稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2018年09月30日 | 週報
 二〇一八年九月三十日  NO・四五ー二七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)申命記   二一章 (月) 〃   二二章
       司会 みつ子師(火)  〃   二三章(水)  〃  二四章
        奏楽 内 間姉(木)  〃    二五章(金)  〃  二六章
招詞祈祷  イザヤ四三章十~十五節   (土)  〃   二七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条        ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二四番     ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り              ◎十月八日(月・祝)幸手教会にて秋期聖会。
交 読 文  詩 編 六五編     ◎十四日(日)竹田広志師(勝田台教会牧師)をお招きして
讃  美  讃美歌三一〇番        特別伝道礼拝です。
献  金  感謝の祈り     高澤姉  ◎オアシス稲毛39号発行。
讃  美  聖 歌三三八番          あなたがたもまた、キリストにおいて、
説  教  エフェソ一章七~十四節    真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、
讃  美  聖 歌一一二番        そして信じて、約束の聖霊で
祈  祷             坂本兄 証印を押されたのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                  エフェソ一章十三節
   
   三位一体の神による救いへの讃歌
 3~14節の「神讃歌」の理解を助けるために、三つに分ける。①3~6節では、父なる神の永遠の「選び」と私たちを神の子とする「予定」について語られる。②4~12節では、子なるイエス・キリストの「贖い」による「罪の赦し」(7節)、さらに万物をキリストにあって一つにまとめ(すなわち万物の救いの完成)(10節)、そして御国の「相続人」(11節)とされたと語られる。③13~14節では、聖霊によって、神が私たちの霊的祝福(完全な救い)を予定し、子なるキリストがそれを成就したことの「証印」(13節)を押され、またその保障として与えられたと語られる。

 以上の分類によって、万物救済についての神の御心の奥義が三位一体の神によってなされることが明らかにされる。さらにそれぞれの終わりに、その救いに預かる私たちが「神の栄光をたたえる」(6・12・14節)という言葉が添えられている。もう一つの特徴は、十一回も「キリストにあって(in Christ)」 ーその中には「彼にあって」等という形を含むがーという言葉が用いられていることである。ここから神が計画された救いをキリストがすべて実行し成就されたことが強調されている。さらに言えば、4節の「愛において」(直訳)と共に、「恵み」という言葉がー「輝かしい恵み(6節)、「豊かな恵み」(7節)「これ(恵み)をあふれさせ」(8節)ーが記されている。この救いの御業はすべて神の恵みによるのである。

 新共同訳で「秘められた計画」(9節)と訳されている語は、直訳すれば「彼の(神の)御意志の奥義」であるが、天地創造の前から持っておられた秘められた神の御心は、キリストの出現により、その御業(中心は十字架・復活)によって私たちに明らかにされた(啓示)。そしてキリストが救いの成就者・完成者であることを、聖霊が私たちに明らかにして下さるのである。

 3~14節の長文で一気に語られた神讃歌の内容は、理解するのは容易ではない。しかしここでパウロは、神の深遠な救いの計画が、キリストを通してすでにこの世界にもたらされており、今なお世界は悲劇の中にあるか、聖霊によって信じる者には救いの保証が与えられていることを告げるのである。
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週報

2018年09月23日 | 週報
 二〇一八年九月二三日  NO・四五ー二六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)申命記   十四章 (月) 〃   十五章
         司会 みつ子師(火)  〃   十六章(水)  〃  十六章
          奏楽 内 間姉(木)  〃    十八章(金)  〃  十九章
招詞祈祷  詩編百三六編一~四節    (土)  〃   二十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二三番        ◎二七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎二四日(月・祝)午前十時半より一日親睦会。
交 読 文  詩 編 六四編         ◎十月八日(月・祝)幸手教会にて秋期聖会。
讃  美  讃美歌三〇七番       
献  金  感謝の祈り      平林姉  わたしたちの主イエス・キリストの
讃  美  聖 歌三三八番         父である神は、ほめたたえられますように。
説  教  エフェソ一章一~六節     神は、わたしたちをキリストにおいて、
讃  美  聖 歌四八一番        天のあらゆる霊的な祝福で
祈  祷             志村姉 満たしてくださいました。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                  エフェソ一章三節
   
   神への讃美ーー選びと予定
 1~2節は、手紙の挨拶である。差出人のパウロは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」と自己紹介する。「神の御心によって」言葉によって、彼が使徒となったのは、自分の意志ではなく、神の意志であることを自覚し表明している。パウロはいつも宛先のキリスト者を「聖なる者」と呼ぶ。パウロは、キリストを信ずる人は、皆、聖徒であると確信している。そしていつものように「恵みと平和」を祈ることを忘れない。「恵み」はパウロの特愛の語である。

 3~14節は、長い一文である。パウロは切れ目なく、次から次へと神への讃美を語り続ける。彼は獄中にいたのだが、神へのあふれる讃美なしに、手紙を書き進めることができないのである。私たちはどうであろうか。目覚めて一日のスタートに、どんな思い・言葉が出てくるだろうか。

 14節までに「イエス・キリスト」という名が何度も何度も出てくる。パウロは、私たちのために神がなしてくださった御業をほめたたえているのだが、それらはすべてイエス・キリストを通して、私たちにもたらされたものであることを明確にしている。パウロは「イエス・キリストの『使徒』」なのである。

 讃美と感謝の理由は、以下、すべてキリストにおいて(あって、通して)①「天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さった」(3節)。これは以下にあげられることの総称と理解することもできる。②「天地創造の前に私たちを聖なる者、汚れのない者にしようと選んでくださった」(4節)。何という事であろう! あまりに深遠すぎる! ③私たちを「神の子にしようと前もって定められた」(5節)。

 5節までで特徴的なのは「選び」「予定」である。パウロは先ず、私たちがキリストを通して「神の子」とされたこと、そして「聖なる、汚れのない者」として天の霊的祝福に与る者とされていることを思い起こし、神を讃美するのである。これは、実際は主イエスの御業によって成就し、私たちにもたらされたのであるが、神のおいては、私たちが存在する以前、天地創造の前から、すでに神は、私たちを選び、そのように定められたというのである。ここに私たちの救いの確かさ、絶対性がある! 6節でパウロはこのことを「愛する御子によって与えられた輝かしい恵み」と呼んで、神を讃美する。
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2018年09月16日 | 週報
 二〇一八年九月十六日  NO・四五ー二五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第      (日)申命記    七章 (月) 〃    八章
        司会 高 澤兄(火)  〃    九章(水)  〃   十章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    十一章(金)  〃  十二章
招詞祈祷  詩編三二編一~二節     (土)  〃   十三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条       ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二二番    ◎二十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り             ◎本日午後一時より「ボンヘッファーの学び」です。
交 読 文  詩 編 六三編    ◎本日午後責任役員会。
讃  美  讃美歌三〇一番    ◎二四日(月・祝)午前十時半より一日親睦会。 
献  金  感謝の祈り      堅田姉
讃  美  聖 歌三三八番        わたしの兄弟たち、……
説  教  ヤコブ五章十九~二十節    罪人を迷いの道から連れ戻す人は 
讃  美  聖 歌四二九番        その罪人の魂を死から救い出し、
祈  祷            みつ子師 多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ヤコブ五章十九・二十節
   
信仰から迷い出た者への奉仕
 直前の箇所(13~18節)で、ヤコブは、苦しむ者、病気の者に対する祈りの力を示した。私たちは誰でも、外面的な苦難・病気については、敏感である。それらに出くわすと私たちは何とかして脱出・解放されようと必死になる。しかし魂、霊的なことについてはどうだろうか。私たちはそのことに対してかなり鈍感である。実はそれは病気などよりはるかに恐ろしい敵である。そこでヤコブは、手紙の最後の最後にこの事柄を取り上げて、私たちがそのために十分配慮するように勧める。

ここでヤコブは真理から「迷い出た」(19節)と表現する。確かに私たちは、自分の身の回りに起こること、また社会で起こる様々な事を通して、信仰が揺さぶられることがある。そしてついに迷路に入り込むことがある。悲しいことに、ひとたび主イエスを知り、その恵みの救いに与りながら、そこから離れ行く人のあるのは事実である。ヤコブは、私たちに実際に迷い出た者を連れ戻す働きをするように勧める。しかしそれはヨブの友人のような態度であってはならない。なぜならそれは他人事ではなく、自分を含め誰でもその危険があることを忘れてはならない(Ⅰコリント10章12節)。

そのような存在であるにもかかわらず、この勧めが与えられているのは、それが何よりも大きな事柄だからである(ルカ15章7節)。まさに主イエスはそのためにこの世に来て人となられ、その命さえも与えて、罪の中に迷い出ていた私たちを神のもとに連れ戻して下さったのである。そしてその奉仕のために、私たちのような者も招かれ召されている、とヤコブは言う。

しかし私たちは思う。そのような力・愛・信仰が、私たちのどこにあるのか、と。またいかにすべきかを知らないのである。しかし神は私たち一人一人にふさわしいタラントを与えておられる(マタイ25章14節以下)。それを土に埋めて無駄にしてはならない。そして20節の「罪人の魂を死から救い、多くの罪を覆う」という出来事は、迷い出た人にだけ当てはまるのではない。私たちは人を助けることによって自分をも助けるのである。愛は注げば注ぐほど減るのではなく豊かにあふれるのである。
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2018年09月09日 | 週報
 二〇一八年九月九日   NO・四五ー二四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)民数記   三六章 (月)申命記  一章
         司会 みつ子師(火)  〃    二章(水)  〃   三章
           奏楽 内 間姉(木)  〃     四章(金)  〃    五章
招詞祈祷  詩編三二編三~五節     (土)  〃    六章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条      ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二一番    ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り             ◎「天路」の原稿をよろしくお願いします。
交 読 文  詩 編 六       ◎「ヨハネによる福音書説教要旨」が完成しました。     
讃  美  讃美歌二九八番         
献  金  感謝の祈り      豊口姉
讃  美  聖 歌三三八番        信仰に基づく祈りは、病人を救い、
説  教  ヤコブ五章十三~十八節   主がその人を起き上がらせてくださいます。 
讃  美  聖 歌二五六番       その人が罪を犯したのであれば、         
祈  祷            高澤兄 主が赦してくださいます。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ヤコブ五章十五節
   
祈りという特権・賜物
 ヤコブが手紙の結びにあたり、最後に私たちに告げるのは「祈り」である。

 これまで語られたヤコブの様々な勧告を実行するために必要なものは、信仰の土台というべき「祈り」である。「祈りは霊の呼吸である」と言われる。私たちは呼吸しないと生きられないように、信仰生活は、祈りなしに片時もなりたたない。また私たちが、主イエス・キリストの御名によって神に祈ることができるというのは、特権であり賜物であるー祈りのある生活、神に呼びかけて暮らす歩みー。

 13節の「苦しんでいる人」と「喜んでいる人」を、別の人・別の事柄と取る必要はない。苦しみの中で、なお状況が厳しい中でも祈ることによって、平安や喜びは与えられ起こるのである。

 14節以下で言われている具体的な指示は、ー油を塗って祈ってもらうー現代の教会に馴染みがない。当時オリーブ油は、医薬として用いられていた。信仰による祈りと共に、人々が薬として重んじていたものを併用することにより、病んでいる人を力づける効果があったのである。

 次に「長老を招いて」(14節)「信仰に基づく祈り」(15節)「正しい人の祈り」(16節)は誤解しやすい。つまり特別に信仰深い人の祈りには効果があるが、そうでない人の祈りは効果がないと思いやすい。しかし肝心なのは、「主の名によって」(14節)「主がその人を起き上がらせてくださる」(15節)と言われていることである。だから祈りにおいて顕著な働きをしたエリヤを例にして「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」(17節)と付け加えるのである。「正しい人の祈り」→ルカ18章9節以下を参照。

 16節の「罪を告白し合い」も現代の教会において通常のことではない。これは非常に難しく微妙な事柄である。元々、キリスト者であるということは、自分が立派な者であるとか、プライドを保つということから解放されて、主イエスにあって罪赦されて救われたことを自覚する者である。罪を告白し合うことによって培われる謙遜が重要であることを、この勧めから学ぶ必要がある。
 「ヤコブは祈りの力が大いなることを心の底から確信している」(シュナイダー)のである。
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2018年09月02日 | 週報
 二〇一八年九月二日   NO・四五ー二三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)民数記   二九章 (月) 〃 三十章
          司会 高 澤兄(火)  〃   三一章(水)  〃 三二章
          奏楽 内 間姉(木)  〃    三三章(金)  〃  三四章
招詞祈祷  詩編三七編一~六節     (土)  〃   三五章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十四番        ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎「天路」の原稿をよろしくお願いします。
交 読 文  詩 編 六一編        ◎本日は聖餐の恵みに与りました。     
讃  美  讃美歌二九一番         
献  金  感謝の祈り   高澤姉 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。
讃  美  聖 歌三三八番         あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、
説  教  ヤコブ五章七~十二節     主が最後にどのようにしてくださったかを
聖 餐 式                 知っています。主は慈しみ深く、
讃美祈祷  聖 歌六一五番    坂本兄 憐れみに満ちた方だからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ヤコブ五章十一節
   
   聖書の言う忍耐
 今日の箇所の7~11節に「忍耐・忍耐する」という語が六回も出来ることからも分かるように、ここの主題は私たちに忍耐することを強く勧めている。忍耐することについては、手紙の最初(1章2~4節)でも語られ、忍耐することができる人は、「完全で申し分なく、何一つ欠けるところのない人になり」(4節)ます、と告げられた。だからヤコブは、私たちが忍耐に生きるように勧めるのである。

 当時、キリスト者として生きるには苦難が伴った。その苦難は、すぐに過ぎ去るものではなく、ずっと続いたのである。そのような状況で、信仰が揺さぶられたのである。現代の私たちは、当時のような外的迫害はないかもしれない。しかし違う形で、私たちの信仰は揺さぶられ、試みられるのに変わりはない。そこで何よりも必要なのは忍耐であり、忍耐することなのである。

 聖書の忍耐とは、歯を食いしばってじっと我慢することではない。それは「心を固く保ち」(8節)、「不平を言わない」(9節)こととして現わされる。「心を固く保つ」とは、困難な状況に耐えられず動揺しないことである。1章5~8節で、試練の中で神を疑い、信仰が揺れ動く様が語られているが、その反対が「心を固く保つ」ことである。また私たちが日常生活の中で「不平を言う」ならば、忍耐のなさを露呈しているのである。

 そしてキリスト者が出口や光の見えない困難な中で、「心を固く保ち」「不平を言わず」にその状況を受け止めることができるのは、「主が来られる(再臨)」(8節)を知っているからである。主は再び来られて苦難を取り除いてくださることを信じる者は、待つことができる。農夫が収穫の時を待つように(7節)。さらにヤコブはヨブを引き合いに出して「忍耐した人たちは幸せだ」と言う。不平を言わずに心を固く保って困難を受け止め、最期まで耐え忍ぶ者は「主が慈しみ深く、憐れみに満ちた方」(11節)であることを経験する。「忍耐する」の語源は「大きく広い心を持つ」の意味である。信仰によって主イエスにしっかりと繋がった心は、苦難の中でもそれに飲み込まれず頭をもたげることができる。
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