稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2019年03月31日 | 週報
二〇一九年三月三一日  NO・四五ー五三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅰ歴代誌   十八章(月) 〃   十九章
        司会 高 澤兄(火)  〃    二十章(水) 〃   二一章
        奏楽 内 間姉(木)  〃    二二章(金) 〃   二三章
招詞祈祷  詩編百十九編七一~七二節  (土)  〃    二四章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番        ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より教会総会です。
交 読 文  詩 編 八六編           
讃  美  讃美歌三六七番         
献  金  感謝の祈り      高澤姉
讃  美  聖 歌五七六番         わたしは、こう祈ります。
説  教  フィリピ一章七~十一節    知る力と見抜く力とを身に着けて、
讃  美  讃美歌三二一番        あなたがたの愛がますます豊かになり、
祈  祷            みつ子師 本当に重要なことを見分けられるように。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 フィリピ一章六節

   パウロの祈りーー愛が豊かになるように
 3~6節で述べられたパウロのフィリピの信徒たちに対する神への感謝と喜びの祈願、また救いの完成の確信の理由が、7節で述べられている。それは「私の恵みに共にあずかる者」(直訳)だからである。この「私の恵み」とは、具体的には「監禁されている」こと「福音を弁明し立証する」ことである。1章29節でパウロは「あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と述べている。「キリストの恵み」は豊かな内容を持つが、その中に「キリストのために苦しむ」ことも含まれていることを、ここから知らされる。パウロはキリストのための苦しみを「恵み」と呼ぶ! そしてその恵みにフィリピの信徒も「共にあずかる(参与・交わり)」ゆえに、パウロの喜びと感謝、そして確信は揺るがないのである。

 8節には、パウロがフィリピの信徒を愛した愛し方が記されている。それは「キリスト・イエスの愛の心で」愛した、と。人間の愛では、「あなたがた一同(すべて)」を愛することは不可能である。またこの言葉は決して、パウロがキリストの愛をまねて、あるいはその心持で愛したと言っているのではない。それもまた不可能である。これはⅡコリント5章14節に「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」とあるように、キリストの愛によって生み出されるものである。ここにキリスト者の愛の秘訣がある。

 9~11節は祈りである。パウロが愛する者のために最優先することは祈ることであり、また最善の行為は祈ることであることを知っていた。その祈りの内容は、「あなたがたの愛がますます豊かになる」ことである。人間は皆、愛に飢え渇いている。それ故、見せかけの愛や、打算的な愛などに惑わされる。しかし私たちキリスト者は、キリストの愛を知り、その愛によって生かされている。そしてキリストの愛を知った者は、愛することが生きることであり、真に生きるとは、愛することであることを知るのである。ここでパウロは愛と「知る力と見抜く力」を結び付けている。愛は、愛する者に深い関心を抱く。つまり神の御心を絶えず思い、事あるごとに見分け察知するのである。そのようなキリスト者の生の歩みは、キリストの日への備えとなる。同時にそれはキリストの義の実にあずかることでもある。
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2019年03月24日 | 週報
 二〇一九年三月二四日  NO・四五ー五二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅰ歴代誌   十一章(月) 〃   十二章
        司会 みつ子師(火)  〃    十三章(水) 〃   十四章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    十五章(金) 〃   十六章
招詞祈祷  イザヤ四三章一~三節    (土)  〃    十七章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番        ◎二八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より責任役員会。
交 読 文  詩 編 八五編        ◎本日、教会学校の教師会を開きます。    
讃  美  讃美歌三六五番          ◎本日(日)お花見愛餐会を予定しています。    
献  金  感謝の祈り      豊口姉 ◎三一日(日)午後一時より教会総会です。  
讃  美  聖 歌五七六番         あなたがたの中で善い業を始められた方が
説  教  フィリピ一章三~六節     キリスト・イエスの日までに、
讃  美  聖 歌六三〇番        その業を成し遂げて下さると、
祈  祷             志村姉 わたしは確信しています。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 フィリピ一章六節
   
   なぜパウロはどんな中でも喜び・感謝できるのか
 冒頭の挨拶を終えて、最初に記されている言葉は「私は感謝します、神に」である。何を?「あなたがたを思い起こす度に」と。フィリピの信徒は皆、それほど素晴らしい人々だったのか?そうではないだろう。私たちとそれほど大差ない信仰者であったろう。ではなぜパウロは彼らを思い起こすと時、いつも感謝が溢れたのか?その理由が5~6節で述べられている。

 4節に「喜び手紙」と呼ばれるこの手紙において「喜び」という語が初めて出てくる。「いつも喜びをもって祈っています」という形で。ここで「祈り」と訳されている語は、嘆願、つまり欠乏を覚えて助けを求める祈りを指す。だからある人は「喜んで窮乏を告白する」と読む。窮乏の中で喜んで祈ることができる秘密は、やはり5~6節にある。フィリピの信徒は、獄中のパウロを心配して心を痛めていた。そのような彼らに向って、獄中のパウロが手紙の最初で告げたかったことは、私は今、喜び感謝している、だからあなたがたも喜びなさい、ということであった。

 5節は、フィリピの信徒の過去と現在に言及している。パウロの感謝と喜びの理由は、「彼らが福音にあずかっている」からである。パウロにとって、彼らが主イエスの救いの福音にあずかっているという事実は、たとえ彼らのそして自分の現状がどのようであろうとも、感謝と喜びを失わせない。「あずかっている」と訳されている語は、「交わり(コイノニア)」という語であり、ある人は「参与」と訳している。それゆえここには、彼らのパウロに対する援助やとりなしの祈りも含まれている。その意味で、「参与」とも訳せる。私たちはいろんな形で福音宣教のために協力することができる。

 6節は、私たちの将来に目を向けさせる。そしてこれこそパウロの喜びと感謝の決定的な源泉である。それは「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を完成してくださる」からである。限られた時間しか生きられない私たちの人生は、部分的、断片的としか言えない。たとえどんなに素晴らしい人生であっても。しかしそれは必ず主イエスの日に完成する。この希望に支えられて、私たちは悔いることなく私たちの人生を顔を上げて歩むことができる。
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2019年03月17日 | 週報
 二〇一九年三月十七日  NO・四五ー五一       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅰ歴代誌   四章(月) 〃   五章
        司会 高 澤兄(火)  〃    六章(水) 〃   七章
        奏楽 内 間姉(木)  〃    八章(金) 〃   九章
招詞祈祷  出エジプト十九章三~六節  (土)  〃    十章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十 番        ◎二一日(木)の祈祷会はお休みです。
主の祈り                 ◎本日午後一時より「聖書入門」の学びです。
交 読 文  詩 編 八四編        ◎二四日(日)お花見愛餐会を予定しています。    
讃  美  讃美歌三六一番            予 告  
献  金  感謝の祈り      堅田姉  ◎三一日(日)午後一時より教会総会です。  
讃  美  聖 歌五七六番         キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから
説  教  フィリピ一章一~二節     フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれている
讃  美  聖 歌四九九番        すべての聖なる者たちへ。
祈  祷             坂本兄 恵みと平和があるように。
  頌栄祝祷  聖 歌三八三番           フィリピ一章一・二節

                  
     挨拶に込められた福音(喜びの使信)
 今日からフィリピの手紙に聴いていきます。フィリピ(現在のギリシア)は、当時マケドニア州の第一の都市でした。使徒言行録16章に記されているように、パウロの第二次伝道旅行中に、アジア州(現在のトルコ)から船で渡り、ヨーロッパに入って初めて伝道した所です。そこで紫布の商人ルディア、占いの霊に取りつかれていた女奴隷、そしてパウロが投獄された所の看守が救われた。

 パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷」と自己紹介している。当時ローマ社会には多くの奴隷がいた。奴隷は主人の財産であり、主人の命令に服する者である。パウロは社会的にはローマの市民権を持つ自由人であった。それにもかかわらず、パウロは自分を「奴隷」と告白する、「キリスト・イエス」の。つまり、私の主人はキリスト・イエスであり、私はキリストの所有であり、彼の言うことに従う者だ、と。パウロにとって自分をこのように呼ぶことは決して恥ではなく、むしろ誇りであり、感謝と喜びであった。なぜなら、キリストによって、パウロは罪と死の奴隷から、その他の自分を縛る様々のものから解放されたからである(ガラテヤ5章1節)。ここでパウロは、自分が真にキリストの奴隷であるので、他の何ものの奴隷になることは不可能であることを表明しているのだ。では、私たちもパウロと共に、自分を「私はキリスト・イエスの奴隷です」と、誇りと喜びを込めて言うことができるか?

 自分をキリストの奴隷と言ったパウロは、フィリピの信徒を「聖なる者」と呼ぶ。それは、私たち自身の性質や行動が聖いということではない。「キリスト・イエスに結ばれて」が付け加えられているのを見落としてはならない。誰一人、キリストを離れて聖なる者ではない。「聖なる者」とは、神の寵愛ものとして聖別されている存在をいう。キリストにあって私たちはそのような者とされている!

 たった2節の中に、三度も「キリスト・イエス」の言葉が記されている。パウロはキリストのもの(奴隷)であり、キリストにあって神のもの(聖なる者)であるキリスト者には、この地上では決して見いだせない「恵みと平和」が注がれているし、注がれ続けることを祝福の祈りに込めている。ここに、獄中で書かれた4章からなるこの手紙の中に「喜び」という語が十四回も出てくる秘密がある。
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2019年03月10日 | 週報
二〇一九年三月十日   NO・四五ー五十       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅱ列王記   二二章(月) 〃  二三章
        司会 みつ子師(火)  〃    二四章(水) 〃  二五章
         奏楽 内 間姉(木)Ⅰ歴代誌    一章(金) 〃   二章
招詞祈祷  哀歌三章二二~二四節    (土)  〃     三章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番        ◎十四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より責任役員会。
交 読 文  詩 編 八三編           予告
讃  美  讃美歌三五五番          ◎三一日(日)午後一時より教会総会です。      
献  金  感謝の祈り      平林姉  
讃  美  聖 歌五七六番           恵みが、
説  教  エフェソ六章二一~二四節   私たちの主イエス・キリストを愛する
讃  美  聖 歌四八七番        すべての人々と共に、         
祈  祷             高澤兄 朽ちることなく[あるように]。(岩波訳)
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               エフェソ六章二四節
  
     神の恵みは絶えることなく注がれている
 パウロが捕らえられていることは、エフェソの信徒たちに知らされていた。彼らは、パウロの身を案じていた。そこでパウロは、この手紙と共にティキコを遣わした。それは「わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたに知ってもらうために、ティキコが話す」(21節)ためである。パウロはティキコを「主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者」と紹介している。どのような人物を遣わすかは重要な事である。パウロのそばにいる者なら誰でも良いというわけにいかない。どのように伝えるかによって大きな違いが起こる。事実に基づいた正しい情報とは、特に人に関することは、単に外面に見える状態を伝えることではない。例えば、今パウロは、兵士と鎖でつながれ、いつも監視され、自由が全くありません、と伝えるのは外面的な事実であろう。しかしそれがすべてではない。それ以上に、パウロはそのような中にあっても落胆しておらず(3章13節)、生き生きとして感謝しており、福音のために日夜励んでいます、と伝えることが正しく情報を提供したことになるだろう。パウロは現実の苦難に圧倒されていない。事実、パウロは23節で「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心の励ましを得るため」である、と述べている。どんなに困難な状況に置かれていても、それだけを見るのではなく、その中でキリストの恵みを覚えることができることこそ、キリスト者の特権である。個人であれ、教会であれ、直面する課題の中で、その外面的事実だけに捕らわれず、その中で信仰によってなお神の恵みを覚えることができるかでは、天地の違いがある。

 23~24節、手紙の最後を祝福の祈りで結ぶ。パウロは「平和」と「信仰に伴う愛」が、父なる神と主イエス・キリストからいつも与えられることを祈らずにおれない。2章14で述べているように、キリストによる愛が、私たちに平和をもたらすのである。信仰によってキリストの愛に満たされる所に、平和が生まれるのである。最後にパウロは、「恵み」が常に変わらず(直訳は「朽ちることなく)あるようにと祈る。神の、キリストの恵みこそが、私たちの生活を支えるすべてである。それは決して絶えることはない。パウロは手紙の初めから私たち与えられているこの神の恵みを讃えている(1章6~8節)。
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2019年03月03日 | 週報
 二〇一九年三月三日   NO・四五ー四九       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅱ列王記   十五章(月) 〃  十六章
        司会 高 澤兄(火)  〃    十七章(水) 〃  十八章
          奏楽 内 間姉(木)  〃     十九章(金) 〃  二十章
招詞祈祷  詩編四六編二~四節     (土)  〃    二一章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番        ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 八二編           予告
讃  美  讃美歌三五四番          ◎三一日(日)午後一時より教会総会です。      
献  金  感謝の祈り      高澤姉  
讃  美  聖 歌五七六番         しっかりと立つことができるように、
説  教  エフェソ六章十三~二十節   神の武具を身に着けなさい。
聖 餐 式                 どのような時にも、「霊」に助けられて……
讃  美  聖 歌五八八番   みつ子師 絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番              エフェソ六章十三・十八節
   
   私たちには神の武具が備えられている
 パウロは二度も「神の武具を身に着けなさい」(11・13節)と言う。それは神の武具を持ってする以外に「悪魔の策略」に対抗することはできないからである。神の武具が六つ記されている。「真理・正義・平和の福音・信仰・救い・神の言葉」である。今これら一つ一つの意味を説明することはできない。ただ言えることは、これらは主イエス・キリストによってもたらされるものであり、別個のものではなく、キリスト内にあるものである。そしてそれが恵みによって私たちキリスト者のために用意され与えられているのである。それは私たちキリスト者の手元にあり取ることができる。

 最初の五つは「防護」を主とする。その中で「信仰」は特別に強調されているーー「その上に」という言葉を添えてーー。防護の最後は「救いの兜」である。私たちは今すでに頭に燦然と輝く「救いの兜」をかぶっているゆえに、悪魔のどんな策略も防ぐことが可能であり保証されているのである。

 神の武具の内、六つ目の「霊の剣、すなわち神の言葉」だけが攻撃の武器である。防ぐだけでなく、最終的に悪魔の策略を打ち破るのは「神の言葉」である。人間の知識や知恵の言葉ではない。事実、主イエスご自身でさえ、「荒野の試み」において、ただ「神の言葉」を用いて悪魔を撃退された。私たちも聖書の御言葉に支えられ、励まされ、また諭されることによってだけ、悪魔の放つ疑い・不信・安楽に打ち勝つことができるのである。

 18節に「祈り」が加えられている。なぜか。祈りこそ「神の武具」を十分に活用させることができるからである。どんなに蓄えた聖書の知識も、信仰の恵み深い経験も、今、目の前の戦いに真の意味で役に立たない。ただ祈りを通してその時に神との交わりを通して新たに与えられる力・助けが必要なのである。ここに記されているように、祈りは、「どんな時にも、絶えず、目を覚まして、根気よく」祈るものでなければならない。それは私たちに可能か?それゆえパウロは「聖霊助けられて」と言う!

 パウロは自分のためにとりなしの祈りを要請している。パウロほどの人が!パウロだからこそ、とりなしの祈りの力を知っていたのである。とりなしの祈りの力を覚えて、私たちもそれに励もう!
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