野鳥と野鳥写真(観察と展示)

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好きな場所シリーズ・・・(中山道奈良井の宿と高遠城址公園の桜)

2022-02-27 23:17:05 | 野鳥写真

中山道奈良井の宿・・・(日本一長い町並み保存地区)

 奈良井宿(ならいじゅく)は、中山道34番目の宿場(→中山道六十九次)。塩尻市(旧楢川村)の奈良井川上流に位置する、標高900m台の河岸段丘下位面に発達した集落である。現在は重要伝統的建造物群保存地区として、繁栄した当時の町並みが保存されている。山あいに寺社を擁し、宿場、レストラン、土産物店など、観光できる街並みに整備されている。現在の長野県塩尻市奈良井に位置する。※長野県の中山道の宿場町には奈良井の宿の他に木曽福島宿・妻籠宿・馬籠宿等の人気の宿場町があり、春からオンシーズンになると多くの観光客が訪れている。

 電柱・自動販売機を移設し公共建築物(奈良井郵便局・消防詰所・奈良井会館等)も景観に合わせた建築にする等は景観整備の一般的な手法であるが、旧楢川村は上町・中町・下町に各2ヶ所ずつの水場を村単独事業で整備することで独自性を演出した。 又、切妻平入の屋根は3/10勾配(いわゆる3寸勾配=16.7度)の長尺鉄板葺で、濃茶色を使用することが条例で規定されている。 日本を使用した場合には4/10以上の勾配(4寸勾配=21.8度)が建築基準法の規制から必要になってしまうため、伝統的な緩勾配の屋根形状に合わせる目的で長尺鉄板葺が指定されている。 この緩勾配と出梁造(だしばりづくり)のため屋根表面は幅員5-8mほどの通りからは覗きにくい構造になっており、平屋などで万一見えたとしても艶消濃茶色のためほとんど目立たない。木曽谷の伝統的な板葺石置屋根(水場等で一部再現されている)では耐久性がないため、屋根を隠すことで伝統的な景観と家屋の耐久性の両立を図っている。 また、雨樋についても茶系色のものを使用し、水平部分は鼻隠板で覆っている。

木曽漆器                                                   木曽漆器が発展してきた理由の一つに、漆の美しさだけでなく、日々の生活に使える丈夫さがある。木曽漆器に頑丈さをもたらしているのが、地元でとれる鉄分を多く含んだ土、「錆土 (さびつち) 」だ。「錆土」は、木曽漆器の下地の材料に使う。漆との混ざりがよいのが特徴で、漆などとこの「錆土」を混ぜ合わせて下地をつくり、白木に塗る。この「錆土」を使うことにより、木曽漆器は欠けたり割れたりしにくい頑丈で質の高い漆器となるのだ。※当地を訪れた時にお椀などの漆器を購入し、津軽や輪島漆器のような艶やかさはなく、我家では普段使いで使用している。

 

 昼食には蕎麦屋さんへ入り食べると、出された信州そばも美味しかったが、少し大きなお皿に盛りつけられた乳酸菌漬けという白菜かキャベツだつたかは忘れてしまいましたが、多少酸味がある漬物だっが今まで食べたことのない味であり、複雑な味がして美味しかった。※三人で食べてくださいと、一つのお皿で出されたため、蕎麦を食べながら摘まみましたが、あまり美味しかったので、お土産に持ち帰りたいと交渉したが、売り物ではないと断られてしまい、未だに何となくあの味を覚えているのが不思議だ。

中山道奈良井の宿木曽の大橋

 

遠野城址公園の歴史と桜・・・(江島と島流し先)

江島生島事件・・・(江島の遠島地の高遠藩内藤清正枚にお預け)                                                                                           江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名がが処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。

    評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)であったが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩内清枚にお預けとなった。連座して、旗本であった江島の異母兄の白井勝昌は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶重追放となった。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を貪っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられた。

江島が幽閉されていた進徳館

 江島は27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に61歳で死去。生島新五郎は寛保2年(1742年1)2月、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で死去。

「天下第一の桜」と名高い高遠城址公園の桜

 武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1875年)に公園となりました。高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。本丸の老木はこの時植えられたもので、4月には、130年生以上の古木20本、50年生以上のもの500本などに若木を加えた約1,500本のタカトオコヒガンザクラが、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。

 そうした歴史を踏まえに対する取り組みとして伊那市高遠町では、「天下第一の桜」と称されるタカトオコヒガンザクラを保護育成・継承していくために【桜憲章】を制定し、高遠城址公園内に掲げています。

 公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。

雨の高遠の桜・・・(土砂降りの中での撮影となってしまいました)

桜雲橋・・・(天気の時にはもっと綺麗な朱色をしていた)

桜雲箸の下からガスが湧き出していた・・・

大鼓櫓

新城藤原神社・・・

遠くの中央アルプスの雪を被った山々が雨に霞んでいた・・・

 一旦諏訪湖まで引き上げて来て、冷えた体を温泉に浸かり温めて、明日リベンジを図ろうと上諏訪温泉に泊って、翌日昨日の天候が嘘のように晴天となり、高遠の桜を撮りました。※高遠城址公園の「天下第一の桜」は晴れの日が良く似合い、前日の土砂降りの雨の日と比べると、雲泥の差の桜景色が撮れた。※上諏訪迄戻って來るのには理由があり、現在は無くなってしまいましたが、諏訪湖のほとりに美味しい日本蕎麦店がありました。

晴れの日の高遠の桜・・・(桜の花は青空がよく似合う)

白い雪を被ったアルプスの山並みが遠くに移り込むため、高遠の桜景色は最高!・・・

高遠館のある桜の景色・・・

晴れの日の桜雲橋と桜の景色・・・

 

大鼓櫓と桜・・・

雪が被っているアルプスが遠くに見えていた・・・

高遠作りと言うタッパの高い桜の木の植え方・・・

 弘前城を代表する地を這わせるような見せ方をしている桜の景色とは全く違うものがあり、地上から真上に広角レンズを装着して撮影すると、面白い桜の画像が撮れる。

 高遠城址公園の桜を撮り終わり、公園を出たところに日本蕎麦屋さんが一軒あったので、休憩を兼ね立ち寄ると、美味しそうな蕎麦があったため頼むと、その蕎麦屋さんの蕎麦が絶品だったことを思い出しました。※全国各地で美味しいと言われているお店のそばを食べて来ましたが、若い20代前半に上山田戸倉温泉でおやつ替わりか夜食に食べたのか、55年以上も経っているので、不明だがあのそばの味を超えるものは未だに出て来ないかも知れない。※ラーメン屋に関しては携帯のアドレス帳(全国100軒以上のラーメン店が現在も保存している)に保存しているが、蕎麦とうどんは食べるだけで記憶して置かなかった。※山形県の蕎麦粉が県外(青森県の浅虫温泉に山形県産の蕎麦粉を使用している美味しい蕎麦屋さんがあったが、当時は特別に取引を認められて、山形県産蕎麦粉が手に入ると言っていた)に出されなくなったり、美味しいと言われている山地の蕎麦粉があまり流通しなくなっているという。

イスカの画像・・・(おまけ)

比較的近い岡谷の山地に生息・・・

※好きな場所シリーズで、明日は秀吉と寧々が祀られている京都高台寺の画像を投稿する予定です。


好きな場所シリーズ・・・(飛騨高山と白川郷)

2022-02-27 10:36:20 | 野鳥写真

飛騨高山の町並み保存地区・・・(上三之町)

 飛騨高山には最初に訪れたのが24歳の時だったので、51年前になるがそれから何度となく当地を訪れているが、まだその頃は新建材で建てられた家があったりしていたため、当時はあまり見栄えは良くなかったが、51年が経つと上三之町の無町並み保存は完全な状態になっていた。※飛騨高山の上三之町を見ても町並み保存も50年程度経たないと、完全(規制通りの建て替えが終わらないと、家並みが出来ない)には保存できないことに気づきました。※写真は何度も来ているため、何時のものかは分かりませんが、一番直近に行ってから約10年位は経っていると思われる。

 若い時(20代前半兄弟で出掛けて行くと、いろいろな経験をした)にはプライベートでも出掛けて行っていたため、商人宿の坂口屋(襖一枚で他人が泊っているような経験もしました)に泊ったこともあり、石川県の工場見学を兼ねて出掛けていた時にはお客さんが同行しての接待であったため、高級旅館にも泊まったこともあったり、飛騨高山は落ち着ける場所として、好きな観光地の一つでありました。※この頃から春慶塗りのお盆や菓子器・茶托・箸箱と箸等をよく買い込んでいましたので、何十年前に買って来て使わないままのものも沢山(箸入れや箸等)あります。※自分の好きな場所は出身地でも何でもありませんが、訪れるとその度に心の故郷のようなよりどころとなっていくと思われるため、そんな場所へは何度も訪れることになる。

春慶塗のいろいろ・・・(盆・菓子器・箸入れと箸・茶托等)

   

飛騨春系の由来・・・                                               慶長12年(1607年)、当時の高山城主であった金森重頼のとき、大工の高橋喜左衛門が椹(さわら)の木で作った、蛤(はまぐり)の形のお盆を、重頼の長兄である重近(宗和)に献上し、気に入った重近が、塗師の成田三右衛門に塗らせたのが始まりとされています。 以後、自然のままの木目を生かした黄金色の漆器“春慶塗”は山国である飛騨らしい特産品となりました。誕生当初は、茶器としての利用が主でしたが、江戸時代以降、盆や重箱など一般生活用品も多く作られるようになり、庶民も手にするようになりました。

杉玉の画像・・・

上三之町の玉の井造り酒屋・・・(店構え)

杉玉・・・(上三之町には「玉の井」という造り酒屋があり、軒先に吊り下げられている)                                                         杉玉は概ね2月~3月に飾られ始めます。この時期と言えば新酒の季節。つまり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ!」という目印なのです。しかし、最初の内の杉玉は茶色ではなく本来の緑色をしています。そして季節が過ぎ夏頃には緑が薄くなり、秋頃には枯れて茶色くなります。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から旬の日本酒が何なのかを知ることができるのです。                                      緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえます。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づく、というのはなんとも風情がありますね。※こんなことを知って日本各地の造り酒屋さんに出向くと、同行者がら「博学!夏頃と言われれるかも知れませんよ。

泊ったことのある旧商人宿の坂口屋・・・(当時は人気の旧商人宿)

 久田屋のすぐ目の前の旧商人宿の坂口屋に泊まりましたが、昔の商人達が一元や常宿として宿泊していたと思うと、あまりできない当時の経験をさせて貰いました。※若い時しか経験の出来ないことが出来ましたが、その後は市内のホテルや旅館に泊ることが多くなってしまいました。※好きな場所へは年を重ねる度に訪れると、又、違った物見が見られるので、若い時には興味の中たことも中年や初老になって見ると、違う発見が出来たりするものです。

人気の旧商人宿の久田屋・・・(いろりを囲んで夕食を食べられる)

 その昔はご主人がいろりを囲みながらで夕食を食べる際に飛騨高山の商人宿の話を伝承してくれていたようでしたが、残念ながら予約が取れずに久田屋には泊ることが出来ず話は聞けなかった。

飛騨高山の朝市が開催されていた・・・(飛騨川の畔で・・・)

飛騨高山の朝市風景・・・(まだ観光客が多くはなかった時代の朝市の風景)

世界遺産・・・(最初に飛騨高山と白川郷に行ったのが、1971年頃だった)                                                   白川郷・五箇山の合掌造り集落は、地方の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。1995年(平成7年)12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。※プライベートや仕事又会社の旅行でも何度となく来ているため、数少ない好きな場所と言えるかも知れないが、白川郷には豪雪地の家造りや飛騨高山の町並み保存や橋の上から見える白や黒の鱒が泳いでいるのを見た時には、飛騨川の綺麗さと住民の生き物や川に対する愛着には感動を覚えました。※1970年頃はまだ日本は高度成長前だったので、河川の汚れは社会問題になっていた頃だったと思いますが、その頃から今も全く同じように保存されているから驚かされる。

初夏の白川郷の合掌造り群・・・(運悪く雨天でした)又

白川郷の合掌造りの夜景・・・(夜景だけを撮りに来たので、全くの別日に撮影)

 前日伊豆半島に泊り伊豆高原を午前中に立ち白川郷の合掌造り群の夜景が撮りたくて、夕刻に到着するように時間を調整(郡上八幡に立ち寄ったりしながら・・・)しながら走って来ると、6時半頃に現地に到着した。

 合掌造りの家に明かりが灯ると、また別の雰囲気が漂い、遠い距離を走って来て良かったと思いましが、予約なしで来てしまい合掌造りには泊ることが出来ずに、飛騨高山市内まで移動し宿泊しました。

雨にむせぶ白川郷の合掌造り群の全景・・・(展望台から撮影)

 観光地での雨の日は嫌わずにしているが、霧や雨にむせぶ景色は趣が感じられるため、撮影機材を濡らさないようにしながら撮ることにしている。※大抵の場合日程で羽こいているため、何日も留まることも出ないないので、雨の日の景色をどう切り撮るかが難しいが又楽しいものです。

雨上がりの白川郷の合掌造り群の全景・・・(展望台から撮影)


好きな場所シリーズ・・・(美山かやぶきの里)

2022-02-26 10:49:05 | 野鳥写真

美山かやぶきの里・・・(京都南丹市)

部落の入口に赤いポストのあるかやぶきの里の村・・・(インパクトがある)

赤いポストとかやぶきの屋根、小高い山の稜線の上をトビが舞う景色・・・(野鳥写真?)

赤いポストとかやぶきの屋根、小高い山の稜線の上をトビが飛んでいない・・・(景色写真)

部落の入口の赤いポストのインパクトが忘れられない・・・(こんな風景見たことがない)

かやぶきの里の全景の中にも赤いポストが見えている・・・(昔何処かで見たことのある風景)

 現在はかやぶき屋根にトタンを被していたものが全てかやぶき屋根となり、昔の姿を取り戻していると言われているため、自分が訪れた時よりもかやぶき屋根群が多くなっていると言われている。※タイムスリップしたかと思うような「美山かやぶきの里」に訪れるとかんじられる筈です。

掘っ被りしたお婆さんと部落の地蔵尊・・・(里山の日常)

かやぶきの里の地蔵尊・・・(何となく雰囲気がある)

地蔵尊を撮っていると郵便配達員が飛び込んできた・・・(ナイスタイミング)

黄色く紅葉している木とかやぶきの屋根・・・(なかなか見られない風景)

 

収穫の里の秋が感じられる一枚・・・(もう直ぐ冬が来るため、冬支度かな)

京都南丹市のディスカバージャパン・・・(目に焼き付けておきたい日本の原風景)

ススキとかやぶきの屋根・・・(そこには昔の田舎がありました)

苔生すかやぶきの屋根と晩秋の景色がありました・・・1(物悲しい晩秋の景色)

苔生すかやぶきの屋根と晩秋の景色がありました・・・2(物悲しい晩秋の景色)

 中央の黒い小屋に消火設備が放水装置が設置され保管されているため、美山かやぶきの里は屋根をかやぶきとすると同時に防火体制も整備している。

 

苔生すかやぶきの屋根と水車が回っている晩秋の景色がありました・・・3(物悲しい晩秋の景色)

 

 京都滞在も一週間も経つと、京都市内を離れて京都の北の南丹市の美山かやぶきの里へ足を運ぶと、懐かしい日本の原風景が目の前に広がっていました。※最初に目に飛び込んできたのが、美山かやぶきの里の入口にあった赤いポストだった。※かやぶき屋根の各家には消防の放水設備がしてあり、時々一斉放水が観光の一部となつているらしく、その光景を撮ろうとカメラマン達が集まって来ることがある。

美山かやぶきの里の一斉放水・・・(風物詩になっている)

美山かやぶきの里の別アングルからの一斉放水・・・(部落ぐるみで防火対策)

 京都市内から約45分位の距離にあり、少し京都を離れただけで、こんな素敵な場所があり、まだ日本は捨てたものでないと再認識をして、再び京都市内に戻り秀吉と寧々が祀られている高台寺へと向かっていきましたが、特に秋から晩秋に掛けての京都の景色が好きです。※当時京都縦貫自動車道の一部が開通していたが、現在は全線開通し天橋立から南丹市や京都を経由し名神高速道まで繋がっているようです。

 奈良に勤務していたため、よく京都にブラッと出掛け、四季折々の京都を切り撮ると、一年に一二度出掛けて来ていた京都とは別の京都の神社仏閣の写真が撮れることになるため、知らなかった京都を見たりしたので、余計に京都が好きになったのかも知れない。※例えば、寺院の山門が開いているのと閉まっているのとでは、写真の雰囲気が全く違うものとなってしまいます。※朝早くいけば山門が閉まっている写真(山門は開いているもの)は撮れるが、全く人の気配がないためなのか、無機質な写真のようになってしまいます。

明日は「好きな場所シリーズ」の飛騨高山の町並みと白川郷の合掌造り」を投稿します。

 


私の好きな場所シリーズ・・・(神戸市垂水区 明石海峡大橋)

2022-02-25 10:16:03 | 野鳥写真

明石海峡大橋と明石海峡・・・(世界一の吊り橋)

❝連絡橋 あっという間に 淡路島❞

 明石海峡大橋は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路氏岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。全長3,911 m、中央支間1,991mである。本州と四国を結ぶ3本州四国連絡橋(本四架橋)ルートの一つ「神戸淡路鳴門自動車道 全長89.0km」の一部として、1998年(平成10年)供用されている。※1998(平成10年)の開業以来、「ギネス世界記録」に認定・掲載されている。当時の建設費は約5,000億円。

大観覧車のある淡路ハイウエイオアシス・・・(淡路市岩屋の淡路島の入口にあるSA)

シーサイドホテル舞子ビラ神戸からの大パノラマ・・・(ホテルから見える明石海峡大橋と明石海峡)

明石海峡大橋の夕陽・・・(マリンピア神戸から撮影した明石海峡大橋)

ホテルからの夜景・・・(明石海峡大橋と淡路島)

淡路島の夕陽百選・・・(生穂)

 大抵神戸市垂水区のシーサイドホテル舞子ビラ神戸に止まってしまうため、淡路島の宿泊施設には一二度しか止まったことはありませんが、もうずいぶんと前なので、施設の真苗は忘れてしまいましたが、ご洒落た旅館旅館に泊りました。

 営業で出掛けて行った高校を出て直ぐの道路脇から瀬戸内に沈む夕日があまりにも綺麗だったので、車を停めて撮影すると看板に日本の夕陽百選となっていました。※堤防と灯台が見える景色であり、海には小舟が浮いている。

淡路島花さじき・・・(島内の観光地)

 淡路島は関西圏のハワイ島と呼ばれていたため、夏場のマリーンリゾートの島として、大阪や京都・兵庫県内から多くの観光客が訪れていると東京へ戻って来てから知りました。※党内には関西圏に在住している人達の別荘が多く点在しているようだった。

シーサイドホテル舞子ビラ神戸・・・(明石海峡大橋の神戸側の袂の丘の上に聳え立つている)

 紺碧の瀬戸内海と雄大な明石海峡大橋、緑豊かな松林、そして有栖川宮別邸(旧宮様家で現在は無くなってしまいました)の面影を残す姫小松の庭園。この恵まれた環境とすばらしい展望を生かした上質なシーサイドリゾートのくつろぎがあった。

有栖川宮                                                   幸仁親王の子・正仁親王が嗣子なく薨じたため、霊元天皇の第17皇子・職仁親王が入って第5代を継承し、以後、6代・織仁親王、7代・韶仁親王、8代・幟仁親王、9代・熾仁親王、10代・威仁親王と、いずれも霊元天皇の血統が続くが、1908年に11代目予定の裁仁王が20歳の若さで薨去。大正2年(1913年)に威仁親王が薨去したため、旧皇室典範の規定に基づき断絶が確定した。

 当時神戸方面への出張が多かったため、常宿として利用していた「シーサイドホテル舞子ビラ神戸への交通アクセスが山陽道から直接乗りつけられたので、神戸市内からは少し離れているが淡路島の顧客(高校三校等)もあり、素晴らしいホテル(半地下に大浴場もあった)で快適に過ごすことが出来た。※一週間に一度は神戸方面に仕事で来ていたため、効率を考えると神戸泊まりがよかったので、当ホテルを利用し時には四国を回って赴任地の岡山へ戻っていました。※淡路島で用事を済ませると、大鳴門橋を渡り香川の讃岐で高松自動車道を下りて「讃岐うどん」を食べて帰るのが、ルートのようになっていたことがありました。※徳島の県産品はすだちや鳴門金時等が主たるものですので、何時も通過するだけでした。

讃岐うどんの名店、屋島のわら屋・・・(大きな讃岐うどん屋さん)

 屋島の戦いでは那須与一が扇の的を射たことで知られているが、源氏方に扇の的を差し出した平家方の玉虫御前(鬼山御前)は、平家の落人が逃れたとされる肥後国五家荘の手前に移り住んだという伝承がある 。

 寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国八島に本拠を置くことができた。

 普通は生麺は管理が難しいため、一元のお客さんには売ってくれなかったが、通い続けると店主の方から生麺「お持ちになりますか」と聞いてくれるほどになりましたので、単身赴任者には有難かったです。※流石に名店なので、よくお土産を欲しいと言っていたため、無理を言って買っていましたので、見ていないようでもよく見ていると感心したことがありました。※讃岐うどんと天婦羅の美味しい、大型観光バス5~6台が来ても対応できるほどの大きなお店(300人は入るような大きな店舗)だった。

敷地内にある異人館・・・(うどんを食べた後にコーヒーとパウンドケーキが名物を食べる)

 ホテルの直ぐ近くにマリンピア神戸と隣接の「三井アウトレットパークマリンピア神戸」や「垂水温泉太平のゆ」があり、フロントに頼んで置くと送迎のマイクロバスが来ていたようでしたが、自分の場合は車で出掛けて行きました。※クールビズが言われていた頃だったため、三井アウトレットパークマリンピア神戸で、シャツをまとめて買ったりしていました。※「垂水温泉太平のゆ」には珍しい炭酸泉風呂があったので、時々ホテルに泊まった時などに出掛けて行き、癒されていました。※神戸の街や各施設は何処となく洗練されて、東京にはない異国情緒的な雰囲気のある施設が多かったかも知れない。

三井アウトレットパークマリン神戸・・・(当時は開店したてで、テナントの全店舗が埋まっていたなかった。)

垂水温泉 「太平のゆ」・・・(炭酸泉が特徴のスーパー銭湯)

神戸南京町の老祥記・・・(一口饅頭の人気の店)

 神戸南京町の老祥記の一口豚まんが人気でよくお土産に買った覚えがありますが、美味しいと言われて買っても横浜中華街の江戸清の中華まんと比べると、大きさも違うが味も話にならないくらい比較にはならない、中華街の店舗も少なく横浜の中華街と比べると小規模なので、10回も行くと一回りしてしまいますが、神戸に行くと特に行くところもないので、南京町へ出掛けて行っていた。※店オリジナルと豚でなく、冷凍の肉まんを温めて、販売していたのを見てからは南京町では有名な老祥記以外の豚まんは買わなかった。※華僑らしい逞しい商売をしていたのが、この店で作っている豚まんでないのと聞くと、嫌な顔して黙ってしまったのが印象的だった。

 


好きな場所シリーズ・・・(城崎温泉と周辺)

2022-02-24 13:05:20 | 野鳥写真

温泉街の真ん中を流れる川がある城崎温泉・・・(神戸の奥座敷)

❝城崎は 文豪たちと 出会う街❞

何度も通ううちに、かつての文豪が好んで逗留していた温泉街と言うことが分かったような気がした。

古き良き時代を彷彿とさせる城崎温泉の町並み・・・(温泉客が外湯に出掛けて行く)

城崎温泉の温泉寺・・・(桜まつりの風景)

真夏の時期には花火大会が、毎夜行われていた・・・(夕涼みがてら出掛けて行った)

山陰本線のジィーゼル機関車が鉄橋の上に乗っていた・・・(1時間1本しか走っていない)

 一時代の役目を終わろうとしている餘部鉄橋の勇姿がそこにはあり、トンネルから出て来ると、山陰本線のディーゼル機関車が物悲しそうに餘部鉄橋の上を走っていたのが印象的でした。

餘部鉄橋の付け替え工事が始まる・・・(最後の勇姿)

 現在はコンクリート構造物の餘部橋に付け替えられ、古い鉄橋は記念に一脚だけ残し、コンクリートの鉄道橋の上を山陰本線が走っています。※工事中何度か仕事で近くに行くことがあり、当地を訪問しましたが山陰本線には一度も乗ったことがありませんでしたが、急餘部鉄橋を惜しんで観光バスが何台も訪れていました。※多くの撮り鉄達も最後の勇姿を写真を収めるため、訪れていました。

加美町にある日本の夕陽百選・・・(生憎の曇り空でしたが、幻想的な絵が撮れた)

 よく分かりませんが、夕陽や100選の定義があるようで、海に突き出している陸地の山並みが、幾重にも重なり又堤防や灯台があったり、船が浮かんでいなくてはならないといろいろ決まりごとがあるようです。※天候の良く無い日でしたが、カメラを三台並べて、山陰の秋の夕暮れ時を撮影しました。※数分でや羽闇に包まれてしまうため、シャツターチャンスを逃さないようにレリーズを使ったり、三台のカメラで夕陽百選を切り撮りました。

ベストポジションを探し、夕陽百選を撮る・・・(香美町)

名勝日和山海岸・・・(豊岡市香美町日和遊馬海岸)

 

 

コノハズク(赤色型)の画像・・・(おまけ)

 兵庫県豊岡市加美町から程近い距離にある鳥取県八頭郡八頭町の八東ふる里の森に渡来して来ている小型フクロウのコノハズクと生息しているオオコノハズク達ですが、コノハズクの赤色型は珍しい。

オオコノハズク雛の画像・・・(おまけ)

コウノトリの画像・・・(おまけ)

 城崎温泉がある豊岡市はコウノトリの里としても知られており、普通に豊岡市内を走っていると、市役所周辺や田んぼなどでコウノトリが見ることができました。

・城崎温泉

 城崎温泉(きのさきおんせん)は、兵庫県豊岡市城崎町にある温泉。平安時代以前から知られる長い歴史を持つ。江戸時代には「海内第一泉(かいだいだいいちせん)」と呼ばれ、今もその碑が残る。有馬温泉、湯村温泉とともに兵庫県を代表する温泉でもある。 

・食塩泉 ・源泉温度 (37℃〜83℃。)

 全ての源泉は1972年に作られた集中配湯管理施設に集められて、平均温度を57度に安定させてから、町内に張り巡らされている配管を通じて、各外湯・旅館に送られている

・歴史                                                     1927年(昭和2年)に三木屋旅館(『城の崎にて』ゆかりの宿)が震災復興の際に敷地内で掘り当てた泉源を利用して、城崎初の内湯を新築の旅館内に設置したところ、温泉地の伝統を壊すものとして、裁判沙汰になり(城崎温泉内湯訴訟事件)20年以上の紛争に発展する。1950年(昭和25年)になってようやく和解し、内湯の設置を認める代わりに、その規模を制限し、大浴場を希望する客は、従来通り外湯に通うこととした。また、私有地の源泉を含めて全ての源泉を旧・城崎町「湯島財産区」が一括管理し、新たに掘削に成功した源泉の内湯への配湯を開始した。また、1972年には新たに掘削した泉源を含めて上水道のような「温泉集中配湯管理施設」を構築し、各外湯や各旅館にバイプを通じて供給することとした。

・温泉街                                                   城崎温泉では浴衣に下駄履きが正装と言われており、2007年時点、城崎温泉のほとんどの旅館は、寝間着としても用いる旅館内用の浴衣とは別に、温泉街を出歩くための浴衣も用意している。温泉街には「ゆかたご意見番」という掲示をした店が、2007時点、約30軒存在し、浴衣が着崩れたりした時に対応してもらえる。浴衣の模様から旅館が分かると、その旅館の下駄を差し出す下足番もいる。

・七湯めぐり                                                 外湯は、一の湯、御所の湯、まんだら湯、さとの湯、柳湯、地蔵湯、鴻の湯の七湯の外観は下記の通り・・・    ※一番お世話になったのが御所の湯で、直ぐ前(10~20歩で行けたため)の旅館が常宿としてよく泊まっていたため、小さな旅館の家風呂よりも大きな「御所の湯」(下記の写真の左から三番目の外湯)の露天風呂などに何度も入っていました。※温泉街では人気は目立つ「御所の湯の外観(玄関前の階段の両脇の池にはシーズンになるとハスの花が咲いて居たり)で、建物も立派な作りでしたが、家風呂と露天風呂も大きくて立派だった。

      

・本と温泉                                                    2013年志賀直哉来湯100年をを機に、次なる100年の温泉地文学を送り出すべく、城崎温泉の各旅館の若旦那たちが立ち上げた旅館経営研究会が考え出した地域密着の出版レーベルとして、同年「本と温泉」が誕生した。第1号は、志賀直哉の「城の崎にて」と「注釈・城の崎にて」の二作組みで、2014年の第2弾は万城目 学の『城崎裁判』、2016年の第3弾は湊かなえの『城崎へかえる』であった。それぞれ新作で、城崎温泉の旅館でのみ発売されている。※近年では山崎豊子の「華麗なる一族」の舞台ともなった城崎温泉としても知られるようになり、熱めの温泉にも拘わらず、夏冬に関係なく観光客が訪れているようです。※日本海が近いことで、冬場の定番料理は松葉ガニ(ズワイガニと言われているが、水揚げされた港の名前が付いているようです)が夕食によく出て来ていました。※又、但馬が近いことで、但馬牛が出されることがあったため、予め牛肉が食べられない旨の話を通しておくと、魚中心の料理にして貰いました。

※明日は神戸市垂水区の明石海峡大橋から夕陽と景色を投稿予定です。淡路島の夕陽百選も載せます。