってはいません。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ八章十二節

   御霊によって律法の要求を満たす
 12節は、「それで、きょうだいたち」で始まる。1節から語られてきたことの結論・仕上げをするにあたり、改めて「兄弟たち」と呼びかけている。続く言葉は「私たちは負債がある」(直訳)である。多くは「私たちは義務または責任がある」と訳される。これは、2節の「命の霊の法則」、「罪と死の法則」から理解しなければならない。つまり私たち人間は、「命の霊」か「罪と死」か、どちらかに負債を負う存在、別の言葉で言えば「支配」を受けている存在なのである。それを主イエスは「誰でも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われた。そしてパウロは、キリスト者はもはや「肉に従って生きる義務を肉に対して負っていない」と断言するのである。

 13節では、さらに具体的に「霊によって体の行いを殺す」と言われている。「体を殺す」とは非常に強い表現である。これは禁欲するようにという勧めではない。宗教に禁欲や修練はつきものである。しかしそれらによって、「体の行いを殺す」ことはできないのである。つまり自己中心性を取り除くことはできない。それはむしろ自分の信仰・敬虔を誇ることに繋がる。コロサイ2章20~23節。

 ここで見逃してはならないのは「霊によって」という言葉である。私たちキリスト者は、自分の信仰・敬虔・修養によって、つまり自分の努力によって「体の行いを殺す」ことはできないことを知るものである。ただ「「御霊によって」のみ、そのことが可能である。私たちキリスト者は「肉にではなく、霊の内にある」(9節)とあるように、私たちの内には御霊が住んでおられる。そしてその御霊によって、「体の行いを殺す」ことができるのである。なぜ「体の行いを殺す」必要があるかと言えば、「肉に従っていきるなら、死ぬほかない」(13節)からである。

 4節に「肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされる」とある。キリスト者は、律法を行うことによって義とされ救われないことを知っているけれども、それは律法を無視し軽んじることではない。ここでパウロは、こう言いたいのだ。私たちはキリストの真実によって救われ、聖霊が私たちの内に住んで支配しておられるので、律法の要求を喜んで自由の心で満たすのだ、と。
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2023年11月05日 | 週報
二〇二三年十一月五日  NO・五十―三二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第   召天者記念礼拝 (日)エゼキエル 四四章(月)  〃 四五章
           司会 高 澤兄(火)  〃   四六章(水)  〃   四七章
             奏楽 内 間姉(木)  〃   四八章(金)ダニエル   一章
招詞祈祷  詩編十六編十~十一節    (土)  〃   二章
頌  栄  聖 歌三八四番          (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七五番        ◎九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は召天者記念礼拝です。      
交 読 文  詩 編百十九編ラメド     ◎本日午後、大掃除を予定しています。   
讃  美  讃美歌四八八番         ◎礼拝動画 こちら
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌五九一番          キリストを死者の中から復活させた方は、   
説  教   ローマ八章九~十一節       あなたがたの内に宿っているその霊によって、 
讃  美  聖 歌六四一番          あなたがたの死ぬべき体をも
祈  祷             高澤姉   生かしてくださるでしょう。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ローマ八章十一節後半

   御霊に生かされているキリスト者
 9~11節は、「(もし……)なら」という仮定法で語られているが、ここでは疑問、未決定であることを想定しているのではなく、「霊の中にある」ことを前提にして疑問の余地がない事実を強調し確認させるために用いられている。そこで「……だから」と訳せば、パウロの真意を表している。その証拠に、9節は「しかしあなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいる」(直訳)という断定から始められている。これは決定的宣言であり、すべてのキリスト者に当てはまる。「しかしあなたがたは」が冒頭にあって強調され、5~8節で語られた「肉と霊」と対比を受けて、あなたがたは霊にいるということを前提として語られている。1~4節で「キリスト・イエスにある者」(1節)、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」(2節)、「霊に従って歩む私たち」(3節)という言葉で表されたキリスト・イエスにある救いの原理を、ここで具体的に「あなたがた」と呼びかけることによって、読者に当てはめて確信を与える。

 ここに「神の霊」(9節)、「「キリストの霊」(9節)、「イエスを死者から復活させた方の霊」(11節)という言葉が織り交ぜて使われているが、これは同じ唯一の神を表す。聖霊は、神の霊であり、キリストの霊でもある。しかし同時に(聖)霊と呼ばれる。唯一のただひとりの神が同時に三位一体の神として御自身を私たちに現して下さるのである。三位にして一体の神は完全な愛の交わりであられることを表す。

 11節に「イエスを死者の中から復活させた方の霊」、「キリストを死者の中から復活させた方」と二度も繰り返されているのは、偶然ではない。3節で私たちと同じ「罪深い肉と同じ姿で世に遣わ」されたイエス・キリストは、「体は罪のゆえに死んでいる」(10節)という事実を十字架を通して体現し、すべての人が経験する死を受けられた。しかしそのイエスは死者の中から復活させられた。この事実こそが、私たち死ぬべき者たちも、主イエスと同じように復活するという確実な証拠を得るのである。

 「あなたがたは肉の内にではなく,霊の内にある」との宣言は、キリストを信じる者には、かならず聖霊がおられることを確信させる。疑う必要はない。それゆえ私たちは今なお「体は罪によって死んでいても」(10節)、「(聖)霊の命」(10節)に生かされている。それがキリスト者の生である。何という恵み!
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