稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2020年06月28日 | 週報
二〇二〇年六月二八日  NO・四七ー十三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)エゼキエル   九章(月) 〃    十章
        司会 坂 本兄(火) 〃     十一章(水)  〃  十二章
          奏楽 堅 田姉(木) 〃     十三章(金)  〃  十四章
招詞祈祷  イザヤ五十章十節   (土) 〃     十五章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十四番        ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後、大掃除を予定しています。
交 読 文  詩 編 百二三編        ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌五三二番          
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌二九二番         隠れているもので、
説  教  マルコ四章二一~二五節    あらわにならないものはなく、
讃  美  聖 歌一九六番        秘められたもので、
祈  祷             高澤兄 公にならないものはない。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                マルコ四章二二節

   神の国のゆくえ
 今日の箇所は、マルコの譬え集の五つの中の第二(ともし火のたとえ)と第三(秤のたとえ)である。ここの主イエスの譬えは、一貫して「神の国」について語られているが、五つの譬えは、角度を変えて神の国を語り、私たちに神の国の福音のすばらしさを示そうとしている。

 21節は、当時の人々にとって、日常生活のありきたりの、また当たり前の光景である。しかしこれを主イエスは神の国の秘密(奥義)を表すために用いられる。22節は21節の譬えの意味を説明したものである。ともし火は、神の国の福音を指し、今は土の中の種のように隠れて見えないように見えるが、それは消すことも隠すこともされないともし火にように、照り輝く、と。これは私たちに大きな励ましを与え、希望を呼び覚ます。今、多くの人の無関心や無理解に直面していても、それはついにはあまねく人々を照らすのである。このように語って、主は23節「もし誰かが聞く耳を持っているならば聞きなさい」(直訳)と勧告される。簡単な譬えとみくびらず、その中に込められた真理を真剣に受け止めよ、と。

 24節からは第三の譬えだが、冒頭でさらに「聞くことを見よ」(直訳)と言って始められる。不思議な言い回しであるが、これは「聞き方」ではなく、聞いた内容を沈思黙想せよとの意を強調している。「秤のたとえ」は、マタイ7章2節では、人を裁くな、との連関で用いられているが、ここではあくまでも御言葉聞く(種を受け止める)ことの度合いについて言われている。25節は、その結果として、御言葉を真剣に受け止めて生きれば生きるほど、三十倍、六十倍、百倍とますます豊かに実を結ぶということを約束し、強調している。そして最後の言葉は、警告である。光を消すような愚かなことをするな、御言葉に聞くことを軽んじるな、真剣に受け止めよ、との警告である。
 
 私たちはマルコがここでまとめた主イエスの御言葉が、マタイでは別の場面に出てくることを知る。21節は、マタイ5章15節、22節は、マタイ10章26節、24節は、マタイ7章2節、25節は、マタイ25章29節である。これによって、同じ御言葉であっても、用いる文脈によって、その意味やニュアンスが変わるのを知る。それほど主イエスの伝える神の国は、汲み尽くせない豊かな深みを持つのである。
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週報

2020年06月21日 | 週報
二〇二〇年六月二一日  NO・四七ー十二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)エゼキエル   二章(月) 〃    三章
        司会 高 澤兄(火) 〃      四章(水)  〃   五章
         奏楽 堅 田姉(木) 〃      六章(金)  〃   七章
招詞祈祷  詩編百十九編三三~三七節  (土) 〃      八章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十三番        ◎二五日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎本日午後一時より「聖書入門」の学びです。
交 読 文  詩 編 百二二編         ◎本日午後責任役員会。
讃  美  讃美歌五三一番         ◎来週は、大掃除を予定しています。  
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌二九二番     
説  教  マルコ四章十三~二十節    良い土地に蒔かれたものとは、
讃  美  聖 歌五〇〇番        御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、
祈  祷             坂本兄 ある者は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                マルコ四章二十節

   譬えの説明
 「種まく人のたとえ」は、共観福音書に最初に記されている譬えである。それだけでなく、主イエスの譬えの中で最も基本的・根本的な譬えとして重要なものである。

 14~20節は、3~8節の譬えの説明である。多くの学者は、この説明は、初代教会の状況を反映しており、主イエスご自身が語られたものではないだろう、と言う。3節以下の譬えは、種まく人の「種」に力点が置かれているが、14節以下は、種を受け止める「土地」に力点が移っている。譬えでは、無駄になる種もあるが、多くは豊かな実を結ぶと語られたが、説明では、種を無駄にする土地について詳しく語られている。前者は「種まきの譬え」であり、後者は「四種類の土地の譬え」である。

 人が福音に接する時、いつの時代も変わることのない四つの反応がある。簡単に要約すれば、
①は、福音の言葉に接しても全く反応しない無関心の人(状態)である。種は取り去られるので全く痕跡さえ残らない。②は、一旦は福音を受け入れて喜び熱心に励むが、外的な状況の変化、すなわちそのために患難や迫害が臨むと、その人の内にある種は枯れて死んでしまう。③は、外的状況よりは内的問題が中心で、結局は、神とこの世も両立させようとするゆえに、結局実を結ばない人(状態)である。④は、御言葉に素直に聞く良い土地であるので、外的状況や内的欲望に塞がれることなく、種がその人の中で成長し、豊かな実を結ぶ人(状態)である。私ではなく、どこまでも御言葉が結ぶ実である!

 「四種類の土地」の状態を固定的に捉えるべきではないだろう。つまりある人は①、ある人は②という具合に。むしろ同じ人が、ある時は①,あるいは②、③、そして④の時があるのではなかろうか。これは私自身の実感である。御言葉が全く響かない時、また外的理由で枯れる時、内的理由で窒息する時を経験する。①~③は他人事でなく、いついかなる時でも、私たちを襲う危険がある。まずそのことを肝に銘じ、目を覚まして主イエスと聖霊の助けを祈り、求め続けよう。3~20節で、主イエスは繰り返し「聞く」ことを強調される。どんな時、どんな状況であっても、私たちに求められる第一の事は、御言葉に聞き、従うことである。その時にだけ、私たちの人生は実を結ぶことができるのである!
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週報

2020年06月14日 | 週報
二〇二〇年六月十四日  NO・四七ー十一       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)エレミヤ   五二章(月)哀 歌   一章
        司会 みつ子師(火) 〃      二章(水)  〃   四章
         奏楽 堅 田姉(木) 〃      四章(金)  〃   五章
招詞祈祷  イザヤ四五章二二~二四節    (土)エゼキエル   一章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番        ◎十八日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎次週は「聖書入門」の学び。
交 読 文  詩 編 百二一編        ◎礼拝動画 こちら
讃  美  讃美歌五三〇番          
献  金  感謝の祈り      高澤姉
讃  美  聖 歌二九二番     
説  教  マルコ四章十~十二節     イエスは言われた。「あなたがたには  
讃  美  聖 歌四三六番        神の国の秘密が打ち明けられているが、            
祈  祷             高澤兄 外の人々には、すべてがたとえで示される。 
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                マルコ四章十一節

   難解な個所
 今日の箇所は、福音書の中で最も難解な所のひとつである。なぜならこの個所を一読すれば、主イエスは弟子たちと外の人々を区別し、外の人々にすべて譬えで語るは、「彼らが見ても認めず、聞いても理解せず、立ち帰って赦されない」という理由、目的のためであるかのように見えるからである。

 しかし前回も見たように、譬えで語るのは理解を助けるためである。実際33節には「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」と記されている。さらに3節の冒頭、譬えを語り始める時、「よく聞きなさい」という言葉で始められているし、9節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われている。だからこの個所の字面は、譬えは否定的な意味で語られたように見えるが、決してそのような目的で譬えが語られたと理解してはならない。

 では、なぜこのようなことが言われたのか? その理由を見出だすのは困難である。11節の「外の人々」とは誰を指すのか意見が分かれる。ある人は、身近な弟子以外の群衆と見る。またある人は、3章20節以下の流れから、律法学者や親族(31節)と見る。34節で群衆が主イエスから「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われていることから、「外なる人々」を群衆と見るのは妥当でないように思われる。「外なる人々」は律法学者のように、主イエスの御業を見ても心を頑なにして主イエスを受け入れない者を指すのだろう。そのような人々は、どんなに主イエスの福音を聞いてもそれを受け入れないので、そこで語られた「神の国の秘密」を見出だすことはできないのである。

 13節で弟子たちに向かって「このたとえが分からないのか。」と言われていることから、弟子たちも譬えを理解していなかったことがわかる。マルコは他でも弟子の無理解を告げている(8章17~18節)。11節の弟子たちに「神の国の奥義が打ち明けられている」というのは、彼らが理解しているという意味ではない。理解ではなく、ただ主イエスと共にいる者に「神の国の奥義は与えられている」(直訳)のである。神の国(支配)は、主イエスご自身において顕現している! この世のものでない神の国は、譬えでしか表すことはできない。だから主イエスは譬えで神の国の福音を宣べ伝えられるのである。
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週報

2020年06月07日 | 週報
二〇二〇年六月七日    NO・四七ー十       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第    三位一体主日(日)エレミヤ  四五章(月)  〃   四六章
          司会 高 澤兄(火) 〃    四七章(水)  〃   四八章
           奏楽 堅 田姉(木) 〃    四九章(金)  〃   五十章
招詞祈祷  詩編百二六章五~六節    (土) 〃    五一章
頌  栄  聖 歌三八四番              (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番        ◎十一日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                 ◎アジア祈祷日献金を募集します。
交 読 文  詩 編 百二十編        ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
讃  美  讃美歌五二九番        ◎礼拝動画 こちら  
献  金  感謝の祈り     みつ子師
讃  美  聖 歌二九二番     
説  教  マルコ四章一~九節       
聖 餐 式                  イエスはたとえでいろいろと教えられた。
讃美祈祷  聖 歌三二二番    志村姉 「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                マルコ四章二・九節

   なぜ譬えで語るのか
 4章1~34節に五つの譬えが集められている。2節に「イエスはたとえでいろいろと教えられた」、また33節には「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」とある。ある学者によれば、旧約・中間時代、ラビ文献を比べて、「イエスのたとえに比肩するものは見当たらない」とのことである。主イエスの宣教はおもに譬えでなされたのである。

 主イエスの譬えは、身近な日常生活の事物を題材にしている。だからどんな人でも、それを聞いて理解し受け止めることができる。つまり主イエスが譬えを用いられたのは、すべての人に例外なく神の国の福音を知らせるためであった。さらにこう言うことができるのではないか。地上のものでない神の国は譬えでしか表現できない、と。あるいは譬えで表現するのが最もふさわしい、と。

さらに譬えは、寓喩。寓話などと違って意味を狭く固定することなく、聞く人に応じて広く受け止めることができる。つまり数学の答案のように一つの答えしかないのではなく、聞く人のその時の状態や信仰によって様々に受け止められる。それを3節以下の譬えから見てみよう。四つの場所に種が落ちるが、最初の三つの種は、単数形であり、最後だけが複数形である。ここからある人は、ほとんどの種は「良い地」に落ちたことが暗示されているという。私たちは、この四つの場所を人がそのどれかに固定的に留まる所と理解する必要はないだろう。土地が私たち(の心・状態)を指しているとしたら、私たちの心が道端のような時もあるだろう。御言葉が全く心に響かず消えていくことがある。また心が燃えている時も枯れる時もある。また様々なことで心塞がれる時もある。しかしここで主イエスが一番強調しておられるのは、多くの種は良い土地に落ち、多くの実を結ぶということである。おそらく主イエスの譬えを聞いていた大勢の群衆は、この譬えを聞いて、自分の人生に重ね合わせて、困難や失敗を経ても、ついには多くの実を結ぶのだ、神は結ばせて下さるのだと、主の言葉に励まされたことだろう。

主イエスは種である神の言葉、福音の力を信じておられたがゆえに、人々が譬えをどのくらい理解するかなどと心配されていない。それほどに神の国の福音は力強く豊かなのである! 
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