私の70代

愈々90代に足を踏み入れ、人生の最終ラウンドに入った想いです。野菜作りとパソコンにも向き合っていきます。
 

唯一の友(戦時下の青春)

2018年08月11日 | 随想

  齋藤様
 
 先日は、お手紙そしてコメントと有難うございました。
 齋藤さんの文中の言葉「今日は8月9日 長崎に原爆が投下された日です。昭和16年12月8日、大東亜戦争 開戦。小生等は生まれ落ちてから、20歳になれば兵隊検査を受けて、甲種合格となり兵隊に入営するのが、この上ない親孝行だと、物心ついた時から親も先生も国も、兵隊に行き お国の為に戦死するのが、親孝行と教育されてきました。」
 齋藤さんは、大正末期の生まれ私は昭和初期の生まれ、歳は約2歳違いますが、幼少から青春期にかけて・・・、同じ世情のなかでそだちましたから、上記の文章もすんなりと受け入れられます。旧制の中学校では軍事教練をけており、実弾射撃も体験しました。戦争末期なると学業よりも勤労奉仕が多くなり、農業科に学んでいましたから、食糧増産で10日~1ヶ月の泊まりこみの奉仕がありましたが、家で農作業の手伝いをしていた経験から重宝されおり、楽しい思いで
でした。19年6月名古屋近郊の蟹江町農協単為の奉仕の時、B29の爆撃を始めて見ることになります。空襲警報が鳴って空を見上げると、もうB29の編隊が頭上を飛んでいました。その編隊に豆粒みたいな戦闘機が2~3機からんでいましたが、なんの変化も起こりませんでした。高射砲の射撃エリヤになると、盛んに編隊の中に高射砲の炸裂煙幕ができますが、編隊は悠々と飛んでいます。後から解ったのですがB29は9000mの高度を飛んでおり、日本の高射砲は届かなかったようです。機体から小さな黒いものパラパラっと見えて・・・しばらくすると、地上に土煙の上がるのが見えます。庄内川の堤防から淡々と見ておりました。(史料では、130機のB29編隊が琵琶湖目標に北上編隊が大阪方面に向かったと、名古屋地方は空襲警報解除?ところがそのうちの40機が突如名古屋方面に進路を変更、隙をつかれた感じで愛知航空機を主に2000人余の死者が出る)
 
 
昭和20年にになると、名古屋市街地の焼夷弾の無差別爆撃が始まります。深夜B29が超低空で1機ずつ侵入し探照灯で照らし出され、地上からの機銃の曳光弾でB29が包まれますが、B29が火を噴いたり、落ちることはありませんでした。反対に機上から地上の陣地に撃たれる曳光弾が見えていました。最初のうちは地上からの反撃もありましたが止み・・・、もうその頃は地上は火の海で名古屋の夜空は真っ赤に染まっていました。約20キロ離れていますが良く見えました。

 昭和20年3月そんな世情の中で学校を卒業(17歳)しました。私がなぜその道を選んだかは殆ど記憶しておりませんが、農林省の園芸試験場の実習生の道を選び、その頃になるとB29の日本の都市多くが爆撃され、太平洋沿岸の都市は艦砲射撃にさらされていました。(具体的には浜松)燈火管制された暗い超満員の列車にうずくまって行った記憶です。
 園芸試験場は、相模湾に面した神奈川県二の宮町にありました。同期生は十数人で主に西日本出身者で生涯付き合う友を得ることになります。試験場の生活は、午前中は授業で午後実習というパターンでしたが、一言でいうと過酷な生活で・・・特に食糧事情でした。日本全土が配給制度で、カロリー換算で半分にも満たなかったと思います。三度の食事はありましたが、少量の米と芋や麦など雑穀で・・・腹いっぱい食べれることはありませんでした。食事をして2時間もすると「腹がへった!腹がへった!」と呟いていました。膝ががくがくする感じでしたが、飢餓的感情はなく・・・実家が畑作農家でしたから送られてくる、芋や麦の加工品で空腹を満たしていましたが、常時という訳にはいきませんでした。一方試験場では桃、梨、柿園があり蔬菜や芋類を作っていましたから、収穫期には、それを使ってコンパが開かれていました。具体的には、牛車を使って相模湾から海水を運んできて、それを煮立てて塩らしきものを作り(味噌や醤油は無かった)収獲した野菜や芋を使い、配給の小麦粉を練って、塩味の「すいとん汁」を大鍋一杯作り、空腹を満たす「食べ会」で・・・、どんぶりで3杯も4杯も食べた記憶です。満腹というより腹がはち切れる
ほど食べたという感じです。

 上記は、当時の食生活でしたが、戦況の方は厳しさ増していました。相模湾に面した二の宮の町の裏山には、本土決戦に備えて砲台を作る大きな穴が掘られていました。その砲台をコンクリートで固める”砂利すな”を運び上げる町内会の勤労奉仕がありました。肩に食い込む重い砂を担いで山腹まで上げる、辛い仕事でしたが、その時の昼の弁当が「さつま芋2個と胡瓜2本」でした。畑て鍛えた体で一日5回の砂運び終えましたが、歯を食いしばっての労働でした。試験場の裏山には、機関銃座の穴が造られてれており、掘っていた兵隊さんとの交流もありました。
 二の宮では、海に近い町に下宿していました。ある夜(5月?)爆音で眼が覚めました。下宿の2階から海側を見るとB29が超低空で一機づつ飛んでいきます。海岸線に沿って2~300メートル先を・・・と云った感じです。もう東の空は真っ赤に焼けていました。防空壕に入る必要もなく、目の前を通り過ぎるB29を淡々と眺めていました。私は横浜大空襲だったと今でも思っています。
 6月頃になると戦闘機が飛来するようになりました。二の宮の北方に厚木の飛行場がある関係から、飛行場を空襲した飛行機が帰路、東海道線の駅や機関車を操縦士の顔が見えるくらいの低空で3~4回旋回して機銃掃射をしてい行くのが日課みたいな感じになってきました。
 8月7日朝の新聞で「広島の新型爆弾投下!」を見ました。写真入りで今もはっきり記憶していますが、原子爆弾であったという事を知ったのは、可なり?あとでした。8月14日休日(お盆?)を利用して汽車(東海道線)で家に帰ってしまいました。(試験場には無断で)15日深夜の3時ごろ「尾張一宮駅」を降り外へ出ると一宮市は(愛知県で名古屋市・豊橋市に次いで3番目)空襲で焼け野原なっていました。家までは歩いて約2時間ほどかかる思いで・・・歩いていると荷馬車が近づいてきて「坊何処まで行く?」と聞いてくれて、都合よく同じ町へ帰る荷馬車で乗せてもらいました。
 家まで数分ところで荷馬車を降りると、桑畑の続く田舎道で、家のある集落が見えてくると、とめどなく涙が出てきて止まらなくなりました。道端の石に腰かけて涙が止まるまでまちましたが、懐かしいとか、嬉しいという感情ではなく?故郷の意義を強く認識したと思っています。涙がとまり普通の顔になり家に帰ると親がビックリした感じでしたが、何も聞かず、何も話しませんでした。
 朝ご飯を済ますと中学の友達の家を訪ね・・・そこで戦争が終わった事を知りました。今から思うと複雑で非常なシヨックでした。試験場は止めた訳ではなく一週間ほどで帰りましたが、咎められることはありませんでした。73年前の今日の戦中の青春出来事でした。

 

 

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