稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2019年05月26日 | 週報
 二〇一九年五月二六日   NO・四六ー八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)エズラ   九章(月) 〃   十章
        司会 坂 本兄(火)ネヘミヤ  一章(水) 〃   二章
       奏楽 内 間姉(木)  〃    三章(金) 〃   四章
招詞祈祷  イザヤ四二章一~四節    (土)  〃     五章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三〇番        ◎三十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 
交 読 文  詩 編 九二編        
讃  美  讃美歌三八〇番         
献  金  感謝の祈り      高澤姉
讃  美  聖 歌三九二番         キリストは、神の身分でありながら、
説  教  フィリピ二章五~八節     神と等して者であることに固執しようと思わず、
讃  美  讃美歌一二一番        かえって自分を無にして、僕の身分になり、
祈  祷            みつ子師 人間同じ者になられました。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               フィリピ二章一・二節

   まことの神にしてまことの人なるキリスト
 5節は、4節までと6節以下の橋渡しをしている。
 
 6~11節は、「キリスト讃歌」と呼ばれ、初代教会で歌われていた讃美と言われる。この短い文章の中にキリスト教の神髄が表されている。それはイエス・キリストについての使信である。つまりキリストは誰であり、何をなさったか、について明らかにされている。

 6節は、主イエスが誰であったか、またあるか、を示す。最初に「キリストは、神のかたちであられた」(口語訳)と言われる。この意味は、キリストは神である、ということである。それはどんな時、どんな環境の変化によっても変わることがない事実を表す。例えば、人間は年齢によってまたは手足を失うことによって外見が変わっても人間であることは変わらないように、キリストは人間となられても神であるということは変わらない。しかしキリストは「神と等しい者であることに固執しようと思われ」なかった。「固執しようとは思わず」とは直訳すると「略奪品と見ない」である。つまり「神」として受けるべきあらゆる栄光や讃美に留まることにしがみつかれなかった、と言うのである。何と私たちは、本当にささやかな自分の名誉や功績を自慢し、しがみつくことか。しかしキリストは、しがみつくどころか、神としてのあらゆる栄光を放棄して、人間となられたのである!

 7節、「自分を無にして」という言い方は、他者に強いられてではなく、自発的にされたということ、それもただ人間になられただけでなく、自ら進んで「僕(奴隷)のかたちを取った」と。そして人類を救うために、人間の罪を負うて「十字架の死に至るまで」従順に仕えられたのである。

 6~8節が、証ししているのは、主イエス・キリストは、どこまでも完全に神であり、完全に人である、と。これが厳密にどのような事態なのか、私たちには理解できない。しかし神である方が人間となり、人類を救うために僕となり、自分のすべてを注いで与えて下さったのである。キリストはとこしえに神であり人間であられる。ここに神の愛が現わされ、キリストのへりくだり、謙遜が現わされている。キリストは、人のために神の栄光を捨て、人となり、そして救うために仕えられた。
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週報

2019年05月12日 | 週報
 二〇一九年五月十二日   NO・四六ー六       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅱ歴代誌   三一章(月) 〃   三二章
        司会 高 澤兄(火)  〃    三三章(水) 〃   三四章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    三五章(金) 〃   三六章
招詞祈祷  イザヤ三五章三~六節       (土)エズラ     一章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二三番        ◎十六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎次週は「聖書入門」の学びです。
交 読 文  詩 編 九一編     
讃  美  讃美歌三七〇番         
献  金  感謝の祈り      堅田姉    ひたすらキリストの福音に
讃  美  聖 歌一七〇番         ふさわしい生活を送りなさい。
説  教  フィリピ一章二七~三十節   あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、
讃  美  聖 歌五八一番        キリストのために苦しむことも、         
祈  祷            みつ子師 恵みとして与えられているのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               フィリピ一章二七・二九節

   キリストの福音にふさわしい生活
 27節「ひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」は、以下に語られる多くの勧めの「総括」というべき言葉である。「ひたすら」と訳されている言葉を口語訳や新改訳2017は「ただ」と訳しているが「一つの」という意味の語である。パウロは、この一語に「どんなことがあっても」「何が起ころうとも」キリストの福音にふさわしい生活しなさい、という強い思いを込めている。

 では、「キリストの福音にふさわしい生活をする」とは、どういうことか。これはキリスト者らしく生きなければというように律法的命令として受け取ってはならない。なぜなら「キリストの福音」とは、キリストが私たちを罪と死から救うために成し遂げて下さった恵みの御業である。つまり、律法の行いによらず、その福音を信じて私たちはその救いにあずかり、キリスト者となったのである。だから「福音にふさわしい生活」は、無条件で受け入れられ、愛されている救いの恵みを噛みしめて生きることである。自分の身になされた御業に感謝して生活することである。そこにこそ、キリスト者となる以前とは違う生き方、人々との接し方が生まれてくる。そしてそれは「福音の信仰のため」の戦いでもある。それは「信徒同士の一致」なくして成し遂げられない。私たちの信仰は、それを損なおうとする様々な力の危険に晒されている。教会は一丸となって、それに立ち向かうのであるが、その一致は、人間の努力によっては不可能であるが、聖霊が与えられ、働かれるので可能である。

 29節「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」は驚くべき言葉である。しかし私たちは、信じることができたのは恵みによると言えても、「苦しむことも恵み」とは、なかなか言えない。この世の君であるサタンは、キリスト者を何とかして自分たちの方へ引き戻そうと獅子ように働くので、キリスト者には苦難が必然的に伴うのである(使徒言行録14章22節)。しかしそれは有難くも授与された恵みである。ルターは「苦難はキリスト者の花嫁衣裳」と言った。また主イエスがマタイ5章11節で言われているとおりである。苦難を通して、私たちは神の国と市民としてふさわしく整えられるのである。苦難に耐える力は与えられる。
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2019年05月05日 | 週報
 二〇一九年五月五日    NO・四六ー五       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)Ⅱ歴代誌   二四章(月) 〃   二五章
        司会 みつ子師(火)  〃    二六章(水) 〃   二七章
         奏楽 内 間姉(木)  〃    二八章(金) 〃   二九章
招詞祈祷  詩編四三編五節       (土)  〃    三十章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 二二番        ◎九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 九十編     
讃  美  讃美歌一四七番         
献  金  感謝の祈り      平林姉    一方では、この世を去って、
讃  美  聖 歌一七二番         キリストと共にいたいと熱望しており、
説  教  フィリピ一章二一~二六節   この方がはるかに望ましい。
聖 餐 式                 他方では、肉にとどまる方が、
讃美祈祷  聖 歌五八五番    坂本兄 あなたがたのためにもっと必要です。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               フィリピ一章二三・二四節

   キリスト者にとっての生と死の意味
 パウロの「わたしにとって、生きることはキリスト」の一言に、パウロとキリストの関係の深さが表されている。さらにガラテヤ2章20節も同じである。このようにキリストとの一致に生きるパウロが続けて「死ぬことは利益」と言うのはなぜか。その理由は23節の「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」である。この世にいる、つまり「肉にとどまる」(24節)限り、完全な意味でキリストと顔と顔を合わせているのではないことをパウロは承知している。パウロにとって「生きるはキリスト」であるゆえに、完全なるキリストとの交わりが実現する「死が利益」なのである。だから自分の本心・熱望は、「世を去って、キリストと共にいたい」と告白する。

 本来「生と死」は大きな断絶である。生命の終わりである「死」は、生の損失であり利益ではない。だから生きている者で、何らかの理由で生きることに絶望しない限り死を熱望しない。しかしパウロにとって「生と死」の断絶、区別が解消されているような印象を受ける。それは、生と死をキリストというお方を基点に見ているからである。キリストの復活は、「死の廃止」を実現した。キリストにあって、もはや死は死ではなく、命があるのみである。私たちキリスト者は、その事を信じ知るゆえに、もはや死を恐れる必要はなくなった。ヨハネ11章25~26節にあるとおり!

 しかしパウロは自分の熱望を犠牲にして、生きる方を選ぶ。それは「あなたがたのためにもっと必要」(24節)だからである、と。ここに自分にとっての「利益」を失っても、福音の前進、信徒のために生きようとするパウロの愛が表されている。パウロの生きる動機は、自分のためではない。どこまでも「あなたがたの信仰の前進と喜びのため」(直訳)である。自分のため、すなわち自分の楽しみや満足のために生きることは、それが災害や傷病、老いなどのために実現できなくなると死を願う。しかし自分のためではなく、キリストにあって生きる意味を知る者は、外的・内的変化に右往左往させられない。これは偉大な使徒パウロだけのものではない。キリスト者は皆、キリストによって、そのような生涯へと召され招かれている。「わたしにとって生きるはキリスト、死は利益」と言える人生へと。
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