二〇二四年二月二五日 NO・五十―四八 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)マルコ 一章 (月) 〃 二章
司会 松 田兄(火) 〃 三章 (水) 〃 四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 五章 (金) 〃 六章
招詞祈祷 申命記三十章十一~十四節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二一番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後責任役員会。
交 読 文 詩 編百二五編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四二五番 では、何と言っているでしょうか。
説 教 ローマ十章五~八節 「言葉はあなたのすぐ近くにあり、
讃 美 聖 歌四六三番 あなたの口に、あなたの心にある。」
祈 祷 志村姉 これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章八節
なぜ律法による義ではなく信仰による義なのか
5~8節は、4節の「キリストは律法の終わりである」という力強い宣言の説明である。
5節はレビ18章5節の引用であるが、自由に改変していて「すなわち、モーセは律法からの義について、『それを行う人は、その中で生きるであろう』と書いてある」(田川訳)と言う。これは4節のアンチテーゼとして言われたのである。律法を行うことによって義とされようとする者は、「その中で生きる」と。「その中」とは、律法の支配する領域(世界)に留まり続けることである。律法の領域はヤコブが言っているように「律法全体を守ったとしても、一つでも過ちを犯すなら、すべてにおいて有罪となる」(ヤコブ2章10節)世界である。それゆえ「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(3章20節)し「律法の下にある者は……神の裁きに服する」(3章19節)以外にない。だから神は「律法を離れて……神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現された」(3章21~22節)のである。
6~8節でパウロは、5節の「律法による義」に代わる「信仰による義」について語る。ここの聖書の引用は、申命記30章11~14節から部分的に切り取って大胆に引用している。「誰が天に上るのか」(申命記30章12節)と「誰が、底なしの淵に下るのか」(申命記30章13節)と言うことは、キリストの御業すなわち「昇天と陰府降下を否定する。律法を熱心に行うことによって、天の高みへ、また地の深みへ行くことは誰にもできない。だから「律法による義」は成立しないのである。ただ主イエス・キリストだけが私たちに代わってそこに行かれた。つまり今やすでにキリストは天におられて救いを完成しておられ、また一度限りの十字架の死によって罪の断罪は成就している。そして8節で申命記30章14節を引用して、キリストによる救いは、すべての人に身近に備えられていること強調している。これが福音である。
パウロはここまで繰り返し「律法による義」と「信仰による義」と対置した。宗教的人間は、律法の領域から脱け出せない。そこからは高慢か自己卑下しか生まれない。そしてそれは到底「神の義」には到達できないのである。神の義は福音の中に、すなわちキリストの御業(=信仰からの義)によって信じる者すべてに与えられる。そこに高慢と自己卑下から解放された自由の喜びがある。
礼 拝 次 第 (日)マルコ 一章 (月) 〃 二章
司会 松 田兄(火) 〃 三章 (水) 〃 四章
奏楽 内 間姉(木) 〃 五章 (金) 〃 六章
招詞祈祷 申命記三十章十一~十四節 (土) 〃 七章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二一番 ◎二九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日午後責任役員会。
交 読 文 詩 編百二五編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 豊口姉
讃 美 聖 歌四二五番 では、何と言っているでしょうか。
説 教 ローマ十章五~八節 「言葉はあなたのすぐ近くにあり、
讃 美 聖 歌四六三番 あなたの口に、あなたの心にある。」
祈 祷 志村姉 これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章八節
なぜ律法による義ではなく信仰による義なのか
5~8節は、4節の「キリストは律法の終わりである」という力強い宣言の説明である。
5節はレビ18章5節の引用であるが、自由に改変していて「すなわち、モーセは律法からの義について、『それを行う人は、その中で生きるであろう』と書いてある」(田川訳)と言う。これは4節のアンチテーゼとして言われたのである。律法を行うことによって義とされようとする者は、「その中で生きる」と。「その中」とは、律法の支配する領域(世界)に留まり続けることである。律法の領域はヤコブが言っているように「律法全体を守ったとしても、一つでも過ちを犯すなら、すべてにおいて有罪となる」(ヤコブ2章10節)世界である。それゆえ「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(3章20節)し「律法の下にある者は……神の裁きに服する」(3章19節)以外にない。だから神は「律法を離れて……神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現された」(3章21~22節)のである。
6~8節でパウロは、5節の「律法による義」に代わる「信仰による義」について語る。ここの聖書の引用は、申命記30章11~14節から部分的に切り取って大胆に引用している。「誰が天に上るのか」(申命記30章12節)と「誰が、底なしの淵に下るのか」(申命記30章13節)と言うことは、キリストの御業すなわち「昇天と陰府降下を否定する。律法を熱心に行うことによって、天の高みへ、また地の深みへ行くことは誰にもできない。だから「律法による義」は成立しないのである。ただ主イエス・キリストだけが私たちに代わってそこに行かれた。つまり今やすでにキリストは天におられて救いを完成しておられ、また一度限りの十字架の死によって罪の断罪は成就している。そして8節で申命記30章14節を引用して、キリストによる救いは、すべての人に身近に備えられていること強調している。これが福音である。
パウロはここまで繰り返し「律法による義」と「信仰による義」と対置した。宗教的人間は、律法の領域から脱け出せない。そこからは高慢か自己卑下しか生まれない。そしてそれは到底「神の義」には到達できないのである。神の義は福音の中に、すなわちキリストの御業(=信仰からの義)によって信じる者すべてに与えられる。そこに高慢と自己卑下から解放された自由の喜びがある。