曼陀羅寺公園の”藤まつり”は、過去3回2014年、2015年、2017年と投稿しています。4月下旬になると、藤まつりが始まるんだと意識するようになり、但し写真を撮りに行くことは”ためらう”気分でした。が 22日何時ものように5時起床・・・朝の担当の仕事をすますと、茶前に畑にでるつもりでしたが「やっぱり藤の写真を撮ってこよう!」とでかけました。自転車で数分の距離で・・・過去すべてこの時間に出かけています。朝日が上がるのに合わせて50枚ほどの写真を撮ってきて、フォトチャンネルを作成しましたが、此処では、曼陀羅寺の由来について触れてたいとおもいます。
曼陀羅寺は、創立正中元年(1324) 元徳元年(1329)完成とされています。約700年前の室町時代中期です。浄土宗の古刹で尾張北部における最も格式高い霊場で、往時は山内に14カ寺寺院を有し、現世も9カ寺の寺院が現存しています。
開山天真乗運上人は藤原師継氏の8男で後醍醐天皇の御母檀天門院の弟の当たる方です。帝の隆盛を祈り、北条氏の調伏祈祷するために詔勅を賜り、乗運上人によって開かれた「後醍醐天皇勅願寺」です。
元弘3年(1333年)北条氏は滅び「建武の親政」はなりましたが、ほどなく足利氏の反逆にあい室町幕府が成立します。しかし、当寺は後醍醐天皇勅願寺故に足利氏家臣で尾張の国大斯波氏の弾圧にあい、寺運は荒廃して約100年にわたる無住時代が続きました。やがて召運上人が第2世住職になることにより寺運も上昇に転じ、寛正3年(1462)「円福寺」から「日輪山曼陀羅寺」に改められました。
戦国時代には、信長、秀吉、家康など時の権力者との折衝よろしきを得て乗り切り、徳川時代になると、幼時に塔頭本誓院に学んだ阿波の国守蜂須賀家政公より正堂再建の寄進をうけました。以後尾張代々の藩主より寺領安堵などの庇護を受けて明治にいたりました。明治維新で、寺領をうしない尾張藩の庇護がなくなりましたが、歴代住職の努力で寺盛は守られました。
昭和20年8月戦争が終わり、戦後復興で世の中が大きく変わり始めると、飛保の縁日も訪れる人も少なくなり曼陀羅寺も忘れられていきました。戦前の賑わいをとりもどそうと、奉賛会を立ち上げ藤の木を植えていき、昭和41年市の管理のもと県の後援を得て藤まつりが開催されるようになりました。12種類60本の藤の木が植わっているのがこの公園の特色で、現在は藤まつりの期間中に数十万人の人が集まると聞いています。私はもっぱら早朝を狙って藤を鑑賞しています。
曼陀羅寺公園藤まつり