稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2023年01月29日 | 週報
 二〇二三年一月二九日  NO・四九―四四       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第           (日)詩編    八九編(月)  〃    九十編
          司会 坂 本兄(火)  〃   九一編(水)  〃   九二編
           奏楽 内 間姉(木)  〃   九三編(金)  〃   九四編
招詞祈祷  イザヤ四十章二八~三一節  (土)  〃   九五編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 六二番        ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎礼拝動画 こちら
交 読 文  詩 編 九六編      
讃  美  讃美歌五二一番         
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌三九二番    
説  教   ローマ一章八~十五節       あなたがたにぜひ会いたいのは、
讃  美  聖 歌五八五番         霊の賜物をいくらかでも分け与えて、
祈  祷             高澤兄  力になりたいからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                  ローマ一章十一節 

   パウロの人となり
 今日の個所は、この手紙を書く動機が語られている。そしてパウロの人となりが豊かに現れている。

 パウロから最初にあふれ出てくるのは「神への感謝」である。自分のことについての感謝でなく、首都ローマに、キリストを信じる群れが存在することを感謝している。神への感謝が、「イエス・キリストを通して」なされるのはパウロの信仰を如実に示す。主イエス抜きで、私たちは本来神に祈ることも感謝することもできない者である。また人は、何について感謝するかで、その人の信仰の立ち位置がわかる。

 9~10節で、パウロは祈りの度に、多くはいまだ未知のローマの聖徒たちをいつも思い祈っていること、さらにローマ訪問が実現するように祈っていることを告白する。このことを告げるに当たり、9節の冒頭でそれについて「神が私の証人です」と驚くべき言葉を言い放つ。それもさらに「私は、御子の福音において、私の霊において仕えている神」(直訳)という言葉を付け加えて。なぜこのように仰々しく、神を証人とし、福音と私の霊を挙げて、あなた方のために祈っており、あなた方の所に行きたいのだと告げたのだろうか。パウロの使徒性、またパウロが宣べ伝えた福音が疑われていたことが背景にある。

 さらに11節で、会いたいと熱望していることを告げる。それも四つの語「もしできるなら、どうにかして、今でも、いつの時か」と言葉を連ねて、ローマ行きとあなた方に会いたい気持ちを吐露している。しかし13節で語られているように、「何回もそちらに行こうという企てが妨げられた」のである。まことに不思議な事だが、異邦人の使徒として神御自身がパウロを召したにもかかわらず、神は、パウロのローマ行きをこれまでお許しにならなかった。パウロが切に祈り求めたにもかかわらず。パウロは、自分の願いを自分の意志で貫徹することをしない。これほど切望した事柄であっても、神の御旨に聴き従った。良いことだからといって、それが自動的に神の御旨とは限らないし、時があることを忘れてはならない。

 パウロの目的は、どこまでも「霊の賜物を分け与える」(11節)ことであり、ローマでも「何か実りを得たい(救われる人)」(13節)ことである。パウロの教会を建て上げ、救霊への疲れを知らない熱意の源は、主イエスの恵みによって罪人である自分が使徒として召された責任(負債)に促されてである(14節)。
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週報

2023年01月22日 | 週報
二〇二三年一月二二日  NO・四九―四三       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第         (日)詩編    八二編(月)  〃    八三編
         司会 坂 本兄(火)  〃   八四編(水)  〃   八五編
           奏楽 みつ子師(木)  〃   八六編(金)  〃   八七編
招詞祈祷  イザヤ四十章一~二節    (土)  〃   八八編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五八番        ◎二六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より教義学要綱の学びです。
交 読 文  詩 編 九五編        ◎礼拝動画 こちら

讃  美  讃美歌五二〇番         
献  金  感謝の祈り      新栄兄
讃  美  聖 歌三九二番         神に愛され、
説  教   ローマ一章五~七節      召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。
讃  美  聖 歌四九九番        わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの
祈  祷             松田兄 恵みと平和が、あなたがたにあるように。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                  ローマ一章七節 

   恵みによって召されたキリスト者(私たち)
 1節で、「神の福音のために選び分かたれた者」と自己紹介したパウロは、「「福音」という言葉に触発されて、2~4節で「神の福音」について語る。そして4節の最後で、その福音とは「わたしたちの主イエス・キリストです」と宣言した。8節以下の本文において、パウロは、福音・救いについて、信仰について丁寧に語るのだが、結局は、パウロが語るのは主イエス・キリストのことに尽きる。

 5節を原文の語順に従って直訳すれば「この方(主イエス)によって、私たちは恵みと使徒職を受けた。信仰の従順へと(至らせるために)、すべての異邦人の間で、彼(キリスト)の名のために」となる。「恵みと使徒職」とは別個のものではなく、「使徒職という恵み」を受けた、の意味である。キリスト者を迫害していたパウロを、主イエスは恵みによって使徒職に任命された。「使徒職」とは、主イエスから全権を委任された務めである。その目的は「すべての異邦人を信仰の従順」に至らせることである。

 「信仰の従順」という言葉の真意について多くの見解があるが、結論として言えば「信仰という従順に至らせる」と言うことだろう。信仰とは、神が主イエスを通して成し遂げて下さった「救い」を、そのとおりと受け入れることであり、それが従順ということでもある。つまり「信仰の従順が、救いの使信の受領を意味することは全く明らかである」(ケーゼマン)。

 6節は「あなだかたもまた異邦人の中にあって、イエス・キリストの召された者である」(直訳)。これはイエス・キリストのものとして召されたことを言う。「召された」という語は1・6・7節に三回出てくる。「召し」ということもまた、一方的な恵みとして主イエスから与えられるものである。

 7節で、ローマのキリスト者が、二つの肩書で呼ばれている。①神に愛されている、②召された聖徒である。これは私たちにも当てはまる。神に愛されるに値しない者、神のために用いられる(聖なる)にふさわしくない者を召して下さった神の「恵み」を思って、パウロは喜びにあふれ感謝している。

 最後に祝福の言葉が記されているが、これは儀礼ではない。「恵みと平和」は、神と御子からキリスト者に無償で与えられる救いである。また神のかたちに造られた人間の本来の輝きの回復である。
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2023年01月15日 | 週報
二〇二三年一月十五日  NO・四九―四二       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)詩編    七五編(月)  〃    八二編
           司会 高 澤兄(火)  〃   七七編(水)  〃   八四編
           奏楽 内 間姉(木)  〃   七九編(金)  〃   八六編
招詞祈祷  イザヤ五二章七~八節    (土)  〃   八一編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五六番        ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より責任役員会。
交 読 文  詩 編 九四編         ◎次週は教義学要綱の学び「17 十字架につけられ、 
讃  美  讃美歌五一九番         死にて葬られ、陰府にくだり」です。
献  金  感謝の祈り      松田兄 ◎礼拝動画 こちら
讃  美  聖 歌三九二番    
説  教   ローマ一章二~四節        
讃  美  聖 歌六〇八番         この福音は、……御子に関するものです。
祈  祷             坂本兄  この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ一章二・四節 

   パウロの福音への熱い思い
 当時の手紙の形式によれば、最初の挨拶では、「差出人、受取人、祝福」が列記されるだけだが、パウロは、差出人と受取人の間に、「福音」についての記述を挿入している。その理由は、1節の自己紹介の最後で記した「神の福音」という言葉に触発されて、どうしても福音について語らずにおれなかったのである。それほどパウロにとって福音という言葉は特別であった。では福音とは何か?

 第一に「福音」は、神が預言者を通して聖書の中で前もって約束されたものである(2節)。それは偶然に、ある偉人によってもたらされたものではないということ。イスラエルの歴史を貫いて、神が約束されたことの成就である。またこれによって、パウロは自分が宣べ伝えている福音は、自分が勝手に作り出したものではなく、聖書に根差したものであると告げている。

 第二に「福音」は、御子に関することである(3節)。福音は、人が悩みや苦しみの時に助けとなる処世訓ではない。また理念や悟りでもない。一人の人物、それも神の御子によって、約束が現実となったものである。その御子とは「わたしたちの主イエス・キリスト」(4節)であると明示される。

 3節、神の御子は、「ダビデの子孫から生まれ」られた。わざわざ「肉によれば」という言葉を用いて、人間としてこの世界に現れたことを強調している。御子はイエスとして、他の人と何も変わる所のない方として地上を歩まれた。しかしそのお方は、4節で、「聖なる霊によれば、死者の中から復活よって力ある神の子と定められた」と言われている。これは復活によってはじめて神の子となったというのではない。むしろ復活によって神の子であることが誰の目にも明らかにされたということである。人にして神!

 「福音」とは、人と成られた神の御子のことであり、死ぬほかない人間を、死者の中からの復活によって救うお方である。それゆえイエス・キリストは、神と等しい「主」である。パウロにとって福音がすべてのすべてであった(ガラテヤ2章20節)。彼は福音という言葉を聞く時、心が燃えたのである。

 では私たちはどうだろうか。私たちの日毎の関心事は何か。私たちはどんな言葉に、どんなことに反応し、心が熱くなるだろうか。パウロと共にローマ14章7~8節を信じ告白するものでありたい。
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2023年01月08日 | 週報
 二〇二三年一月八日   NO・四九―四一       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第          (日)詩編    六八編(月)  〃    六九編
          司会 松 田兄(火)  〃   七十編(水)  〃   七一編
           奏楽 内 間姉(木)  〃   七二編(金)  〃   七三編
招詞祈祷  イザヤ六一章一~二節    (土)  〃   七四編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五五番        ◎十二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎礼拝動画 こちら
交 読 文  詩 編 九三編        
讃  美  讃美歌五一七番        
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌三九二番        パウロ、
説  教   ローマ一章一節        キリスト・イエスの僕、
讃  美  聖 歌五八五番        召された使徒。
祈  祷             高澤兄 神の福音のために選び分かたれた者。 (田川訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                  ローマ一章一節 

   ローマ書について・パウロの自己紹介
 ローマ書は新約聖書の中で最も重要な書と言っても過言ではない。二千年の教会の歴史の中で宗教改革に代表されるように、福音の再発見、教会がしっかりと福音に立つための最も重要な指針であった。

 ローマ書は、パウロの教会宛の手紙の中で特異である。他の手紙は各教会の具体的問題に答える目的で書かれたが、ローマ書はそうではない。ローマ教会はパウロの設立した教会ではない。ローマ書は、教会宛の最後の手紙である。まさにパウロが二十数年語って来た福音を詳しく記した「遺書」である。

 パウロがローマ書を書いた動機は、すでにローマ帝国の東方地域での宣教をなし終え(15章19・23~24節)、これから西方に伝道しようと決意したからである。そしてローマ教会の援助を期待し、そのために予め自己紹介を兼ねてこの手紙を書いたのである。しかしその前に、エルサレム教会へ、異邦人教会の献金を携えて行く重要な務めがあった。これは単に献金を届けるというのではなく、キリスト教会のルーツであるエルサレム教会と異邦人教会の連携を確固にするためであった。異邦人教会は、そのルーツをイスラエルに対する神の約束に持ち、そこから生まれた教会と切り離されて異邦人教会は存在しないとパウロは確信していた。そのために命の危険を賭してエルサレムに行ったのである(15章25~32節)。

 1節は、パウロの自己紹介である。最初に自分の名前を記し(パウロ)①自分は「キリスト・イエスの僕」である、と言う。これこそ自分に最もふさわしい呼び名である、と。「僕」は「奴隷」の意味である。奴隷は主人に絶対服従する存在であるが、それは、他の人からは完全に自由であることを意味する。パウロが「キリストの奴隷」と自分を呼ぶ時、そこに卑屈さはない。むしろ誇りをもっている。②次に「召された使徒」と言う。「使徒」という語は、狭義には「十二使徒」を指すが、パウロは自分が彼らと同様にキリストからの直接の派遣を受けた「使徒」であることを強調する。その自負と権威をもってこの手紙を書いている。③「神の福音のために選び分かたれた者」と言う。選び分かたれたのは神であり、彼の意志ではない。それゆえ自分を誇ることはできない。

①~③の中で、②と③は、特別なものである。しかし①はすべてのキリスト者に当てはまる。では私たちは自分を何と呼び、どう紹介するのだろうか?
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2023年01月01日 | 週報
二〇二三年一月一日   NO・四九―四十       聖 書 日 課    
   礼 拝 次 第      元旦礼拝 (日)詩編    六一編(月)  〃    六二編
           司会 高 澤兄(火)  〃   六三編(水)  〃   六四編
           奏楽 みつ子師(木)  〃   六五編(金)  〃   六六編
招詞祈祷  詩編六六編一~四節     (土)  〃   六七編
頌  栄  聖 歌三八四番              (お知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 五四番        ◎五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 九二編         ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌一一四番        
献  金  感謝の祈り      坂本兄
讃  美  聖 歌三九二番          それゆえ、信仰と、希望と、愛、
説  教 Ⅰコリント十三章十三・十四章一節  この三つは、いつまでも残る。
聖 餐 式                   その中で最も大いなるものは、愛である。
讃美祈祷  聖 歌五八一番    高澤姉   愛を追い求めなさい。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番           Ⅰコリント十三章十三~十四章一節 

   愛を追い求めよう
 今年の年間聖句は「愛を追い求めよ」である。私たちのすべての営みの根幹にこれがあり、絶えずこれを目指した歩みであることを祈り求めたい。

 パウロは13章で「愛」の絶対性、特性、不滅性について熱くまた印象深く語った。13節はその結論である。しかしここに「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る」と突然「信仰」「希望」が出てくる。なぜだろうか? パウロは、ほかの手紙でも何度か「信仰・希望・愛」を連結させて語っている。例えばⅠテサロニケ1章3節、ローマ5章2~5節を参照。

 ある人は、信仰と希望は、神の御国に行ったならば不用になると言うが、パウロとってこの三つは切り離せないものである。なぜなら私たちは主イエスへの信仰がなく(Ⅰヨハネ4章15節)、また救いの成就への希望に支えられずに愛を持つことはできないからである。「信仰と希望とは、愛に姿を変えて永遠の中に入って行く」(ボンヘッファー)。なぜなら神は愛であるから(Ⅰヨハネ4章8、16節)。

 パウロは13章で愛の讃歌を語るに先立ち、愛を「最高の道」(12章31節)と呼んだ。この「道」という語は、主イエスの「わたしは道であり、真理であり、命である」に通じる道のことである。この道を通ってのみ、私たちは神の国に入るのである。主イエスは、人間を愛するゆえに人となり、十字架で苦しみを受けられた。十字架こそ、主イエスが歩まれた愛の道であった。

 私たちの知恵や能力には限界があり、物事を達成するのに不十分なことが多い。また富も名声も名誉も一時的なものである。私たちは預言や奇跡の信仰、その他の賜物がなくても、キリスト者であることができる。しかし信仰と希望と愛がなければ、キリスト者ではないだろう。神の愛によって私たちの内に生まれる愛は、どんなに小さくても神に嘉せられる。このことを信じ、私たちはどんなに小さくとも愛の行為に勇気をもって励もうではないか。また愛の行為はどんなに小さくても永遠の価値をもつことを覚えて「愛を追い求めよう」ではないか。人生の価値は、この世が求める立身出世にあるのではなく、愛の有無にある。主イエスの愛を知った者には愛が注がれている。愛された者は愛することができる。 
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