二〇二四年四月二一日 NO・五一―三 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)ヨハネ 十七章 (月) 〃 十八章
司会 高 澤兄(火) 〃 十九章 (水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章 (金)使徒言行録 一章
招詞祈祷 箴言三章五~七節 (土) 〃 二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五五番 ◎二五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後責任役員会。
交 読 文 詩 編百三三編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌四〇三番
献 金 感謝の祈り 堅田姉
讃 美 聖 歌六九九番 あなたは、折り取られた枝に対して
説 教 ローマ十一章十六~二四節 誇ってはなりません。誇ったところで、
讃 美 聖 歌九三番 あなたが根を支えているのではなく、
祈 祷 松田兄 根があなたを支えているのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十一章十八節
教会とイスラエルの関係
16節の前半は、民数記15章20~21節で言われている「初物の麦粉」のことである。これで意図されているのは、初物、すなわち最も良いものを捧げるということではなく、収穫の初物を神に捧げることによって、その後のものもすべてきよくされるということである。これは週の最初の日を礼拝を通して神に捧げることによって、後に続く六日間も神にあるものとして生活できることに通じる。
17~24節は、「接ぎ木」の比喩を用いて、イスラエルと異邦人の関係を明らかにする。パウロがここで言っている「接ぎ木」は通常の接ぎ木の方法と反対である。普通は、悪い台木に良い枝を接ぐのである。これはある人が言うように、パウロが接ぎ木をよく知らなかったからではなく、まさに異邦人が救われているのは、あり得ない接ぎ木のようなものであるということ。このように私たち異邦人が救われるということは、不思議・不可解としか言いようのない驚くべき神の愛、キリストの恵みなのである! このことを私たちはしっかりと自覚しなければならない。そこでパウロはユダヤ人たちに対して誇ってはならない(18節)と言い、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節)と警告する。それは19節にあるように、「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためであった」と、まるでそれが当然であるかのように思い上がる異邦人キリスト者がいたからである。「思い上がらず、恐れる」ということは、いつも謙遜であるということである。なぜなら私の信仰が私を救うのではなく、キリストの真実(の御業)が私を救うのだから。だからここで信仰にとどまると言われず、「神の慈しみにとどまるかぎり」(22節)と言われている。枝が実を結ぶのは、「根からの養分を受けているから」(17節)であることを忘れてはならない。
この箇所の一連の論述を通してパウロが強調しているのは、9章4~5節で触れられたイスラエルに与えられた神の選びと約束は決して揺るがず、キリスト教会は、自分たちを新しいイスラエルと規定して、イスラエルを無視し過去のものと見なしてはならないということ。キリスト教会はどこまでも神の選びと約束に支えられたイスラエルの歴史に接続するものとしてだけ存在する。本来切り取られた枝が接ぎ木されることはないが、神の御言葉の真実のゆえに(9章6節)、イスラエルの回復をパウロは確信する。
礼 拝 次 第 (日)ヨハネ 十七章 (月) 〃 十八章
司会 高 澤兄(火) 〃 十九章 (水) 〃 二十章
奏楽 内 間姉(木) 〃 二一章 (金)使徒言行録 一章
招詞祈祷 箴言三章五~七節 (土) 〃 二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五五番 ◎二五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後責任役員会。
交 読 文 詩 編百三三編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌四〇三番
献 金 感謝の祈り 堅田姉
讃 美 聖 歌六九九番 あなたは、折り取られた枝に対して
説 教 ローマ十一章十六~二四節 誇ってはなりません。誇ったところで、
讃 美 聖 歌九三番 あなたが根を支えているのではなく、
祈 祷 松田兄 根があなたを支えているのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十一章十八節
教会とイスラエルの関係
16節の前半は、民数記15章20~21節で言われている「初物の麦粉」のことである。これで意図されているのは、初物、すなわち最も良いものを捧げるということではなく、収穫の初物を神に捧げることによって、その後のものもすべてきよくされるということである。これは週の最初の日を礼拝を通して神に捧げることによって、後に続く六日間も神にあるものとして生活できることに通じる。
17~24節は、「接ぎ木」の比喩を用いて、イスラエルと異邦人の関係を明らかにする。パウロがここで言っている「接ぎ木」は通常の接ぎ木の方法と反対である。普通は、悪い台木に良い枝を接ぐのである。これはある人が言うように、パウロが接ぎ木をよく知らなかったからではなく、まさに異邦人が救われているのは、あり得ない接ぎ木のようなものであるということ。このように私たち異邦人が救われるということは、不思議・不可解としか言いようのない驚くべき神の愛、キリストの恵みなのである! このことを私たちはしっかりと自覚しなければならない。そこでパウロはユダヤ人たちに対して誇ってはならない(18節)と言い、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節)と警告する。それは19節にあるように、「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためであった」と、まるでそれが当然であるかのように思い上がる異邦人キリスト者がいたからである。「思い上がらず、恐れる」ということは、いつも謙遜であるということである。なぜなら私の信仰が私を救うのではなく、キリストの真実(の御業)が私を救うのだから。だからここで信仰にとどまると言われず、「神の慈しみにとどまるかぎり」(22節)と言われている。枝が実を結ぶのは、「根からの養分を受けているから」(17節)であることを忘れてはならない。
この箇所の一連の論述を通してパウロが強調しているのは、9章4~5節で触れられたイスラエルに与えられた神の選びと約束は決して揺るがず、キリスト教会は、自分たちを新しいイスラエルと規定して、イスラエルを無視し過去のものと見なしてはならないということ。キリスト教会はどこまでも神の選びと約束に支えられたイスラエルの歴史に接続するものとしてだけ存在する。本来切り取られた枝が接ぎ木されることはないが、神の御言葉の真実のゆえに(9章6節)、イスラエルの回復をパウロは確信する。