中山道奈良井の宿・・・(日本一長い町並み保存地区)
奈良井宿(ならいじゅく)は、中山道34番目の宿場(→中山道六十九次)。塩尻市(旧楢川村)の奈良井川上流に位置する、標高900m台の河岸段丘下位面に発達した集落である。現在は重要伝統的建造物群保存地区として、繁栄した当時の町並みが保存されている。山あいに寺社を擁し、宿場、レストラン、土産物店など、観光できる街並みに整備されている。現在の長野県塩尻市奈良井に位置する。※長野県の中山道の宿場町には奈良井の宿の他に木曽福島宿・妻籠宿・馬籠宿等の人気の宿場町があり、春からオンシーズンになると多くの観光客が訪れている。
電柱・自動販売機を移設し公共建築物(奈良井郵便局・消防詰所・奈良井会館等)も景観に合わせた建築にする等は景観整備の一般的な手法であるが、旧楢川村は上町・中町・下町に各2ヶ所ずつの水場を村単独事業で整備することで独自性を演出した。 又、切妻平入の屋根は3/10勾配(いわゆる3寸勾配=16.7度)の長尺鉄板葺で、濃茶色を使用することが条例で規定されている。 日本瓦を使用した場合には4/10以上の勾配(4寸勾配=21.8度)が建築基準法の規制から必要になってしまうため、伝統的な緩勾配の屋根形状に合わせる目的で長尺鉄板葺が指定されている。 この緩勾配と出梁造(だしばりづくり)のため屋根表面は幅員5-8mほどの通りからは覗きにくい構造になっており、平屋などで万一見えたとしても艶消濃茶色のためほとんど目立たない。木曽谷の伝統的な板葺石置屋根(水場等で一部再現されている)では耐久性がないため、屋根を隠すことで伝統的な景観と家屋の耐久性の両立を図っている。 また、雨樋についても茶系色のものを使用し、水平部分は鼻隠板で覆っている。
木曽漆器 ー木曽漆器が発展してきた理由の一つに、漆の美しさだけでなく、日々の生活に使える丈夫さがある。木曽漆器に頑丈さをもたらしているのが、地元でとれる鉄分を多く含んだ土、「錆土 (さびつち) 」だ。「錆土」は、木曽漆器の下地の材料に使う。漆との混ざりがよいのが特徴で、漆などとこの「錆土」を混ぜ合わせて下地をつくり、白木に塗る。この「錆土」を使うことにより、木曽漆器は欠けたり割れたりしにくい頑丈で質の高い漆器となるのだ。※当地を訪れた時にお椀などの漆器を購入し、津軽や輪島漆器のような艶やかさはなく、我家では普段使いで使用している。
昼食には蕎麦屋さんへ入り食べると、出された信州そばも美味しかったが、少し大きなお皿に盛りつけられた乳酸菌漬けという白菜かキャベツだつたかは忘れてしまいましたが、多少酸味がある漬物だっが今まで食べたことのない味であり、複雑な味がして美味しかった。※三人で食べてくださいと、一つのお皿で出されたため、蕎麦を食べながら摘まみましたが、あまり美味しかったので、お土産に持ち帰りたいと交渉したが、売り物ではないと断られてしまい、未だに何となくあの味を覚えているのが不思議だ。
中山道奈良井の宿木曽の大橋
遠野城址公園の歴史と桜・・・(江島と島流し先)
江島生島事件・・・(江島の遠島地の高遠藩内藤清正枚にお預け) 江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名がが処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。
評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)であったが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩内清枚にお預けとなった。連座して、旗本であった江島の異母兄の白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放となった。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を貪っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられた。
江島が幽閉されていた進徳館
江島は27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に61歳で死去。生島新五郎は寛保2年(1742年1)2月、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で死去。
「天下第一の桜」と名高い高遠城址公園の桜
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1875年)に公園となりました。高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。本丸の老木はこの時植えられたもので、4月には、130年生以上の古木20本、50年生以上のもの500本などに若木を加えた約1,500本のタカトオコヒガンザクラが、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
そうした歴史を踏まえに対する取り組みとして伊那市高遠町では、「天下第一の桜」と称されるタカトオコヒガンザクラを保護育成・継承していくために【桜憲章】を制定し、高遠城址公園内に掲げています。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
雨の高遠の桜・・・(土砂降りの中での撮影となってしまいました)
桜雲橋・・・(天気の時にはもっと綺麗な朱色をしていた)
桜雲箸の下からガスが湧き出していた・・・
大鼓櫓
新城藤原神社・・・
遠くの中央アルプスの雪を被った山々が雨に霞んでいた・・・
一旦諏訪湖まで引き上げて来て、冷えた体を温泉に浸かり温めて、明日リベンジを図ろうと上諏訪温泉に泊って、翌日昨日の天候が嘘のように晴天となり、高遠の桜を撮りました。※高遠城址公園の「天下第一の桜」は晴れの日が良く似合い、前日の土砂降りの雨の日と比べると、雲泥の差の桜景色が撮れた。※上諏訪迄戻って來るのには理由があり、現在は無くなってしまいましたが、諏訪湖のほとりに美味しい日本蕎麦店がありました。
晴れの日の高遠の桜・・・(桜の花は青空がよく似合う)
白い雪を被ったアルプスの山並みが遠くに移り込むため、高遠の桜景色は最高!・・・
高遠館のある桜の景色・・・
晴れの日の桜雲橋と桜の景色・・・
大鼓櫓と桜・・・
雪が被っているアルプスが遠くに見えていた・・・
高遠作りと言うタッパの高い桜の木の植え方・・・
弘前城を代表する地を這わせるような見せ方をしている桜の景色とは全く違うものがあり、地上から真上に広角レンズを装着して撮影すると、面白い桜の画像が撮れる。
高遠城址公園の桜を撮り終わり、公園を出たところに日本蕎麦屋さんが一軒あったので、休憩を兼ね立ち寄ると、美味しそうな蕎麦があったため頼むと、その蕎麦屋さんの蕎麦が絶品だったことを思い出しました。※全国各地で美味しいと言われているお店のそばを食べて来ましたが、若い20代前半に上山田戸倉温泉でおやつ替わりか夜食に食べたのか、55年以上も経っているので、不明だがあのそばの味を超えるものは未だに出て来ないかも知れない。※ラーメン屋に関しては携帯のアドレス帳(全国100軒以上のラーメン店が現在も保存している)に保存しているが、蕎麦とうどんは食べるだけで記憶して置かなかった。※山形県の蕎麦粉が県外(青森県の浅虫温泉に山形県産の蕎麦粉を使用している美味しい蕎麦屋さんがあったが、当時は特別に取引を認められて、山形県産蕎麦粉が手に入ると言っていた)に出されなくなったり、美味しいと言われている山地の蕎麦粉があまり流通しなくなっているという。
イスカの画像・・・(おまけ)
比較的近い岡谷の山地に生息・・・
※好きな場所シリーズで、明日は秀吉と寧々が祀られている京都高台寺の画像を投稿する予定です。